えそらぐも ~青空に猫を描け~

テン

はじまり

 僕の行く高校には七不思議がある。その一つに、昼休憩に空を見上げ三十秒間目を開けておくと、雲の形が自分が心から欲している物になるというやけに具体的な話がある。ちなみに残りの六つの話は目下制作中だそうだ。

 目を開けていると、雲が動いて形を変えていくのを実際に見たと言う人は結構いる。しかし三十秒も目を開けるのはなかなかに辛いだろう。でも出来ない訳でもないので、挑戦する者が後を絶たない。本当は開けっ放しでなくても良いのに。

昼休憩にその話題が出ると、僕はそっと教室を後にする。友達と一緒に学食に行かないかと誘われても、懐にパンを隠しつつ気分が悪いと言って断る。今やりたいことがあるから。

 教室棟から、部室がある棟への連絡通路を移動する。ふと教室棟の窓際を見ると、目をかっと見開く学友の姿がちらほら見受けられた。笑いを堪えつつ、目的の場所へと向かう。

 彼らの期待に少しだけ応えるために。


 美術室という物は、食事を食べるには向かないと常々思う。絵の具の匂いは言わずもがな、旧世紀からある品々が古臭さを匂いで伝えてくる。そんな空間で食べる飯が旨いはずがない。それでも彼女はそこでご飯を食べていた。

「やあ」

「ん」

 彼女は僕を見て微笑する。いつも通り簡単な挨拶をすますと、彼女の後ろにある扉に手をかける。そこはベランダになっていた。美術部ではない僕には、ここが本来何に使うためのモノかは知らないが、今からここが僕の仕事場になる。

 寝転び、空を見上げる。視界の七割は何処までも青く、残りの三割に白い雲がポツポツ浮いている。絶好のキャンバス日和だ。

そして僕は右手の人指し指を空に向ける。指を右に静かに動かすと、それに付き従うかのように頭上の雲が右に動き出す。雲全体が動くのではなく、綿あめをつまみ、引き延ばすかのように部分的に雲が引っ張られる。そして動かすと同時に形作っていく。僕には蒼空はキャンバスであり、雲は絵の具であり、指は筆である。

雲は青々とした空を横切り、風の流れに逆らい、身を崩しつつ、再び構築し、ついには四肢を伸ばす猫の形へと姿を変えた

 これが七不思議の発生源。僕が戯れに雲を動かしていたのが原因。雲なんてそもそも決まった形がない。だから雲の見方なんて千差万別なのに、それを自分の求めている物が反映されているなんてロマンチストが言うから皆信じてしまった。今更だが、僕に皆の望む雲なんて作れない。自分が描きたいものを、雄大に拡がるキャンバスに自由に描き込む。単なる自己満足。それでも、希望を持ってアホ面を晒す学友に、少しは夢を見させてあげようとお絵描きをする。

 望む物では無くても、雲が動き、しゃんとした形状に変わるので、彼らは勝手に納得してくれる。だから罪悪感も覚えないし、そもそも感謝されることもないので、どこまでも自由に、勝手に、適当にやらせてもらっている。さっきも言ったが自己満足。それでも結構、現状に満ぞ―


「公害」


 ……現状に不満を持つ人もいる。

 食事を食べ終えた彼女が、寝そべる僕の顔を覗く。

 視界いっぱいに広がっていた空が、彼女の不機嫌そうな顔で遮られる。

「いいかげんその言い方よしてくれよ」

「人生に絶望した人が、最後に希望を見出すのは青々とした空。見上げた先にある希望。その空を汚すなんて公害でしかない」

 酷く冷たい言い方をするものだ。

「可愛い猫を描くのが公害かな?」

「猫が嫌いな人もいるし、私は犬の方が好き。それにあれじゃ猫じゃなくてイグアナ」

 言われてみれば、ゴツゴツして尾っぽが長く不恰好である。

「空は皆の物。へたくそな絵で汚さない。へたくそな絵を皆が見上げる空に描くのは、トイレに描かれた落書きよりもたちが悪い。つまりへたくそな絵は公害。これで上手ければ皆を幸せに出来るのに」

「酷い言われようだ」

「上手い絵を描きたいと思わない?」

 立ちっぱなしだった彼女がしゃがんだので、視界を占める面積が大きくなる。彼女の顔が近づき、耳元にかけていた長髪がはらりとたれ、鼻先に当たりそうになる。それだけ距離が近いのだ。心臓が大きな音をたてて鼓動する。

 だが、ここまでは大体いつもの流れ。僕は彼女の所属する美術部に勧誘されているのだ。彼女の発言に、最初の頃は胸を痛めていたが、単なるイジワルだとわかり、少しこそばゆい。

「部活には興味ないんだよ」

 それでも答えは一緒。描きたいものを描きたい時に描く。それが僕のポリシー。まぁ、皆の願いを叶えるために少しは描くけどさ。

「やっぱりか。入部しないくせに毎回、毎回、わざわざここに来て描いて帰る。私を焦らしに来てるの?」

「屋上が閉まってるから仕方ないだろう」

「部員でもないくせに。勝手に利用しちゃって」

「いいから今日も頼むよ」

 彼女は一瞬不機嫌そうな顔をして僕を見つめるが、苦笑いをした後、今度は僕の横に寝そべった。最初こそ風雨にさらされているベランダに制服のまま寝させるのは申し訳なかったが、彼女は特に文句も言わず、寝転んだ。

左を向くと彼女の凛とした横顔が見えるので、心臓の高鳴りを感じる。少しは治まって欲しい。

「指、貸して」

 彼女はつっけんどんにそう言うと、返答する前に僕の右手首を掴む。そしてそのまま僕の腕を巧みに動かし、先程の、認めたくはないがイグアナの雲を、きちんと猫の形に作り替えた。

「犬の方が好きなんじゃなかったの?」

「そしたら、君の為にならないじゃない」

 くす、と微笑む顔にくらりと来る。今なら心臓が止まってもいい。だからこれ以上音をたてるのは止めてくれ。

 自身の臓器と葛藤を繰り広げていると、右手首を掴む彼女が小さく笑い出した。笑われる要素がどこにあったのか焦りつつ、思いめぐらす。脳が急に舞い込んできた仕事に対応できないでいる。

「緊張しすぎ」

 その一言で納得する。脈拍だ。血管、このチクリ魔め。

 彼女は一通り笑い終えると、再びいつもの凛とした顔で僕を見つめる。

「あの猫を模写してみて」

 言われた通り、余所から雲を持ってきて模写をする。素人でも描きやすいように、猫は比較的シンプルに描かれていた。たまにこういう優しさがあるから、彼女のことは嫌いになれない。

 僕は彼女に絵を教わっている。美術の先生の様な本格的な教えではないが、少しずつだが上達してるし、身についていると思う。彼女は、部活はしたくはないが絵のことを知りたいという、僕の我がままに付き合ってくれている。

 しかし、いつまでたっても、『公害』の一言。褒めて伸ばす、そんな言葉は彼女の辞書には無いようだ。

「もう少し、全体に丸みをおびさせてみて」

「こう、かな」

 彼女から教わった好きではない表現だが、顔に出来たにきびをつぶさないようそっと触れるかのように、指を動かす。雲が少しずつ伸び、滑らかな曲線を描く。

 しばらくして雲に二匹の猫が浮かび上がった。

「今日はこんなところかな」

「お疲れ様」

 彼女は寝そべったまま伸びをする。僕に教えるのは、そんなに疲れることなのだろうか。

「明日はもっと上手くなってるといいけどね」

 言っていることは少し冷たいが〝明日は〟というフレーズに少し顔を綻ばせてしまう。明日も教えると、そう言ってくれているから。


 雲は流れていくのが自然で、その雲を無理矢理動かして絵を描いている。僕は雲を動かすことは出来るが、その場に留めることは出来ない。

 せっかく描き終えた猫は、いずれ大空に吹く風によって流され、じわりじわりと形を崩していく。僕の描いた作品は残ることが無い。彼女に教わったことも形としては残らない。滅びの美学。解りたくもないそれが、わかりつつあり、そして好きだった。消えてしまうから美しいのだと。それでも少し胸は痛む。

 ただ、二匹の猫がつがいのように、一緒に流れていく様は見ていてなんだか胸が暖かくなった。

 ちらと、顔を横に向ける。流されていく猫の雲をいつまでも眺める彼女の横顔に、鼓動を早くさせることはなく、なんだかとても落ち着いていられた。心臓も少しは空気を読んでくれるようだ。

 今の所、僕らの繋がりを示す物は形として残っていない。二人で映る写真も無ければ、電子メールのやり取りも無い。作っていった作品は蒼空で流れ、崩れ、散っていく。だから一つ作品を作ると、彼女はその作品を最後まで見つめる。看取ると言ってもいいだろうか。

 学友たちは、噂話の通りことがすめば、早々と室内に戻り話を広げていく。誰もその後の雲など見ようともしない。だけど彼女だけは、見つめてくれていた。

 それでいい。それで満足。僕は作品を残したいわけじゃない。だから美術部に入りたいなんてこれっぽっちも思わない。後世の人の評価なんて関係ない。今、この瞬間だけ、彼女にだけでも楽しんでもらいたい。なんなら僕らの関係が思い出だけになっても良い。下手に引きずらず今この時を楽しみたい。

 相反する矛盾を抱える僕の中で、それだけは決して揺るがない真実だ。


「授業始まるよ」

 彼女が言う。

「もうちょっとだけ」

 このまま二人で寝そべっていたかった。雲のようなふかふかのクッションに一人、身を沈めているよりも、柔らか味も無いコンクリートの地面に、二人寝そべっている方が心地良いから。

「私は嫌。こんな固い床に寝そべっていたら、背中痛くなっちゃうから」

余韻も残さず、颯爽と立ち上がる。背中を掃いつつ、僕が起き上がるのを待つ。僕が起き上がると、パッパと背中を叩かれる。

「早くしないと置いてくから」

 そう言い、ベランダを後にする。さすがに先程の猫の雲の様にはいかないのか、と僕は意気消沈しつつ彼女の背中を見つめ、歩き始める。

僕はそのまま彼女の背中を見て歩くのは癪だったので、横に並んだ。七不思議のとおりなら、あの雲は僕が心から欲しているモノの形なのだろう。それなら、自分からあの猫の雲の様になるんだ。

 一緒に並んで歩いていけるように、流れていくように。

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