謙虚な美徳
「そなたには、いざという時に椿の花のごとく死ねる覚悟はあるのですね」
その言葉に、津也はきょとんとなった。
――何言ってんの、この女。
まだ新しい畳の匂いがする部屋には、津也と、同い年の娘がもう一人。
長い睫毛に縁取られた、強い光を放つ瞳。さくらんぼのような唇には微かな笑みを浮かべている。背は低いが、雪のような肌と絹のような黒髪は誰の目も引き寄せるだろう。
そんな、やたらとこちらを圧倒しようとする雰囲気に腹を立てていたところへの、先ほどの言葉だ。
「偉そうね」
津也はふんっと鼻を鳴らしてやった。相手は微かに眉を動かしただけで。
「田舎で気儘に育ってきた娘は、振舞も奔放と見える」
静かに言った。
「小久保家の側室に――武家の女になろうというならば、覚悟を持っていなければ困ると、あれだけ申し上げたというのに。殿にも困ったことです」
「どういうこと?」
「おや? はっきり言わぬと伝わらないよう。おまえのような女は歓迎しないと言っているのよ」
平坦な声だが、そこに込められた意味くらい汲める。津也は、がばっと立ち上がった。
「ご挨拶ね! あたしもあんたみたいな高慢ちきは大嫌いだ!」
「上等。妾も嫌いじゃ」
「お互い嫌い同士で何より!」
津也はいーっと歯を剥き出してやった。
「という、最悪の面会でしたけど」
「そうか。そうだよなぁ」
大田原藩主、
「津也と多恵…… 仲良くできるわけないよなぁ。俺もよくよく、正反対の女を迎えたもんだ」
その顔の前に顔を突き出して、津也は言った。
「噂を聞くだけでも厭な女だなーって思ってましたけど。会ってみて、さらに印象は悪くなりました。滋虎様はなんだってあんな女を嫁にもらったのですか」
「仕方ないだろう。家格も何もかも中くらいの我が家だ、老中様の縁談を断れるわけない」
「勇気が足りない」
「あのなあ……」
がっくりと肩を落として、彼は津也を見てきた。
「上とも下とも
その一瞬だけ、きりっとした表情を見せて、すぐに彼は息を吐いた。
「これは多恵の受け売りだが」
「言いなりじゃん!」
べちっと頬を叩いてやる。いて、と呟いてから、滋虎は津也に向き直ってきた。
「国許で暮らすのではなく江戸が良い、そう言ったのはお主だからな。だから今回連れてきた」
「到着一日目で心が折れました」
「……それみたことか」
滋虎が肩を落とす。
「だが、どんなに喚いても、そなた一人だけを国許には帰すことはできぬぞ。供人を何人も付ける旅となるが、その旅費を出す余裕は今の大田原藩にはない。だから、俺が江戸詰めの間――次の参勤交代までの間は、ここで暮らしてもらうからな」
「あの女がいなかったら楽しく暮らせそうです」
「それは無理だ。多恵は幕府に届け出た正室なんだ。屋敷から追い出せるわけがないだろう。第一、そんなことを考えた時点で、俺が屋敷から出られないように、多恵が手回しをする」
「この屋敷の主はあなたなんじゃないですか!?」
「建前はな。実際は多恵じゃ」
「甲斐性なし!」
ぎっと睨みつけてやる。滋虎の肩がますます落ちた。
「おまえも俺が情けないのは知ってるだろう……」
父親が、国許で嫁入り先を探すよりも、津也が藩主と
出会ったのは
――おまえは何をするのも思い切りが良いのう。
蓮っ葉なところをそう評されて、ちょっと嬉しかった。どこがぼうっとしていて、それでいて人を褒めるのが上手い男にコロッと
男は男で、津也を気に入ってくれ、屋敷に迎えたいと言い出してくれた。名を名乗り、何度も何度も津也の親に頭を下げる男に、逆に両親のほうが
そうして収まった藩主の側室という座。国許の屋敷では藩主に次ぐ地位。
皆にかしずかれつつ、気になったのが江戸にいるのだという『正室』の存在。
『正』と『側』では、どちらが偉いのかはすぐ分かる。お武家様には二人も三人も妻がいるものだ、という現実にも腹が立ったが。
自分が滋虎の唯一の妻じゃないという現実も、グサグサと胸を刺してきた。
そのもう一人の妻を追い出したいという気持ちがあったのは否定しない。
江戸に行きたいと言ったのは、正室の女をぎゃふんを言わせてみたかったからだ。
結局、初顔合わせは、あちらに一方的に笑われて終わったようなものだったが。
滋虎と江戸家老の采配で、二人の居室は東と西の反対側に宛がわれていた。それでも会う時は会ってしまう。
例えば、玄関で。
「どちらへお出かけ?」
「殿に呉服屋に連れて行ってもらう約束をしているのです」
その日の邂逅では、ふふん、と笑ってみせた。だが、多恵はまったく動じない。
「おや。屋敷に呼ばないということは、妾は買ってもらえぬということ」
嫌味さえ、笑顔で言い切られる。
「そうねえ。羨ましいの?」
「当然。殿からの贈り物とは、なんて心躍ること」
「だったら、一緒に行く? 私はお断りだけど」
「残念。今日はもう予定を組んでおるのです。ごめんあそばせ」
ふわりと去っていく後ろ姿に舌を出したら、何故かすぐ振り向かれた。
「はしたない」
ぴしゃりと言い切って、彼女は真っ直ぐ歩いていく。
お供は一人だけ、しかも徒歩。良家の奥方とは思えぬ型なのに、真っ直ぐ伸びた背は気品で充ちている。
その小さな体に圧倒されているのは、屋敷の者全員だ。
何かにつけて「御方様に相談するか」と皆が言う。
甲斐性なしの滋虎も例外ではない。
「殿中に参ることになったのだが、今の時期は何を着れば良いのか……」
「暦をご覧あそばせ」
そう言いながら、多恵は上から下まで完璧に取り揃える。
「
「痛いのは嫌いじゃ」
「気張れ!」
すぱーん、と右手が滋虎の頰を打つ。赤らんだそこをさすってから、滋虎はすごすごと、控えていた床屋の前へ移った。
「殿様を叩くなんて」
津也が睨んでも、多恵は微笑みを崩さない。
「妾の役目は、殿が藩主として潔う勤められるよう仕向けること故」
するりと打掛を捌いて歩いてくると、津也の目をじっと覗いて言った。
「そなたも何か小久保家に
ぞくり、と背筋を何かが走った。
「何よ、偉そうに」
言い返した声が震えていて、自分に腹が立つ。
多恵は微笑んだままだ。
そんなこんなな日々の中でも。夏の花火、秋の紅葉狩りへと、滋虎は連れて行ってくれた。
だが、その後、年末年始は相手ができぬと放っておかれた。
「つまんない」
こつん、と道端の石を蹴る。
雪が残る道は、初めて歩くところだった。
滋虎の出仕に合わせてばたついていた屋敷からは、気が合う者は誰も付き合ってくれず、やむ無く一人で歩いていたのだが。
「つまんないわ」
やはり、誰かお喋りをする相手が欲しい。滋虎でなくてもいい。
――だからって、あの女はお断りだけど。
むう、と頬を膨らませて入った茶屋で。
「お嬢ちゃん、一人かい」
隣にどっかと座った男――腰には大小を差した侍が、するりと腕を肩に回してきた。
「お嬢ちゃんじゃなくてよ」
べっと舌を出しつつ、お歯黒を見せても。
「なんでい。旦那がいるからって、こんなところで一人で歩いてちゃあ、誘ってくれと言ってるようなもんさ」
腕はどかない。
「で、どうする? この上ではそういうこともできんだぜ?」
「どういうことさ」
「そりゃあ」
と、反対の手が太ももに近づく。
「止めろ!」
びしっと叩く。男は、ぺっと唾を飛ばした。
「いい度胸じゃねえか」
反対の手が首元に伸びてきて、びくりと体を揺らす。
肩を押さえる腕は離されない。
津也の喉からは、呻き声さえ湧かない。
代わりに、水が跳ねる音がした。
「あ、どうも」
そう声をかけたのは、道に立つ老翁だった。その足元には桶が転がっている。。
「て、てめえ! 何しやがる」
「いや、桶の水を捨てに行こうとしてたんですよ。そこで、お二人さんが熱いのが見えちゃってたから、つい手が滑っちゃって。すみませんねえ」
「お、おい」
「嫌がられていることは止めた方がいいですよ。ついでに、相手がどういうご身分かを教えて差し上げましょうか」
「余計な世話だ!」
もう一度唾を吐いて、男はのしのしと去っていった。
「やれやれ」
と、翁は桶を拾い上げ。
「一人で慣れぬ場所をうろつくものではないと分かりましたか?」
津也にそう言った。
「武家の室としてあるならば、身を守る術を用意してから出かけてください。共をつけるというのも手段の一つです」
向けられた科白に、瞬く。
「私を知っているの?」
「ええ。とりあえず、儂の店においでください。迎えはすぐに参りましょう」
手招かれる。
眉をひそめて、後に続く。
通りを一本入ったところで揺れている暖簾を潜って部屋の中へ。
「ここは?」
「しがない煙草屋ですよ」
くん、と鼻を鳴らす。慣れない匂い。
「煙草?」
「大田原の東のほうでは煙草畑が広がってましてな。ご存じないか」
老翁に笑われて、津也は首を傾げる。
土間からの上がり口に腰をかけて待つと。
「じっちゃん」
と、五歳ほどの童が戸口から顔を出した。
「駕籠が来た」
「そうか」
翁がそう答えると同時に、童の後ろに細い影が立つ。
津也はげっと呻いた。
「なんでここにいるの!?」
影は多恵だ。彼女は珍しく、眉を吊り上げていた。
「一人で屋敷を出て行ったと聞いたので、後をつけさせていたのですよ。正解でした」
ほ、と息を吐いて、掌で外を示す。
「戻りますよ」
しぶしぶと駕籠に乗る。
ふわ、とそれが浮いてから、あれ、と叫ぶ。
「ちょっと!」
横を歩く多恵に顔を向ける。
「あんたは!? 乗らないの!?」
「その駕籠に二人も乗れるはずないでしょう」
「そうじゃなくて…… 駕籠は一台だけなの?」
「妾が乗ってきた一台だけです」
「なんで……」
「黙って運ばれなさい、はしたない」
その日、その後は何も喋らなかった。怒られるかと思ったが、説教をしてきたのは珍しいことに滋虎だった。
「江戸の中での騒ぎは勘弁してくれ」
彼は両手を合わせて津也に迫ってきた。
「国許なら、俺が威張れば解決するけどな。江戸はそうもいかない。大人しくしてくれ。雪が溶けたら大田原に帰るぞ」
そこでその話は終わり。
津也と多恵で喋ることはないまま春になり。
庭に真っ赤な椿が咲いたのを見届けてから、国に帰った。
離れた屋敷に暮していても、相手の噂はよく聞こえてきた。
津也自身の胎に子が宿ったことが分かった頃に、多恵が子が産んだと伝わってきて、怒り狂ったら
その後無事に男子を産んだので、威張ってやろうと手紙を書いたのだが、それは伝衛門が握り潰したらしい。
大きくなっていく我が子には、誰よりも武士らしくなれと、剣の師匠を付けてもらった。
椿の花を武士は嫌がるものだと知ったのはその頃だ。
「落ち武者みたいに死ねなんて、不吉じゃない」
滋虎にはそう言った。
「私に身を退けと言っていたのかしら」
「そんなわけなかろう」
「もっとも、そうだとしても退きませんけど」
「そうか」
「殿の妻は私です」
「そうだな」
ふにゃふにゃと滋虎は笑った。
国許にいる時は、津也と勇ましい我が子が見られて楽しいのだ、と言ってくれた。
江戸は正室が怖いと言っていた。
そう。国許のほうが楽しいと、はっきりと。
多恵の訃報が届いたのは、滋虎が江戸にいる年だった。
「私、向こうに行けないかしら」
言えば、伝衛門は渋い顔になった。
「何故、江戸に出られようとなさるのでござる」
「だって、これで殿の唯一の妻となったのよ」
「そうでござるが……」
だから江戸に来た。今度こそ、滋虎の一番になるために。
そうだというのに。
待っていたのは、細い体の、多恵にそっくりな顔の少年だった。
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