中間
中間
僕の高校には七不思議以外にも噂はたくさんある。
馬鹿らしいものから、妙に信憑性があるもの、大きなものから小さなものまで。厄介なことに僕の噂がクラスで広まっていた。
それはある日のこと。本当に具合の悪かった友人が、保健室に行っても僕の姿を見かけなかったことが原因。
お小遣いを浮かすために、昼食にパンを買わず、母親の作った弁当にしたため、服の下に昼飯を隠し持っているのがばれてしまった。
『お前、今日めっちゃ腹出てるじゃん』
友人の疑心に言い訳する暇もなく、弄られ発見されてしまう。
カタッ。それは無機質なアルミ製の箱が机に置かれる音である。
机に注目する友人一同。あたりに気まずい空気が流れる。
今だけ彼らの心が読めるようだ。
『便所飯か?』
『でも俺等というダチがいるだろ』
『もしかしてこいつ俺等のこと嫌い?』
『昨日も一緒に放課後カラオケ行っただろ』
『じゃあなんで……』
静寂。
―今だ。
すっと机の上にある弁当箱を掴む。
友人一同が一斉にこちらを見る。
「この弁当―母さんが作ったんだ」
顔を曇らせながら、ぼそっと呟く。そして、弁当を服の下に隠しながら教室を後にした。
((あいつの母ちゃん、料理下手くそなんだ……))
噂は広まり隠さなければならない程の弁当を抱えているということになった。
ごめんね母さん。
「美味しそうなお弁当ね」
彼女は噂を知ってか知らずか、含みを込めた笑顔を僕に向ける。
「君はよく笑うね」
僕はむすっとしつつ、昨夜の残りである焼き秋刀魚の身をほぐし頬張る。秋だからと連日続く旬物に、いい加減いらいらしてくる。
「楽しい時に笑えないなんて人生勿体ないでしょ」
サンドウィッチを片手に持ちつつ、もう片方の手で口元を押え、笑いを隠す。
正直な人だな、と僕は少し羨ましく思ってしまった。
視線を外に移す。空は独立した雲が多く、大きな雲から引きちぎらなくても、一個の雲を使うだけで良い形を作れそうだ。
「今日は何を作るのか決めてきた?」
彼女も外を見つめて言う。机を挟んだ先にある、その綺麗な横顔が、数分後には目と鼻の先にあると思うと、今から心臓がばくばくと音をたてる。
「最近動物ばかりだったから、今日は食べ物にでもしようかな」
僕は秋刀魚を箸でほぐしながら言う。
「食欲の秋ってことかしら。秋刀魚でも描くの?」
「見ればわかるさ」
水筒の中のお茶を一気に飲み干し、ベランダへと向かう。
外は風が吹き薄ら寒く、豪快にくしゃみをする。くすくすと笑う声を無視し、冷えたコンクリートの床に身を任せる。
先程目をつけていた雲は、すでに遠くに流されてしまったので、新しく手ごろな雲を探す。
一度、弘法筆を選ばず、と彼女の前で知ったかぶりをして、粗悪な雲で描いた作品を彼女に全否定され、その日のお絵描き勉強会はお開きとなったことがある。慎重に選ばねば。
薄く、空の青みが透けて見える雲は、水分を多く入れた小麦粉の様に、うにぃやと変な擬音が似合う千切れ方をする。
ふっくらとした雲。とにかくそれを探す。
起き上がるのは億劫なので、寝返りをうちつつ空を見つめる。
見つけた。
アンパンのように、ぷくりと丸い、良い雲だ。
少し遠いが、出来上がる頃にはこの学校の上空を通過するだろう。
雲の端をつまむように指を動かし、上側を少し伸ばす。反対側を少し凹ませて『お尻』を作ってやる。早いがこれで完成。
「え、どの雲?」
昼食を終えた彼女の第一声がこれだもの。僕はため息を吐きつつ返答する。
「今、近くの雲で矢印作るから」
僕が雲を動かせるようになってから、一番多く作るのが矢印。どれが改良した雲かわかりやすくするためだ。……基本的には僕が改良というと改悪と言われるが。
彼女に、矢印描くのが上手になったね、と褒められた時は素直に喜べなかった。
「……りんご?」
彼女が訝しげに見下ろしてくる。
「確かに美術に携わる人なら嫌というほど描かされて来たけど。あくまでデッサンで描くのであって、楽がしたいから描くわけじゃないからね」
今度は僕の横に腰を下ろし、説教めいた口調で彼女が言う。
「……梨だよ」
「梨? 梨かぁ……」
ああ、そんな顔もするんだ。
でもやめてくれ。いっそのこと怒ってくれた方がましだ。
「正直わかんなかった」
公害と言ってもらえるだけマシだということが今わかった。雲は形が無いのが自然。彼女は、その雲に形を持たせ、何かを連想させたら人工物として機能すると最初の頃に言っていた。公害と言われない作品は、形のない粘土と一緒で、そこにはなんの価値も感慨もないのだ。いや、まぁ前衛的な芸術とも捉えることは可能だけども。
「今日は趣を変えてみようか」
「……うん」
体育座りで凹む僕に優しい声で話しかけてくれる彼女。その優しさが痛い時がある。
「風が強くて雲がすぐ流れて行っちゃうから、いつもみたいな絵は描けないでしょ」
本当に優しい声。しかし、寝ころぶ彼女は僕の背中を力強くぐいぐい引っ張る。
「……うん」
意固地になり耐えようとする。素直になればいいのに、僕。そういえばさっきから、僕はうんとしか言っていないな。
さりげなく斜め後ろを見ると、彼女が少しムッとした顔をしていた。
「なら流れても良い作品を描こうか」
首を傾げる。
いつも作った作品は流されてしまうのだから関係ないのでは?
言う前に、貧弱な僕はついに彼女の引きに負けゴロンと後ろに倒れ込んでしまった。
「わっ」
ふに、と後頭部に柔らかい感触が。
一瞬、理解が出来ず横を見る。
腕…………枕!?
寝転んだ僕は、彼女に腕枕をされている状態になっていた。いつもより近い彼女の顔に緊張し、慌てて横に転がり彼女から離れた。
「わわわ」
『柔らかかったぁ』等と、思春期の男子高校生の如く変態面する間もなく、彼女も転がり開いた距離を縮めてきた。思わず『ひぃっ』と情けない声を出してしまう。
そしてそのまま彼女は僕の右手を掴む。
突然のことに、僕は子犬の様に震え、怯える。
「君の指は!?」
「へ?」
「指!!」
思考が追い付いていない。今日の彼女はちょっと怖い。
「いつか言ってたじゃない、指は筆って」
「え? あ、ああ」
言ったような、言ってないような。そんなことより掴む手が痛い痛い。
「雲は?」
やばい。えっと。
「絵の具でしょ」
顎下を掴まれ、無理やり雲の方を見させられる。ゴギっと嫌な音が首の関節から鳴る。
「あっ、ごめんなさい」
「いやいや大丈夫、大丈夫」
首を押えつつ彼女に返答する。痛いのは我慢、とにかく我慢。僕は無傷、僕は無傷。
「そう。なら蒼空は?」
続けるのかよ……。でもさっきのショックでようやく思い出せた。痛みもぶり返してきたが。
「きゃ、キャンバス!」
そう答えると再び笑顔を見せてくれた。癒しが痛みを和らげる。しかし今度はその笑顔が、近い、近すぎる。良薬も取りすぎれば毒薬に等しい。肩もいつもより密着してる気がするし。心臓が悲鳴をあげる。
「今まで雲を使って描いてきたけど、背景は考えてなかったよね」
「背景?」
思考をそちらに向け、とりあえず余計な煩悩はカットする。
「蒼空の青さを使ってなかったってこと」
言われてみて、ああ、と声を出して納得する。
「言うなれば、あなたの絵は真っ白なキャンバスに黒い筆で絵を描くわけではなく、そこにある粘土の形を変えているだけなの」
「そっか。言われてみると僕の作るモノは絵画というより工芸だったね」
「そう。だから今日は背景も入れてみない? それに今まで単体でしか作ってないでしょ。いっぱい作って蒼空を本当の意味でキャンバスに変えるってのはどう?」
いっぱいの作品を空に浮かべ、空の青さを背景にする。
確かに今までにない考えだ。
たくさんの物―生物の群れかな。
背景が青―水しか浮かばないや。
となれば、この時点で何を作るか絞られてくる。
「陳腐かもしれないけど海なんてどうかな」
「いいね。でも楽がしたいからって考えじゃないよね?」
「僕にとっちゃ楽に描けるものなんてないよ」
「そうね。さっきの梨は無かったことにしてあげる」
「本当に君は厳しいね」
言ってお互い笑う。笑ってばかりだが、可笑しい時は素直に笑うことにした。彼女の様に。
大蒼空の水族館なんていいかもしれない。雲の流れる様を、魚が泳ぐ様に見ても面白いかもしれない。
そうなると次々と魚を描かないといけないので迅速に動く必要がある。そのため今回は彼女の手は僕の右手を掴んではいない。今、僕の右手は、完全に僕の意思だけで動いている。
「今日は上手く描こうとしなくていいよ。いかに早く特徴を捉えて描くかも大切なことだから」
それだけ言うと今日は他にアドバイスをくれなかった。だから僕は僕が思う様に描き続けた。
雲を細長く伸ばし、流れの向きに合わせ口と尾を作る。
時間がないのであまり繊細には作れない。大きさもまちまちだし、形は歪だ。
だけど彼女は文句を言わず、にこにこと蒼空を眺めていた。
いつも通り横にいて流れていく魚群を眺めていてくれた。
―ああ、そうか。
彼女の言った『流れてもいい作品』とはそういうことか。
結局彼女は、僕が考え付くことなんてなんでもお見通しなのだ。
そして彼女の微笑む横顔を見、蒼空を再び眺めると魚が流れに従い、泳ぎ、消えていく。
どうやら流されてばっかりなのは僕の方だったみたいだ。
彼女に良い様にされている。
だが、それを心地良く思ってしまった時点で僕の負け。
自嘲気味に笑い、授業開始のチャイムが鳴るまで僕は魚を蒼空に描き続けた。
◆
三年とは長いようで短いもので、ついに明日この高校を卒業する。幸い僕と彼女は進路も決まっており、慌てることなく高校生活に幕を閉じることが出来る。
卒業式の練習を済ますと、いつもの様に美術室で昼食をとった。慣れなかったこの匂いも、いざ嗅げなくなると思うと、感慨深いものがある。彼女とここで食べるご飯も、これで最後。なおさら心に来るものがある。
母親の作るいつもと変わらない弁当を片手に、僕はベランダを見つめていた。彼女も外を見て軽くため息を吐いた。
「今日も無理そうね」
「そうだね」
僕は彼女の顔も見ず、こくりと頷いた。
二月の下旬から天候が崩れだし、今日も空は曇天だった。雷雨が酷く、ベランダは水浸しで、とてもじゃないが寝転ぶなど出来そうも無かった。雲はぐねぐねと気味悪く蠢き、世界を黒に近い灰色に染める。
僕の嫌いな天気。
明日は、明日こそは絶好のキャンバス日和であってほしい。
大学受験が終わり、久々にのんびりと蒼空に落書きが出来ると思っていたのに。あんまりだ。
彼女も心なしか沈んでいる様に見える。
ふぅ、と彼女がため息を吐いたので、慰めの言葉を必死に考える。
「あなたってこういう日は役にたたないのね」
心臓がキュッと音をたてて締まるのを感じた。
人が同情したら、すぐこれだもの。
「こういう日こそ役にたつ力だと思ったのに。七不思議も廃れるわけね」
彼女の皮肉のこもった笑いを、この先何回見られるだろうか。出来れば普通の笑顔を僕に見せて欲しい。
僕が雲を動かせるのを知っているのが彼女だけなのは、この力を自慢できないわけがあるからだ。
「天候も左右出来ればいいのに」
「無理言わないでよ……」
―豪雨の中、右手を空に向ける。五指を広げ掻き毟るかのように手を動かす。右へ、左へ。掻き回す。スクラッチくじを削るかのように、灰色の部分は消えて行く。その先にある幸福を求めて、ひたすら削る。そして暗雲は裂け、その間から神々しく光が差し込む。
そうなると信じ、彼女の前で披露したのが二年前。
実際はこうだ。
指を動かし、遥か上空の雲を掻き回す。しかし幾重にも重なりあった雲は、少し動かしても、また別の雲がそこを覆ってしまう。いつまでたっても暗雲が上空を漂い、雨にうたれてすぎて僕は寝込んだ。
雲を動かせても、天候を左右することまでは出来ないと知る。三日後に完治して学校に行った時の、彼女の嘲笑するような顔が忘れられない。
しかし、そこまで万能だったら、こんなところで高校生なんてしていない。枯渇した地に雨を降らして、ノーベル平和賞とかをもらっている。そしてウハウハしているはずだ。
などと回想兼妄想に浸っていると彼女が、可哀そうな人とでも言いたそうにこちらを見つめる。
「う、海辺で砂を掘っても波が来て埋めちゃうようなものなんだ。自然とは人間にはどうしようもない大きな力で出来ているんだよ。ああ、偉大」
言い訳をする。
「やっぱり駄目じゃない」
当然の反応。
「い、いいじゃないか。僕はあくまで人間であって崇める対象じゃないよ」
ノーベル賞云々の妄想はこの際ノーカウントである。
「誰も崇拝するとまでは言って無いじゃない。あ、思い出した。日本史で雨乞いの祭を知って、にやにやしていたよね」
予想外の傷を負っていたことに気付かされる。いったい僕はどの時代の民族に好かれたかったのだろうか。
「降らせたまへーだっけ?」
彼女は大袈裟に手を上下させる。
「うう、頼むから心の傷をえぐらないでくれ」
「ふふ。一応恥じてはいるのね」
彼女は笑う。声を出して。遅れて僕も笑う。彼女と同じように。可笑しくて。可笑しくて。
でも、心は晴れない。
この瞬間が永遠ではなく、もうすぐ終わるという事実が頭から離れないから。
彼女は再び外に顔を向け、愁いを帯びた瞳を見せる。
「本当に残念ね」
「そんな落ち込むなよ。大学に行ってからでも時々会って御教授願うよ」
「そんな約束軽々としちゃっても大丈夫?」
「どういう意味?」
「本気にしちゃうよ」
笑顔。でも、裏に秘める感情までは僕は読み取れない。
「本気だよ。僕は社交辞令が苦手だもの」
僕も笑う。本心からとは言い難いけど。
最近、笑いたい時以外にも笑わなきゃいけないことが増えた気がするな。
彼女とは通うことになる大学が違い、県も異なる。会えるのは年に数えるほどしかないだろう。その年に数回が本当に果たされるかもわからない。
お互い長い間横に並び過ぎた。はたから見れば良い関係に見えただろう。だが僕らは明確にそういう仲になったわけではなく、いまだ曖昧なままだった。ただただ 横に居た。そこから先、交わろうとしなかった。
確かにそういう目で見なかったわけじゃない。恋い焦がれて眠れない日もあった。でもそこから踏み込む勇気は僕にはなかった。
今の状態が心地良かったから。
けれども、ここで何らかの行動を起こさねば、僕らは一生このままだ。いや、数年後には別々の道を延々と進むことになるかもしれない。終わるから美しい。でも、最近は汚くても良い、だから終わらないでいて欲しいと思ってしまう。
卒業式は明日。明日で今日までの僕らの関係は終わる。それをどう捉えるか、だ。
晴れない。
心にもやもやとしたものが、いつまでも付きまとう。一緒の大学に行ければ、こんなもやもやとした感情はなく、心からの笑顔をして彼女と一緒に居られた。でも、僕らの夢は違い、別々の夢に生きようとした。それはしょうがないことだ。
僕は僕。彼女は彼女。別々の人間なのだから。別々の道を生きたくなる。
それでも一緒にいたいと願ってしまう。
だから苦しむ。
苦しんで、苦しんで、心に晴れない雲を覆う。
心のもやもやを晴れる見込みのない暗雲に例えた最初の人間は誰なのだろうか。 その人も晴れ渡る蒼空に希望を見出し、曇天の日には心を痛ませていたのだろうか。
心は空模様に似ている。
だが、それは僕にとっては皮肉でしかない。
僕には雲を動かせても、空を操る力なんてない。
それは他人の感情に変化をもたらせても、心までは動かせないと言われているようなものだ。
でも、それでも。望んで良いだろうか、別々の道を歩もうとする彼女の心を引き寄せることを。
離れていてもずっと一緒にいられるように。
そう言う意味では別々の進路を選んだのは良かったのかもしれない。
延々とただ隣にいるだけの関係に終止符を打てるのだから。
そうと決めれば行動あるのみだ。
僕は一呼吸し、言葉を放つ。今まで言えなかった言葉を彼女に伝えるために。
「あのさ―」
そこから先は言えなかった。彼女が僕の口元に右手を添えたからだ。
「だめ」
出鼻をくじかれたうえ、決意をふいにされ驚愕する。
なんでなんだ。
「言いたいことは顔を見たらわかるから」
そう言われ、僕が伝えたいことが彼女に伝わっていると知った。それならそれで先程の言葉に不安になる。
「何でだめなの?」
恐る恐る聞く。自分でも解る。いまの姿は恰好悪いと。
彼女は、ふふっと聞こえるか聞こえないかの笑い声を口から発すると、先程とは違い嘲笑するような笑顔に変わる。
「だって、つまらないから」
「つまらない!?」
驚愕していた顔がさらに驚愕する。最早驚愕という単語しか出てこない。
「……つまらないからだめなの?」
「うん」
がーん、とわざとらしい音をたてて僕の思考は崩れ去った。今まで言われたどの言葉よりも重く、心に刺さる。まさかこんなに良い笑顔で、こんなにも切ない言葉でふられるとは。こんなことで終わるとは。
ふられた僕の姿が滑稽だったのか、くすりと彼女は笑う。
「ヒントをあげる。二月十三日」
「へ?」
すっとんきょうな言葉を発する僕を見て、彼女はまた微笑む。
「二月十三日。三月十三日でもいいかしら。それと十二月二三日。今のあなたがそれ」
「……どういうこと?」
「今日じゃロマンがないじゃない」
にこにこと微笑む彼女の顔を見て、ますます困惑する。
しばらくして、はっとする。バレンタインデーの前日。ホワイトデーの前日。クリスマスイブの前日。
そして、今日は卒業式の前日。
「は、はは、そうか」
「わかった?」
「全部〝そういう〟イベントの前日ってことだろ。君がロマンチストだったなんて知らなかったよ」
苦笑いを浮かべる。だが、内心笑いが止まらない。
「あなたには絵のこと以外も教えてあげるべきだったかな」
そう言って席を離れ、窓辺に立ち空を眺める。先程と変わらない空模様をしているのに、今の彼女は先程とは変わり、嬉しそうな顔をしていた。
「明日は晴れるといいね」
「そうだね」
僕も彼女の隣に立ち、空を眺める。どこまでも濁った空模様が広がっていたが、僕の心はすでに晴れきった様に明るく、どこか暖かかった。
◆
今日は卒業式。
神様が僕等の願いを叶えてくれたみたいだ。
綺麗に晴れた。
快晴だった。
雲一つないほど…………。
希望からの失望。それが絶望。
「卒業式だからもっとしゃきっとしろよ」
ばしばしと背中を叩かれる。男友達からのボディタッチに心躍ることはなく、ただ痛いだけである。
しかし友達にもわかってしまうほど凹んでしまっていたみたいだ。
「ほら、お天道さんも俺等の卒業を祝っているじゃないか。見ろよこの天気。サイコーだぜ。門出を祝うにはこれ以上ない天気だぜ。ほら眩しいだろ?」
「う、うん」
蒼空には雲は無いが、またモヤモヤとした気持ちが僕を焦燥させる。
「しかし、どこかの可愛い娘が第二ボタンくださいとか言ってこないかな」
すぐに話題を変える友達に、よく三年間も付き合ってこられたと自分を褒めたくなる。
「なんで第二ボタンなんだっけ?」
ころころと件のボタンを弄りながら僕は友達の返答を待つ。
「心臓に近いから、その人の気持ちが一番篭ってるとかじゃなかったか?」
ああ、と納得しボタンを弄るのをやめる。
このボタンにはどんな気持ちが篭っているのだろうか。
三年間を軽く振り返ってみる。
彼女と初めて会った時。
ベランダでのお絵描きをしている時。
夕焼け雲を眺めに歩いた河川敷。
月夜にウサギの落書きをした丘。
お互いの合格発表を一緒のパソコンで見た時。
しばらく感慨にふける。
この三年間、僕の心臓の鼓動をいい意味でも悪い意味でも数千、数万回と早めてくれた彼女の顔が脳裏に浮かんだ。
思えば高校生活の思い出は彼女のことばかり。
そう思った瞬間、顔から火が出そうな程、恥ずかしくなった。
思春期ゆえの悩みや色恋事に無関係な高校生活だと思っていたが、彼女のおかげで無縁ではなかったことに気付いたからだ。
そうなるとこのボタン、彼女に貰って欲しいな。
昨日の反応からして、受け取っては貰えそうだが、過信は駄目絶対。とくに彼女に関しては。
「おい、式始まるぞ」
友達の声にはっとする。
しき? 式?
式が始まる。
式。
式が終わる。
彼女に告白。ここが重要。
今のところ流れはそうだ。
だが…………なんと告白すればいいんだ?
思い返すと、昨夜は彼女の嬉しそうな顔を思いだしニヤニヤしていただけではないか。告白の仕方などまったく考えていない。
何やってんだ僕は……。
式の始まりがもうすぐ。つまんないしゃれだが死期も近い気がしてきていた。
はは、面白いや。
あは、あはは……。
……。
「答えがわかっていてもしたい質問ってあるよね」
美術室で、彼女はいつも通りの笑顔を僕に見せるが、頬が若干赤いのに気付くとなんだか笑ってしまいそうになる。
意外にも式が終わった後、先に声をかけたのは彼女の方だった。
早く早くと急かされ、腕を引っ張られて美術室に連れて行かれる。
式に来ていた母親は、ニヤケ面をして僕等を見送った。
そう言えば母さん、あなたの料理は『呪術と錬金術の負のハイブリット』と、中二病が抜けきれなかった連中から崇拝されていますよ。
まぁ、青春を謳歌したいがための行動がその結果に繋がったんで、全部僕のせいなんですけどね。
でもそのおかげで今あなたはニヤつけるんだから許してくれますよね。
そう言えば、美術室の外でニヤニヤと僕等を見つめる僕の友達と、彼女の美術部仲間をどう追い払おうか……。
「……質問ないの?」
君も君だ。怯えないでくれ。どこかクールな印象があった君は何処に行った?
「ベランダに行こう」
彼女の手を引っ張る。陰でニヤニヤしている連中に睨みを利かせ、外に出る。着いて来るなよ。
いいかげん、今度はこっちの番だ。多少強引にでも彼女を引っ張っていく。
「よし、乾いてる」
水気が無いことを確認すると僕は早速寝転んだ。彼女がいつも通り僕の右側に寝転ぼうとするのを制止し、床に制服を引いて僕の左側に寝させた。水気はないとは言っても、三月。床は冷たく寝転ぶと身体を冷やしてしまう。まぁ、カッターシャツのみになった僕のことはこの際どうでもいい。
「どうして左側なの?」
「今日は絵を描くわけじゃないからね」
「でも寝転ぶんだね」
「わけがあってね」
僕は右手で蒼空に絵を描く。そしていつも彼女の温かい手が僕の右手を掴んでいた。
けれど左手は、いつも淋しそうに冷たい床にあった。優々と動く右手と、ただ置かれるだけの左手。今日の主役はその左手だ。
「色々考えてたんだ君にする質問」
嘘は言っていない。式の間にずっと考えていた。おかげで校長先生に三回も名前を呼ばれても気づかず怒られてしまった。
「校長に怒られて全校生徒に笑われていたけど、良い質問は浮かんだ?」
そうだよな。隠し事なんて僕には無理か。
「うぐ。う、うん。でも悩んだよ。雲を使ってアイ・ラブ・ユーなんて描いてキザな告白をしちゃおうなんて案まで浮かんじゃって」
「それは引くし、本当の意味で公害ね」
全否定する彼女。
今日、雲が出てなくてある意味良かったのかも。嫌な汗が額から耳側に流れていく。
「今日は雲が出てないよね」
「そうね。少し……本当はすごく淋しいな」
高校生活最後の日にお絵描き出来ないなんて、と彼女は顔を曇らせてつぶやいた。
「僕もだ。すごく淋しい。今日みたいな日が僕を普通の人にしちゃうから」
「雲が無くて動かせないから普通の人になっちゃうってこと?」
曇天の日でも雲を掻き毟ることくらいは出来る。だが雲そのものが無い日はどうしようもない。
「うん。そう思ってた。でも雲を動かせても僕は、皆と変わらない普通の人だったことに気がついたんだ。失敗はするし、笑うし、恋を覚えてワクワクもする」
彼女が恥ずかしそうに視線を逸らす。
微笑ましいな、と思う反面、ちくりと胸に何かが刺さるような痛みが襲う。
「……どうってことないただの男の子なんだ」
彼女は黙って僕の話を聞いてくれていた。
僕は彼女の期待にそえられそうにないのが申し訳なかった。
それでも僕は、僕の思いを伝える。
「だから、特別な告白なんて僕には出来そうもない」
落ち着いていた。いつもの様に、鼓動が早くなることはなく、ただ流れるように、そうなるのが当たり前の様に口が動いた。
「僕は君が好きだ。これまでもこれからも」
これは質問じゃ無い。ただ僕の思いを伝えただけ。僕にとって必要なのはこの次の一言。
「遠距離になってしまうけど、僕と付き合ってくれないかな?」
彼女は答えを口に出さず、僕の左手をぎゅっと握った。
「答えを教えてくれないの?」
僕はいささか意地悪く聞く。
「答えのわかっている質問をすること程無意味なものは無いと思うけど、それに答えるのも無意味だと思うの。言わなくてもわかってくれるでしょ」
ずるいな。といつもの僕なら退いていただろうが、さっきも言ったが今は僕の番だ。
「答え合わせしなきゃ、先には生かせないよ。それにテストで採点しない先生はいないだろう」
「……意地悪」
たまには強引にいっても良いじゃないか。
僕は、君の口からも聞きたいのだから。
彼女は一呼吸し、口を開いた。
「答えはうん。―でも点数は二十点ってとこね。ぜんぜんロマンチックじゃないもの」
「採点するの!?」
「答えは合っていても過程がてんで駄目だったってことよ。変な例えもしてきたからその罰。どうせ雲がないからって適当に考えたんでしょ?」
「ひ、酷い。一世一代の告白をなんだと思ってるんだ」
「一世一代?」
ぷっ、ぷぷぷ、と彼女らしくない笑いをし、彼女の顔が真っ赤に染まった。
「そう、一世一代なのね。じゃあ期待を込めて五十点上乗せかな」
「なんで二倍以上も?」
「一生に一回しかしないんでしょ。無下にはできないじゃない」
よくわからないが、なんだか満足そうな顔をしているので良しとするべきなのか?
ただ、今わかるのは晴れて恋人同士に成れたということだ。
恋人……。
そ、そぉかぁ恋人かぁ。
あ、あれやばいなぁ。
なんだか、緊張、してきた。
えへ、えへへ。
えへへへへ。
「とりあえず第二ボタンもらうね」
彼女が半身を起こし、寝ている僕のボタンを外す。傍から見たらすごい絵面である。友達連中を追い払っといて良かった。などと冷静に考えるがちょっとおかしいぞ。なんでこんな冷静に、作業的にとっていくんだ?
「そこはもっとロマンチックにもらうものじゃないの?」
「ロマンと形式は違うの」
「違いがわかんないよ」
「これから教えてあげるから安心して」
魔性の微笑。ああ、なんと力強く麗しき微笑み。堕ちてもいいかな。
「よろしくお願いします」
引っ張るよりも、導いてもらう方が僕にはぴったりなのかもしれない。
情けないが、彼女と言う風に乗せられ、流される僕と言う雲。ポエムみたいな、そのフレーズが頭をよぎり、頭を振って否定する。
「今はまだ、君に良い様にされてるけど、いつかは僕が引っ張っていくから!」
「突然どうしたの? でもまぁ、期待して待っててあげる」
彼女も満更ではなさそうだ。今までの関係から一歩進むために今日は頑張った。 それだけでも明日からを生きていける。
でも僕はもう一歩だけ進みたかった。
決意を胸に、左手をじっと眺めた。
彼女も僕のその様に気付き、思案する。
「そう言えば、絵を描かないからってどうして左側にいなきゃいけなかったの?」
そう、今日の主役はこっちだ。
「形式とかロマンとかよくわかんないけど、言いたいことがあったんだ」
あえて勿体ぶって言う。彼女も意図に気付いたのか、言葉を待つ。
「いつも君は、僕の右手を握ってた」
「そうなるね」
心もね。なんてキザな言葉が浮かんだが、一蹴し、場外に押し出す。調子にのるから彼女にあざ笑われるんだ。
「これからも握ってていいんだよね」
「え、そうだね」
「絵を描くとき以外もね」
なんて爆弾級な言葉をさらりと吐くんだ。
僕は照れ臭そうにうん、と頷くと、話を続ける。
「僕の右手は人とは違ったことが出来た。でもそれが僕の全てでは無いんだ。僕はあくまで普通の男の子。だから僕を知るには、この手だけを見ないでくれ」
「別に私はその手だけであなたを好きになったわけじゃないから、安心して欲しいかな」
「そ、そうだよね」
「独占はしたいけどね」
彼女が小さくつぶやいたのを僕は聞き逃さなかった。でも、別に僕はそれでも良いかな、と早速惚気てやりたくなるのを我慢する。
今、ペースを崩してはダメだ。流れに乗る必要がある。流されるだけでなく、自ら流れを作ることも。
「独占、か。ちょうどいいや。言いたいことってのはお願いなんだ。僕の右手だけじゃなくて、左手も君が握っていてくれないか」
「左手も?」
「約束がしたいんだ」
左手の約束。厳密に言えば、右から四本目の指の約束。
今度はかなり勇気を出した。
時期尚早なんて理性が言ってくる。
でも、いつかはそうなる。そう信じて。
違う大学に行っても、その先はまだ決まっていない。
なら、違った人生をもう一度繋げても良いはず。
千切れた雲が、流れに乗って再び結合するように。
だが、流れに乗るだけでなく自ら流れを作れるのが僕らと雲の大きな違いだ。流れに従うだけが人生じゃない。時には流れに逆らって生きても良い。
ただ僕その流れよりも早く動こうとした。いずれそうなるのなら、早くても遅くても違わない。自分勝手だが、嫌とは言わせるつもりも無かった。
彼女の顔がほころぶ。柔らかな笑顔と言ったらいいだろうか。
それから照れた苦笑いに変わる。
「えーと、それは約束じゃなくて予約ってことでいいのかな」
「う、うん。今度はクサすぎたかな」
よくよく考えると寝転びながら何を言っているのだろうか。寝転んでのプロポーズなんて、それこそロマンも何もあったもんじゃない。
「な、何か言ってくれないか」
「ぷ、ふふふ」
彼女は、堪えきれなかったのか声を出して笑う。
「すごくダサい。でも、嫌いじゃないよ」
そう言うと僕の薬指を右手で握った。
「よろしくね」
「こっちこそ」
そう言うと、二人で蒼空を見つめた。このまま互いに顔を向き合わせていると、赤面し、とてもじゃないが冷静ではいられないからだ。
しかし、二人で見つめた蒼空は薄い青色が一面に広がっているだけ。端っこで輝く太陽がどこか虚しく見えてくる。いつもはそこに浮遊するものがあるのだが。
「……やっぱり」
「ん?」
横目で彼女を見る。少し寂しそうな瞳が視界に入る。
やはり先程のプロポーズじゃ満足出来なかったのだろうか。
「何も無い蒼空って物足りないね」
どうやら僕は悪くないみたいだ。
「そうだね。雲があれば、リングでも描こうか?」
「さすがに本物が欲しいかな」
「頑張ります」
絵に描いた餅じゃ腹は膨らまないのと一緒か。
蒼空に思いをはせるのも良いけど、地に足を着けて頑張るのも大事。
それでも、今はまだこうして蒼空を眺めていよう。
せっかく昨日までとは違った空模様を描いているのだから。
「さすがにそろそろ起きなきゃ」
僕が言う。戻らないと友達がよからぬ噂を立てかねない。
起き上がり彼女の横に立つ。
「もうちょっとだけ」
いつぞやの僕みたいに、彼女がぐずる。
そりゃあ、こっちだってもっとこの時間を堪能していたいさ。
「ほら、手を貸して」
そう言い起こそうとする僕に彼女は左手を差し出した。そしてピンっと薬指を立てる。
「私、握り返されてない」
『?』と疑問符が頭に浮かぶ。
「いつもこっちが握ってるだけでしょ」
……そう言えば、いつも右側にいる彼女は僕の手首を掴んでいて、僕は握り返すことが無いような。
「はは……これはなんとも」
僕は今度は彼女の左側に回り、再び寝転んだ。
いつも通りの立ち位置。いや、座り位置。それもちょっと違うか。寝転がり位置に。
「起きなくていいの?」
君のせいだろうに。
「やっぱりもう少しこうしてようか」
折れたのとは違う。僕の中においての優先順位が断トツでこっちだっただけだ。
「うん」
僕は、嬉しそうに笑う彼女の左手をぎゅっと握った。
雲の様に、千切れないように、別れないように。
そして、離さないように。
えそらぐも ~青空に猫を描け~ テン @ten1028
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます