迷いは消えて(5)
昼に続いて、夜もすっきりと晴れていた。
和尚の言うとおり、日が沈むと滋虎が現れ、若い娘と散々お楽しみだった。
声も物音も止むのを待ってから、その部屋にひっそりと入る。
大きめの布団は、こんもりと二カ所盛り上がっている。その奥側のほうへ近付く。枕に乗っている頭が、月代であることを確かめてから、懐から小刀を取り出す。
すう、と小さく息を吸って、刃をすとんと床に振り落とした。
「物騒だのう」
「お目覚めいただきましたか、父上」
「何をしておる、
視線が噛み合ったしばし後。
「お話をしたいのですが」
椿が言うと、
二人で隣の部屋に移る。
どうにか蝋燭には火を点けられたが、火鉢は無理だった。
だというのに、滋虎はその火鉢にすり寄って「おお寒い」と呟いている。
「それじゃ意味ないですよ」
腰に手を当てて言うと、父親は妙にしっかりとした声で答えた。
「分かっておる。気分の問題じゃ」
「気分」
椿は、はあ、と額に手を当てた。
「
「嘆かわしくもなんともなかろう。我等は他人にやってもらえばよい身分だからな」
「そうですね」
冷たい鉢を抱えた姿勢のままの父の横に、どっかと胡坐をかいた。
ゆら、と灯りが揺れる。
その影が収まる前に、滋虎が口を開いた。
「わざわざ江戸から来たのか?」
「ええ」
「一人で?」
「まさか」
「そうか、女と一緒か」
「事実ですけど、父上に言われると腹が立ちます」
「そうか」
うむ、と言った滋虎がじっと見つめる。
「そんな情けない父であるが、夏から何が起こっていたかは、江戸の家老からも津也からも手紙が来たので知っているぞ」
視線が強くなる。
「だが、文が何を考えているのかは伝わってきておらんでな」
椿は横を向いた。
「儂を見ろ、文」
ぎりっと歯を鳴らし、それでもそっぽを向く。
「向け」
はっと
父親ではなく藩主の顔で、滋虎は低い声を出した。
「儂はな。跡目は文のつもりじゃ」
「
「武には、国許にずっと残って奉行を務めてもらうのが一番と思っておる。 あれは国許で皆に可愛がられて育ったからな。故に、誰とも親しくしているが、それはあくまでも藩の領内だけの話」
顎を撫でて、滋虎は唸った。
「儂も実際に幕府のうちに出てみて初めて理解したことだが、誰とでも卒なく話せる技が江戸では必要ぞ。己が家とそこに係る人間すべての益を求めて、相手の言葉の裏を読み、自分の真意は程よく隠していかねばならぬ」
な、と首を傾げた父に、椿は渋々頷いた。
「武虎に裏表が無さ過ぎるというのは、よく分かりましたけど」
「そのとおり。幕府へ出向くなど全くできなかろうて。武は、悪意に慣れておらんのだよ。一途に剣を振っておれば良くて、儂もそう認めていた」
滋虎は目尻に皺を寄せる。
「文は母に存分に鍛えられたのう」
見つめられ、ついまた顔を背けた。
「賢しさは武器、これからの世に必要な刀じゃ。かつて太閤家が滅んだのも、文治と武断を間違って利用したからでな」
ぷぷぷぷ、と笑い声をもらす滋虎に、ゆるりと向き直り。
「父上に言われると腹が立ちます」
言うと、滋虎は表情を引き締めた。
「うむ。全て多恵の受け売りじゃ。おぬしはもっと聞いておろう」
じ、と蝋燭が揺れる。
「という訳じゃ。気張れ」
「父上。考えが分からないと言っておきながら実は、僕の話を聞く気ないでしょ」
「無い」
滋虎は、どん、と胸を叩いた。椿はがっくりと項垂れて。
「でも、一つだけお願いして良いですか?」
細い声を絞り出す。
「一つだけなら聞いてやらんこともないぞ」
うむ、と首を振った滋虎へと、椿は顔を向け直した。
「護っていただきたい人がいるんですけど」
一度息を切って、背筋を伸ばして続ける。
「秋にこちらから江戸に向かわせてくれた娘がいるでしょう? その子、いろいろあって義母上と武虎の気に触れているんです。間違いなく何か言ってくると思うけど、その子の家族に波がいかないよう取り計らってもらえませんか?」
「うむ。よかろう」
重々しく頷いて。
「だが」
と滋虎は指先を突き付けてきた。
「儂から藩主が変わったら、どう守るつもりじゃ?」
「え?」
瞬く。
「藩主が武になったら結局波が行くぞ?」
滋虎はにゅーっと口の端を上げた。
「それは」
まだ、瞬く。言い返せない。
「ほーれ見ろ。そこでなんやかやと騒がず、先を読み、動くことができるのが文じゃ。武にはできぬ」
「だから、誰が藩主に相応しいかと問われたら文と答える。儂の、藩主としての、家と土地を守る判断だ。こればかりは
えっへん、と胸を反らされて、がっくりと肩を落とした。
膝の上では拳が震えている。
「家に戻っても良かったのではないか」
縁側で月を眺めていたら、和尚が隣にやってきた。
「私が継母と仲が悪いのはご存じでしょう?」
「どこも連れ子は不憫じゃのう」
美緒の言に、ふぉふぉふぉ、と和尚は笑った。
釣られて笑ってから、視線を奥の部屋に向ける。
「和尚様、あの子は……」
「昔、お主と同じ頃にここに通っていたな」
「顔は覚えています。もうとっくに何処かにお嫁に行ったのかと思っていたのに。殿様の妾になって良かったのでしょうか」
「それは本人しか知らぬこと」
まだ和尚は笑う。美緒は眉を寄せる。
「こんな、隠れて関係を重ねるより、堂々と御屋敷に行けばいいのに。殿の御身分でしたら、もう一人側室がいたっておかしくないでしょう?」
「行ってみろ。奥方と遣りあうことになるぞ」
「あ」
「奥方の悋気に立ち向かう気を起こさぬ限り、ここで逢瀬を重ねるしかないのだよ。殿も、津也殿を愛しながらも恐れているから、堂々とは迎えない。ここは多恵様から殿へ贈られた逃げ場なんじゃよ」
ふふふ、と和尚は笑いながら庭を見ている。
その月に照らされた庭にも、椿が植えてある。
「何を思って、多恵様はここをそういう場にされたのですか」
問いに、和尚は笑いを引っ込めて、言った。
「捻じれてはいたが、多恵様は確かに滋虎殿に恋をしていたのじゃよ」
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