迷いは消えて(4)
日差しが暖かい。南側の海から吹く風が強い。
大田原の城下に着いたのはそんな昼下がりだった。
美緒がここから旅立ってから、まだ三ヶ月しか経っていないのに、ひどく懐かしい。
潮の匂いを胸いっぱいに吸い込むと、椿に笑われた。
その彼はきょろきょろと視線を
「ここは、旅籠の数が多いんだね」
「山越えの手前ですからね。ここで休む人は多いでしょう」
「茶店も多い。昼前に休んで越える人もいるのかな?」
頷いて、自分たちも休むかと問うと、首を振られた。
「頼るところは決めてるんだ。『網』の一人。そっちに着いてからで大丈夫だよ」
「どんな方なんですか?」
「
「え?」
ドキッとした。
そして案の定だ。
美緒の実家に向かう道を椿はゆっくりと進んでいく。その後ろの美緒は足取りも重くなる。
「どうしたの?」
「そのお寺、存じ上げているところです」
「え?」
「私も小さな頃お世話になったかと」
「おやあ?」
「今は弟たちが通っています」
「びっくりだー」
椿が吹き出す。
「今ってまだ教えている時間かなあ?」
「そろそろ終わった頃かと思いますが」
首を振る。椿が首を傾げる。
「君の弟妹に、会えるかな?」
「……会ってよろしいのですか?」
「嫌なの?」
足を止めて、椿が顔を覗きこんできた。
つい、顔を
「いいえ、その。一応、私は江戸にいることになっているのではないかと」
「ああ、たしかに」
ペロッと舌を出して、椿は言った。
「僕らと同じで仲が悪いのかと一瞬思っちゃったじゃないか。でも、そんなことないか」
あはは、と笑ってまた彼は歩き出す。その背を追いながら、美緒は口を開いた。
「仲悪くなんかないですよ」
「そうだよね。僕を弟扱いできるってことは、実の弟君にそういうことしてるってことだもん」
振り向いた椿はまだ笑っている。
美緒は頬を膨らませる。
そこを、つん、と突いてから、椿は目を細めた。
「下手に誤魔化すよりは、堂々と会っておいでよ。後ろめたい思いって透けて見えちゃうものさ」
「後ろめたい……」
「武虎を殴ったことを気にしてるんだろう? そのことで家族に迷惑がかかると思っているんじゃないの?」
また足を止めて、つんつん、とまだ突かれる。
「図星?」
「はい」
「
するり、と頬を撫でられて、俯く。
「ほら。行くよ」
手を引かれて、さらに歩く。
この辺りでは珍しい、墨色の瓦屋根が見えてきた。そちらから、鐘が重く響いてきた。
子ども達が下駄を鳴らして走ってくる。その一団が二人の横をすり抜けて走って行った後に。
「ねえちゃん」
呼ばれ、 袖を引かれ、 そろりと振り返る。
「帰ってきたの?」
見上げてくる大きな瞳が二対。
それぞれが着る桃色と蜜柑色の小袖は、美緒のおさがりだ。気に入って大事にしていたのに、大きさが合わなくなって譲った小袖。
「八重。佐奈」
強張った笑いが浮いて、二人の頭に両手それぞれを乗せる。
通り過ぎた一団からも、紺色と鼠色の小僧が走ってきた。
「修太。練二」
それぞれに袖を引かれる。
「いいなあ、きょうだい」
椿が笑う。
四人が各々、腕を引いてしがみついてきて。う、と泣き声が漏れた。
昔と変わらない。おざなりな生垣の中にあるのは、大きな松の木と、床の軋むお堂と和尚の住まいだ。
住まいは襖で仕切られた部屋がいくつかあったが、その一番大きな部屋に皆で通された。
子ども達が手習いをしているのはお堂の方。普段は入れない場所に来た弟妹たちは、どたどたと走り始める。
「おとなしくしろ!」
「やだー!」
ぎゃあと叫んで逃げる子たちを、美緒もまた怒鳴って追う。
椿と和尚は顔を見合わせて、咳払いをして、向かい合った。
「一年経たずにお会いするとは思わなんだ」
和尚――
「息災ですな。結構結構」
ふぉふぉふぉ、と笑いながら出されたお茶を、椿は一気に飲み干した。
「結論から先に言うと、父上に会いたい。できるだけ早く」
「ほほう」
老翁の皺まみれの顔がさらにしわくちゃになる。
「そのために、自ら足を運ばれるというご決断をなさいましたか」
「僕の考えを曲げずに伝えるには、直接が一番だよ」
「左様にございましょうとも」
やはり皺の多い手で自らの分の湯飲みを握りしめながら、和尚は首を傾げる。
「何をお考えになって狂態を演じてらっしゃるかと、柊と首を捻っておりましたが、大変結構。跡目としてよくお考えくだされ」
椿は目を伏せた。
ぴい、と鳥が鳴く。
おにごっこは終わったらしい。
男の子二人は松の木に登っている。美緒と妹たちはその根元に腰を下ろして、お手玉遊びをしていた。
お手玉が弾むのに合わせて美緒が何か唄っている。
緩やかで冷ややかな音階だ。
その途切れたところで。
「ねえ、檀」
ぽつん、と椿は呟いた。
「僕は何を護りたいんだろう」
その時だけ和尚は振り向いた。
「考えなされ。己で出した答えにしか従えぬものです」
言うなり、彼はすぐに庭に向いて、お茶を啜った。
「藩主は月に何度かここにおいでじゃ。その際にお会いすればいい」
椿は頷く。
「次はいつ?」
「今夜でしょう」
「早いね。それに、なんで夜?」
「ここを逢引の場としてご利用なのですよ」
「はあ!?」
声が裏返った。庭にいた美緒ががばっと顔を上げるのが見えた。
腰を浮かしかけた彼女を手で制して。
「どういうこと!?」
和尚を見る。
「江戸に向かわせた奥方がおっかないようでなあ。屋敷に囲えないでいる女がおるのですよ」
「あのエロ親父」
「もっとも、ここで妾と会っていたのはずっと以前――まだ江戸の御方様がご存命の時からですな。うっかり屋敷でやっていて奥方にばれるのが怖いと言うてまして」
「待って。母上はそれを知って」
「知っても何も、ここをそう利用して良いと殿に申し上げたのは御方様です」
「なんてこった」
椿は頭を抱えた。和尚は全く姿勢を変えない。
「日が暮れれば女が参ります。若に機会があるとすれば、その後でしょうな」
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