おわり

 私は願っていた。あの人が空に描くモノを、いつも隣で見ていたいと。

 幸せだった。当たり前のようにあの人の隣にいられた日々が。燃えるような劇的な恋をしたわけでもなく、二人を引き裂く困難が待ち構えていたわけでもない。自然に流れるように、いつも隣にいられた。

 その当然に慣れてしまった私は、あの人と一緒にいられなくなる日がくるのが怖かった。

 恐れていた日は、優しく、自然にやって来た。

 幸せな別れだった。これ以上無いくらい。

 あの人の最期を私はどう見ていたのだろう。在りし日の流れていく雲を見つめるように、消え行くのを惜しみつつ見つめていたのだろうか。

 いつまで見えていたのか、いつ消えたのか。あの人も、流れる雲の様に、静かに消え行った。

 それで良かったのに、これ以上願う事なんてないのに、それでも私は、あの人がいなくなったことが耐えられなかった。

 あの人と過ごした日々を、私は生きたかった。

 もう一度。

 いや、何度でも。

 私は願ってしまった。あの人が空に描くモノを、いつも隣で見ていたいと。



「いい加減にしてくれ」

 部室であの人を待つ私に、初老の男が話しかけてくる。美術室には私と彼の二人しかいない。それでも私は彼の顔も見ず、冷たくなった弁当を口に運ぶことに専念する。あの人が来るのを待っているのだから邪魔をしないで欲しい。後十分もせずにあの人は来る。今日は猫の絵を描く日だったかな。

「これで何度目だ。いつまで願い続けるんだ」

 彼は呆れた顔をし、私の顔を見る。回数なんて関係ない。私が満足するまで、飽きるまで。

「前を見てくれ。繰り返したって無駄だよ」

 前? 前に何があると言うの? 私に残されたのは死だけ。老い先短い私に、未来があるとでも?

「―あなたは私に死んで欲しいの?」

 私は十七歳の少女らしからぬ妖しい顔をして、初老の男を見つめる。

「そんなこと言って……いや」

 一瞬の沈黙。そしてその口が再び開く。

「―これ以上過去を繰り返すと言うのなら、いっそのこと死んでくれ〝母さん〟」

「っ……」

 初老の男―実の息子が私に死ねと言った。苦悶の顔で私を見つめる。私は、箸を置きその顔をじっと見る。六十近くなる息子の、依然衰えぬ眼光に胸が痛くなる。

「思い出は走馬灯の中だけにしてくれ。これ以上、俺達を、未来を巻き込まないでくれ。俺達は未来を生きたいんだ」

「……」

 不思議にも怒りは沸いてこなかった。そんなことより息子の顔が五十代の頃のあの人に似ている点が気になった。それもそうか、当然だ。私とあの人の子供だから。

「母さん。あなたは幸せだった筈だろ。なんで過去を繰り返す。十七の姿に戻って、あの頃の父さんに会って。孫だって生まれた。来月にはひ孫だって見せられた。何が不満なんだ。父さんだって皆に看取られつつ安らかに死ねたのに。何が不満なんだ!?」

 不満か。そんな物あの人と一緒に居た時は感じなかったな。幸せだったんだろう、良い人生なんだろう。それはわかるけども……。

「このままいけば私は幸せに死ねる。そんなことはわかってる。でもそれは、他人が決めた幸せ。あの人がいなくなった時点で私は不幸なの。不幸だったはずなの」

 泣いちゃダメ。後五分したらあの人が、十七歳の頃のあの人が、いつもの笑顔でこの部室に訪れる。そんな時、泣き顔を見せたくない。

「……でもね。ひ孫が出来たって聞いて、私は心の底から喜んでしまった。嬉しかったの。あの人の存在した証拠が絶えずにいるから。喜んでしまったの、あの人がいないというのに。もちろん、あなたが生まれた時もすごくうれしかった。私とあの人の繋がりを示す、最上のモノだもの」

「俺をモノ扱いしないでくれ。それに父さんの遺物じゃなくて、一人の子孫として、俺を、娘を、孫を見てくれよ」

 私は、なんと愚かだったのだろう。あの人の愛した子供すら悲しませて。そう思うと、涙が溢れ出てきてしまった。

「ごめんなさい。とても謝りきれない間、あなた達をそう見てしまった。でもね残したかったの。あなたに理解してもらえるかはわからないけどね」

 息子は何も言わず、ただ私の懺悔を聞く。私を許してくれるのは彼だけしかいないからだ。私が、私の願いが過去に巻き戻しているのを知っているのは息子しかいない。私が願うのを止めた時、私の愚かな行いを知っているのも息子だけ。私の行いを許してくれるのも息子だけなのだ。

「あの人が存在した証を残したいと強く強く思っていた。あの人がいなくなった後もそう思っていたら、あの人が今いないことが、二度と私の前に現れてくれないことがより明確になってしまったの。寂しかった、辛かった。だからあの人がいる時を生きたかった。あの人が残したモノを見ようともせずにね。ひ孫が出来るっていうのに、過去を生きたくなったの」

 いけない。涙が止まらない。解ってる、こんなことをしても何も意味がないって。繰り返したところで何も。

「……私って酷い人よね」

 こんなに泣くのはあの人が死んで以来だろうか。十七歳の頃の大人に憧れた化粧は、涙ですでにボロボロだった。息子は、そんな私の顔を見て哀しそうな顔をし、嗚咽を漏らすと、再び私を睨み付ける。

「そう、酷い人だ。父さんとの想い出を引きずって生きていくならまだしも、世界を巻き込んで何度も何度もビデオの様に再生させる。いくら父さんを好きだからって自己中心的すぎるよ。孫の、ひ孫の成長が見たくないのか?」

 再生させる。そう、それだけ。過去をやり直して新しい未来を築くわけでもなく、ただ同じことを繰り返すだけ。それだけでいい。それだけで私は満足だった。でも、でも……。

「私は、いつまでもあの人の居た時を生きたい。あの人と一緒に生きていきたい。あの人が空に描くモノを、いつも隣で見ていたい。でも……それも今回で終わりかな」

 私は、息子に泣きながら微笑んだ。

「さすがに『死んでくれ』はこたえたよ」

「母さん……」

 息子に近寄るようにいい、手を握る。しばらく見ないうちに皺が増えた息子の手を、何度もさする。大きく、暖かくて心地良い。あの人が残した大切な子。あまりにも蔑ろにしすぎてしまった。

私って馬鹿みたい。

「そうだよね。八十もとうに過ぎたおばあちゃんが、青春の頃の思い出を引きずって、何度も何度も、あの人に会って、恋をして……」

一緒に空に落書きして、笑って、泣いて、子供が生まれてからも、晴天の日には三人で空に落書きして、夕焼け雲に思いをはせて、月の綺麗な晩にはウサギを描いて、雷雨の日にはお家で川の字でお昼寝して、おじいちゃんとおばあちゃんになってからも、二人で散歩して。あの人が亡くなる日も一緒に空を眺めて。それをずっと、ずっと、何度も、何度も……。

「ロマンチストなおばあちゃんだよ」

 息子は、優しく抱擁してくれた。その温もりは、匂いはあの人に似ていて。でも確実に違う、この子なりの温かさがあった。彼の先程まで怒っていた顔から険が取れていた。

「俺も言いすぎたよ。死んだ父さんを今でも思い続けて、世界をも巻き込んでまでも愛し続けようとするなんて、ロマンチックすぎて、赤面するよ」

 いっそ悪趣味な婆さんとでも行ってもらえた方が、良かったのかもしれない。私がしたことは許されることではない。繰り返すだけで進むことのない未来。あの人と出会った日から、私が過去に戻りたいと願ったその日までをただ延々と繰り返す。そこから先の未来を私は閉ざしてしまった。

 それでもこの子は許してくれた。私の愚行を。私の恋慕を。

「まぁ、でも」

 息子が頭を掻きつつ言う。

「実の息子に、親のラブストーリーを延々と見せつけるなんて悪趣味な婆さんだよな」

 思わず笑ってしまった。心の底から。息子も照れくさそうな顔をする。この子は親の期待に応えてくれる自慢の息子だ。そう、あの人の息子だけでなく、私の息子でもあるのだ。

「……そろそろ父さんが来るね」

 何度も繰り返していたので息子もパターンを覚えてしまったようだ。申し訳ない。

「母さん、これで最後にしてくれ。いや今日で最後だ。父さんと一緒に居られるのも」

 最後。すごく嫌な響き。でも、普通の人には最後どころか人生をやり直すなんて出来ない。最初で最後の一回限りしかないのだ。それを思うと、私はいかに甘えていたのだろう。恵まれていたのだろう。

「ええ、わかってる」

 名残惜しいけど。この子達の未来のためにも我がままはここまでだ。

「確かに、父さんは良い人だったよ。俺も尊敬してた。それでも、今度からは父さんの顔ばかり見てないで、ひ孫の顔を見に行こうよ。俺の自慢の娘が産むんだ。絶対可愛いから」

 息子はそう言い笑うと、静かに姿を消した。一足先に未来に帰ったのだろう。本当に良い子に育ってくれた。

 私は幸せだった。それで良いじゃないか。思い出に縛られ過ぎてそれが見えていなかった。

 確かにあの人に今でも会いたい気持ちは変わらない。でも、もう過去を繰り返すことはないだろう。違う願いが出来てしまったから。息子と同じく子供達と未来を生きてみたいという願いが。

良い人生だった。そして未来に戻っても、まだ少しだけその人生を謳歌出来る。本当に幸せだった。



 こちらに向かってくる足音が聞こえる。少々、速足なので間違いない。あの人だ。

 変わらないな。そう思うと少しだけクスッと笑う。

 笑う門には福来るなんて古臭い言葉がある。でも今だけはその言葉を信じよう。こんな泣き顔であの人を待っても、意味がない。あの人は私にとって幸せの象徴。

 それなら笑顔で迎え入れてあげようじゃないか。



「やあ」

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