はじまり・おわり
「ん」
私は彼に微笑する。彼も私に微笑し、いつも通りの簡単な挨拶をすますと、私の後ろにある扉に手をかける。そこはベランダになっている。美術部ではない彼には、ここが本来何に使うためのモノかは知らないだろうが、今からここが彼の仕事場になる。
ここが七不思議の発生源。心から欲している物の形になるなんて誰が言い出したのかは知らないが、私はその話は嫌いではない。蒼空に希望を見出すなんてロマンを感じるから。
彼はいつも通り寝転び、右手を空に向ける。
私は、弁当の残りを咀嚼しつつ、その様を見つめる。なんと嬉しそうな顔をして描くのだろう。見ているこっちまで嬉しくなってしまいそうだ。なんだかその笑顔を曇らせてみたくなって、心にも無い悪口を言う。
彼は少しムッとするが、まだまだへたくそな絵なのは否めない。
彼の横に寝転ぶ。こんなコンクリートの上で寝転んでも気持ちがいいはずがない。それでも、彼といられるのなら、このくらいの我慢、屁でも……女の子がこんな下品な言葉を使うのもなにかな。このくらいの我慢どうってこともない。
「指、貸して」
返答を待たず些か強引に彼の右手首を掴む。そしてそのまま彼の腕を動かし、先程のイグアナの雲の横に新たに雲を集め、猫を描く。
「犬の方が好きなんじゃなかったの?」
「そしたら、君の為にならないじゃない」
くす、と微笑んでみせる。
しばらく、彼の右手首を掴んでいるとあまりにも脈打つ力が強いので笑いが堪えられなくなる。私が笑い出したので慌てる彼に、
「緊張しすぎ」
と一言告げる。本当のことを言うと、私も少し緊張している。それでもなんだか彼より優位に立ちたい気持ちがあった。
「あの猫を模写してみて」
彼は言われた通り手を動かすが、先程のイグアナの雲を崩そうとしたので、またイジワルなことを言って、余所から雲を持ってこさせる。
私は彼に絵を教えている。美術の先生の様な本格的な教えではないが、彼は少しずつだが上達しているし、身についていると思う。部活はしたくはないくせに絵のことを知りたいという、彼の我がままに付き合ってあげている。
褒めて伸ばす、そうしてあげたい気持ちはあるが、下手に自身をつけて、二度と来なくなったら私が寂しくなる。この心地良い時間を失うようなことはしたくない。
しばらくして雲に二匹の猫と一匹のイグアナが浮かび上がった。
「お疲れ様」
そう言い寝そべったまま伸びをする。彼といるとどうにも緊張してしまう。少しはリラックスせねば。
さて、いつものあの一言を言っておこう。
「明日はもっと上手くなってるといいけどね」
〝明日は〟というフレーズをつける。明日も教えてあげるという気持ちより、明日もこうしていたいという気持ちが強かった。
こうしていつも約束する。
明日も一緒にいようと。
雲は流れていくのが自然で、その雲を無理矢理動かして絵を描いている。彼は雲を動かすことは出来るが、その場に留めることは出来ない。
せっかく描き終えた猫は、いずれ大空に吹く風によって流され、じわりじわりと形を崩していく。彼の描いた作品は残ることが無い。私が教えたことも形としては残らない。滅びの美学。解りたくもないそれが、わかりつつあり、そして嫌いだった。消えてしまうから美しいのだと。わからないでもないが、それでも胸が痛む。
ただ、二匹の猫がつがいのように一緒に流れていく中、不恰好なイグアナが二匹の後を追う子供の様に見えて、なんだか胸が暖かくなった。
「授業始まるよ」
「もうちょっとだけ」
私もそうしたかった。でも……。
「私は嫌。こんな固い床に寝そべっていたら、背中痛くなっちゃうから」
余韻も残さず、颯爽と立ち上がる。このままいたら、ずっとそうしていたくなってしまう。どこかで踏ん切りをつけなければ。
背中を掃いつつ、彼が起き上がるのを待つ。起き上がると、彼の背中をパッパと叩く。十七にしては大きな背中に、少しドキッとし、照れ隠しに少々きつく、
「早くしないと置いてくから」
と言い、ベランダを後にする。
少しの間、先を歩いていたが、すぐに彼は追いつき、私の横に並んだ。ここで突然、手をつないだら彼はどんな顔をするだろう。赤面してこちらを凝視するのだろうか。ただこちらも赤面しかねないので試す気はない。
気恥ずかしさがあったが、私は現状を気にいっていた。このまま横を歩いていてほしい。先に行ってしまわないで欲しい。置いていかないで欲しい。
七不思議のとおりなら、あの雲は私が心から欲しているモノの形なのだろうか。
それなら、このまま二人。あの猫の雲の様に。一緒に並んで歩いていけるように、流れていくように。
――いつかは不恰好なイグアナも連れて。
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