明日、晴れたら。【臓物主待望】

雅 翼

第1話

明日晴れたら、僕らは離れ離れになる。



「雲一つない晴天になるでしょう、か……」


スマートフォンの液晶に表示された残酷な知らせは、僕の最後の望みさえ無慈悲に打ち砕いた。

青空に、一筋の白を描きながら遠くなっていく君を見送る。たったそれだけの、僕の明日の予定。

……もしも雨が降ったら。強風が吹いたら。酷い嵐になって、飛行機が欠航になったら。

浅はかな夢想だ。そうなったとしても、たった一日別れる日が遅れるだけだというのに。

僕らはまだ子どもで、どんな我儘を言ったところでひとりで生きていくことなど出来はしない。未来を変える力は、この未成熟な手のひらには欠片も握られていない。


それでも、この手で出来ることがあるとするならば。


僕は両手を合わせ、そっと指先を祈りの形に組んで目を閉じた。いわゆる信仰心なんてものは持ち合わせていない僕の身勝手な祈りなど、きっと嘲笑われるに決まっている。

けれど、何かせずにはいられないから。


「……神様。どうか明日、雨を降らせてください。強い雨と、強い風で、飛行機が飛べなくなるぐらい空をぐちゃぐちゃに荒らしてください」


改めて口に出してみると、本当に酷く幼稚な願い事だ。悪あがきにしても、もう少しマシなやり方があるんじゃないか。


「カッコ悪……っはは、くははは、っ!」


馬鹿馬鹿しくなって、僕は思わず乾いた笑い声を上げながら階段の手すりにもたれかかった。

その時だった。


「明日、雨が降ったらあなたは救われるの?」


涼し気な声に振り返ると、ひとりの女性が立っていた。いや、女性というにはまだ若い。僕と同じか、ほんの少し上くらいだろうか。

化粧っ気はないけれど、その必要も無いほどに整った顔立ちをしていた。僕の貧相な語彙力では美人、という月並みな表現しか出てこない。とにかく、こんな片田舎ではまずお目にかかれないレベルの美人が今、僕の目の前に立っている。


「ねえ、雨が降ったらあなたは救われる?」


彼女は、もう一度同じ質問を繰り返した。

長い黒髪がさらさらと夕暮れの風に揺れている。僕を見据える大きな両の瞳はどこか謎めいていて、にも関わらず不思議と警戒心はまるで湧いて来なかった。


「救われる……かな。分からない」


するり、と言葉が自然と喉の奥から滑り出た。いくら美人とはいえ、初対面の通りすがりの人間だ。そんな相手に僕は何を語ろうというのか。

頭ではそう思っていたけれど、まるで見えない何かに操られているみたいに、口は裏腹に動き続ける。


「でも、離れたくないんだ。一日でも、一時間でも、一秒でもいいからそばにいたい」


放たれたのは、自分でも呆れるくらいの、縋るような声。

そうなんだ。結局のところ、僕の願いの根幹はそこにある。

物心つく頃からそばにいて、同じ街で育って、これからもずっと隣にいるのが当たり前だと思っていた。

まだ友達でいたならば、この胸が張り裂けそうな痛みはなかったのだろうか。けれどもう、僕らはただの友達ではなくなってしまった。


「だから……、だから明日だけでも……っ!」


じわり。視界が滲んで、まばたきと共にあたたかいものが頬から顎へと伝い落ちる。ひく、と喉が鳴った。

奇跡は起こらない。未来は変わらない。今日が明日に変わるのを止める術はない。

無力な僕は、その時をただ待つことしか出来ない。


「……神様はね、何もしてくれないの」


母親が子どもに言い聞かせるような口調でそう言うと、彼女はゆっくりと僕に歩み寄ってきた。

すう、と白い手が僕の顔へと伸ばされる。頬を撫でる、華奢な指先。


「でもわたしは、あなたのその願いを……叶えてあげたいって、思ってる」


僕の涙を拭うその指先が不意に止まり、彼女は悲しげに微笑んだ。僕と同じように、彼女もまた神様に願いを挫かれて傷ついたことがあるのだろうか。

自分のことのように切なそうな表情を浮かべる目の前の美しい人を見ながら、僕はぼんやりとそんなことを思った。

ついさっきまで抱えていたはずのぶつけようのない感情はいつの間にか、波が引くように落ち着いていた。



ざあざあと、窓の向こうから激しい雨音が聞こえている。

なかなか寝付けず、眠りも浅かった僕はその音に反射的に飛び起きた。手に取ったスマートフォンに表示された時間はもうじき昼になろうとしている。

風も吹き荒れているらしく、雨音は遠くなったり近付いたりを繰り返していた。微かに振動する窓ガラス。どんよりと曇った光の届かない空。

飛行機、飛行機は……?!

どくんどくん、と早鐘を打つ心臓を押さえて、僕は手元の液晶に指を滑らせる。

と、瞬間、着信を告げるバイブレーションが手のひらを震わせた。


『……飛行機、欠航になったんだ。だから、出発は明日になるって』


もうすっかり聞き慣れた、君の声。少しだけくぐもっているのは、泣いているせいだろうか。

瞬く間につられて、目の奥がじんわりと熱くなる。鼻の奥がツンとする。


「……だったら」


『家……行ってもいい?』


僕が口にするよりも早く、君がそう告げた。



今日一日。たった一日、僕らが離れ離れになる日が先延ばしになっただけに過ぎない。

それでもいい。それだけで十分だ。

君の顔を見たら僕は泣いてしまうだろう。きっと、君もそうに違いない。

そして僕は君の声を、匂いを、体温を、この体の細胞のひとつひとつに刻みつけて、ありったけの想いを君に返す。

駄々をこねて逃げてきた、受け入れることを恐れてきた君との別れに向き合って、後悔しないように最後の時を過ごすんだ。


窓を少し開けてみる。途端に隙間から猛烈な雨風が吹き込んで、びしびしと頬に冷気が当たる。

……昨夜の時点ではまだ、天気予報は晴天だと言っていたのに。


“雨が降ったら、あなたは救われる?”


彼女は何者だったのだろうか。

神様?いや違う、神様なんて何もしてくれない。そう彼女だって話していたじゃないか。

だって現に、僕らが離れ離れになるという確かな事実はどうしようもなく未だ存在していて、それが覆るような奇跡はやっぱり起こらない。未来は、変わらない。


……けれど、雨は降った。そして僕は、間違いなく救われていた。


もしも今日が、当初の天気予報通りに晴れていたら。僕はまだ君と離れることを拒んでいて、さよなら、またね、行ってらっしゃい、そんな言葉さえも君に伝えられずに、後悔で押し潰されながら遠ざかる銀の翼を見つめることしか出来なかっただろう。

猶予は一日。残酷なほどに短い。

でも、そのおかげで僕はこうして、もう一度だけ君と顔を合わせることが出来たのだから。


明日晴れたら、僕らは離れ離れになる。

だけど僕はもう、明日の雨を願ったりはしない。



「…………ありがとう」



この世界のどこかにいる、何もしてくれない神様に、ではなく。

僕のちっぽけな願いを叶えたいと言ってくれた美しい人に、僕は呟いた。

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明日、晴れたら。【臓物主待望】 雅 翼 @miyatasu

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