流れる恋(1)

「煙草が吸いたい」

 ぐてん、と縁側に転がっている椿の声に、美緒はきょとんとして振り返った。

「もう随分と吸っていませんのに?」

「急に思い出した」

 庭の雑草を抜いていた手を止めて、傍に歩いていく。

 椿は潤んだ瞳で見上げてきた。

「すっごく吸いたい」

「折角離れられたんだから、そのまま忘れてください」

「えーやだー」

「煙草を吸わなくなっていたから、子供たちと鬼ごっこしても負けなくなったのではないですか?」

 にこっと笑う。椿はぶすっと膨れた。


 空で雲雀ひばりが鳴く。


 二ヶ月あまりの間、美緒と椿は、まゆみの寺に居候になっていた。

 美緒のやることは変わらない。和尚や椿の身の回りの世話と見せかけた、掃除と炊事だ。

 一方の椿は、夜になると時折現れる父親――藩主とその度に話し込んでいた。昼間には、和尚とともに手習いの先生。これがなかなか厄介な仕事だった。

 椿のことを『物知りなわりに弱い』と認識した子供たちは、手ごわい悪戯いたずらを連発したのだ。

 話を大人しく聞いていると見せかけて、実は机に落書きをしていたり。

 算盤の珠を、器用に崩して床にバラ撒いたり。

 その都度、彼も大声を上げて子供たちを追いかけていたのだが、最初のうちは全く叶わなかったのだ。

 ようやく彼が追いついて捕まえられるようになったのが、桜の綻び始めた最近になってのこと。


「今日も、君の弟たちにしてやられた」

 椿が言うのに、眉が跳ねる。

「今度は何を致しましたか?」

「書き写し用の本に墨で線をびーっと…… もうあの本使えないねえ」

「なんですって!?」

 ぎゅっと拳を握って走り出しかけたのに、袖を掴まれた。

「そんなことしでかして、ただでいられる訳ないでしょう!」

「そうだね。でも大丈夫、檀がもうお説教中だよ」

 くすくす笑って、椿が身を起こす。

「僕は、彼らに『義兄上あにうえごめんなさい』と言われた時点で、怒る気が失せちゃったんだ」

「なんですか、その呼び方は」

「彼らは、僕のことを君の夫だと思っているんだよ」

 椿は満面の笑みのまま。美緒は頬がかあっとなった。

「なんで」

「君と二人で江戸から来たって話してあるしね。檀もなんとなくそう言っちゃったらしいし」

「和尚様……」

「何より、君が僕とここで過ごしているからだと思うけど」

 それはそうかも、と美緒は横を向いた。

「家に戻ってても良かったんだよ?」

「私は継母ままははと仲が悪いんです。戻りたくありません」

弟妹きょうだいたちは残念そうだったけど」

「それは分かってます」

 大田原に戻ってきて四人に会って、嬉しかったのは本当だ。そして、彼らが変わらずに美緒を慕ってくれるのが嬉しいということも。

――椿殿を慕ってくれていることも嬉しいけれど。

 はあ、と息を吐いて、椿の横に腰掛ける。

「今日はもうおしまい?」

「疲れました」

 あはは、と笑って、椿が寄りかかってくる。

 黒い髪に頬をくすぐられて、目を細めていると。

「御免!」

 大きく呼ぶ声が、門の方から聞こえた。



「柊」

 そこに立っていた初老の男に、美緒は目を丸くする。

 椿は分かっていたようで、変わらぬ調子で言った。

「先に城に行かなくて良かったの?」

「何よりもまず、若のご無事をこの目で見たかったのでござる」

 袴の土埃をはたいて上がってきた彼に、お茶を出す。

「いや、若がご無事で何より。美緒も良かったのでござる」

 湯呑を握って頷く伝衛門を、美緒はそろりと見遣った。

「黙って江戸屋敷を出てきてしまいまして」

「うむ。大騒ぎになったのである」

「ええ!?」

 今更のように、ズキズキと耳奥が鳴る。美緒は頭を抱えた。

「なんて言って誤魔化したの?」

 椿がニヤニヤしながら問うと、伝衛門は一等重苦しく頷いた。

「言い交わした男がいるのに武虎殿に迫られたのを苦にして、川に身を投げたということになっておる」

「はい!?」

 ひっくりかえった声に、伝衛門は全く動じない。

「前半部分は事実であろう。奥方も苦々しい顔をしながら反論できずにおるからな」

「そこはそうとしても、どうして川に身を投げたことになっているのですか!?」

「桜が話を脚色し過ぎたせいでござるな。見知らぬ土地で得た恋と、故郷から続いた愛、どちらを選んでも他方を傷つけるという苦しみがあると、それはもう、歌舞伎の演目もかくやという勢いでお涙頂戴な物語に仕立てたでござる」

 うわあ、と叫んで美緒は床に両手をついて項垂れた。

――恥ずかしい! 恥ずかしすぎる!

「そんな噂の渦中の一人となった武虎はどうしているの?」

「剣に打ち込んでござる」

 伝衛門はずっとお茶を啜り、顔を引き締めた。

「以前よりなお、真っすぐに取り組んでおられる。それはそれで大いに結構でござるが、他のことに注意がいかなくなってござるな」

「そう」

 同じように湯呑を両手でいじりながら、椿は苦笑いを浮かべた。

「周りが見えていない、か……」

「武虎殿も、奥方も、手前どもの『網』に立ち向かうだけの知略は持ってござらぬ。それだけでなく」

「聞いているよ」

 片手で伝衛門を制して、椿は息を吐く。

 美緒は顔を上げて、二人を見た。

「大晦日に僕と美緒を襲ってきた奴を捕まえたんだって?」

「正確に申すなら、二人組の片割れ、にござる」

「誰だったのですか?」

 訊くと、椿は肩を竦め。伝衛門は眉間に指を当てた。

「一人は読み通り、武虎殿ご自身。今一人は、通う道場の門人でござった」

 あ、と呟く。一度連れて行かれた道場で見た青年かと思ったところに。

「年末に、奥方に引き合わせていたそうだ。士官先が無い故小久保家で雇えぬか、と。そこに奥方が汚れ仕事を引き受けるならば、と申しつけたそうでござる」

 伝衛門が重ねた言葉に、屋敷でも見かけた男かと、得心した。

 椿は笑う。

「で、義母上ははうえの言葉を真に受けて、僕らを襲って来たんだけど、失敗して。見放されちゃってたんでしょ?」

「奥方はそれで終いになるつもりだったが、彼にしたら困りものですな。下手を打てば幕府に断罪されかねない事に手を出したのに野放しとは、いつ捕縛されるか分からぬ恐怖と戦わねばなりませぬ」

くぬぎはそこにつけ込んで、喋らせたんでしょ」

「ええ。幕府に注進されたくなくば、我らに身を委ねよと」

 くくっと柊も笑った。

「我らとしても、放っておいたら、小久保家にとって益のないことになりますからな。彼には黙ってもらうよりない」

「同感だ」

 それから、椿は長い溜め息を吐いた。

「武虎は、その剣友の気持ちに気づいていたのかな?」

「全くないようでござった」

「そう…… 義母上も考えてなかっただろうな」

「御二方とも深謀遠慮には向いてござらぬ」

「だよね」

 椿の二度目の溜め息が響く。

 それから、しゃん、と背筋を伸ばし直した。自然と、美緒も、伝衛門も姿勢を正す。

「柊」

「はい」

「君が戻ってきたのは、そろそろ父上が江戸に詰めることになるからだよね?」

「左様」

 うん、と息をついて。椿は言った。

「父上と僕は江戸に行く。蹴りをつけないといけないから」

 まっすぐに向けられた視線に、伝衛門はちょっとだけ顔を赤らめた。

「国許はお任せくだされ。この駒場こまば伝衛門でんえもん、大役に全力を尽くす構え」


 宣言した彼が出て行った後は、美緒と椿が部屋に残された。

「美緒」

 呼ばれて、首を傾げる。

「さっきも言ったけど、また江戸に行く」

「はい」

 頷く。見つめられる。

「一緒に来てくれる?」

「どこへでもお供しますよ」

 笑う。

「貴方が逃げるというならどこまでも参ります。何かを成されるとおっしゃるなら、微力ながらお助けします」

「全然ちょっとじゃないんだけどね。まあ、それはいいや」

 笑い返される。

「やっぱり、僕は頭が狂ったようだよ」

 そうして抱きしめられた。

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