迷いは消えて(3)
え、と。座ったままの椿と振り返った檪の声が重なる。むっとなる。
「私、一人で国許から江戸に来ました」
言うと、檪は目を丸くした。
「歩いて三日だからな、できねえことはないけど。よくやるな、あんたも」
「待って。大田原まで三日間、歩き通しになるの?」
横で椿が手を挙げたのに、頷く。
「そうですよ」
「嘘だ!?」
がばっと身を乗り出した椿を、檪が肩を押して座らせる。
「はいはい、弱音吐かない。行くと決めたんなら、さっさと行った行った」
「美緒~、檪がいじめる~」
振り向いてきた顔の頬をそのまま張った。小気味良い音が響く。
「行くんですか、行かないんですか」
「行きます」
左頬を手で押さえ、涙目の椿が首を縦に振る。
「では、参りましょう」
美緒はふんっと息を吐いた。
「主の世話、よろしく頼むぜ」
檪がこめかみを押さえているのが、目の端に映った。
旅の荷物は柏が大急ぎで揃えてくれた。
翌朝空が白み始めてから、小さくまとめたそれを担ぎ、
品川宿の南に広がるのは冬眠中の田んぼ。
突っ切った先の六郷の渡しを越え、海沿いの道を抜けると、小高い丘に差しかかる。
「きつい……」
登り坂の途中で、へろへろと椿は膝に手を付いた。
「休むにも、登りきってからにしましょう」
「本当に?」
「その先は下り坂になりますから」
「じゃあ、少しは楽なのかな?」
「こちら側より急な坂ですので、そうとは言い切れません」
「うええええ…… 坂道勘弁して」
それきり、黙々と歩いていたのだが、よろめいているのははっきりと分かる。
登りきった丘の上では、木陰に身を寄せて休む人たちがちらほらと見受けられた。
そこに混じろうと、腕を引っ張っていくと、椿は黙ってついてきて。
「わー、足痛い!」
大きな松の根元に転がった。
「
「嘘」
「だってさ、半年間出歩いてなかった身なんだよ。その前に大田原と行ったり来たりした時は
「楽をなさいましたね」
「そういう御身分ですよー」
べっと舌を出されたので、無言で額を指で弾いた。
赤らんだそこを両手で押さえて、椿は長い息を吐く。
「駕籠を担いで歩く人はもっと大変だよね」
「それは…… そうでしょうね」
「この間の旅はどれだけ楽をしたのかと、心底思うよ」
ははは、と笑う。
「今、大田原に行くと決めたのは僕自身なのにね。美緒がいなかったら、ここまで歩けていたか自信がないや」
ぴたりと肩を震わせることも止め、両手で目元を隠して。
「一人では何もできない」
椿は呟いた。
その晩は、連なる丘の中の宿場町だ。
「ごめん、美緒。こういう時にどうしたらいいのかも分からないんだけど」
「お任せください」
くすっと笑い、 ごった返す
相部屋と言われた先は、ここで一番大きな部屋なのだろう。一人旅の者も仲間連れの者もいるらしい。
「袖触れ合うもなんとやらだ、楽しくやろうぜ」
赤い夕陽が差し込む部屋で、名もしらぬ者同士が腕を組んでいる。
「ほらほら、にいちゃんも!」
「え、僕!?」
あっという間に椿も引っ張って行かれた。
廊下に立ったまま、溜め息を吐く。
自分一人で歩いてきた時もああいう手合いがいたなと、小娘一人と侮られ振り払うのが大変だったと思い出す。
椿は集まっている中で一番若かったらしい。どんどん酒を注がれている。
それを全て飲み干しているあたりに、ちくん、と痛みを感じて。
そろりと歩み寄る。
「おやあ、可愛い嫁さんを連れてるじゃないか」
強い匂いの息を吐き出す男が笑うのに。
「いや、彼女は」
椿も顔を真っ赤にして首を振ったのだが。
「なんだなんだ、駆け落ちか!?」
「ひゅーひゅー、やるねー! 応援するぜ!」
周りはやんややんやと手を叩く。
「ち、違……」
「照れるな照れるな! おい、お嬢ちゃん、線の細いあんちゃんだが頼りになるか!?」
真っ直ぐな視線がいくつも集まる。
僅かに間をおいて。
「頼りにしておりますとも」
小さな声で答える。
「だってよ! 良かったなあ。よし、呑め呑め」
椿の顔がもっと赤くなる。その隣にぐいっと座らされ、美緒も器を持たされた。
「私も?」
「無理しなくていいよ」
器はあっという間に椿の手が攫っていく。見上げると、彼の顔はまだ赤かった。
そんな騒ぎも日が落ちれば収まる。
少ない布団を取り合ってから、皆が寝静まって。
翌日は丘を下った。その先の道では、左手に海が見える。
潮風に吹かれながら、でこぼこ道を進む。
ふと思い出して、顔を見た。
「
「痛い。あ、大丈夫。旅籠出る時に薬は塗ってるよ」
笠の下で、にこりと笑うのが見えた。
「でも」
と開きかけた口を、細い指先が押さえてきた。
「少しでも進もう、でしょう?」
視線を前に向ければ、大きな川が見える。
「あれを渡るのも、橋じゃないのかな?」
「ええ。
するり、と口元に添えてあった指先が、美緒の手に落ちてくる。
握られる。
歩みは止められない。
その晩の宿は、船で渡った先の海辺の宿場町になった。
旅慣れた者は一つ先に進んでいるのだろう。前夜に比べて、町も建物も小さい。人も少ない。
小さな部屋を宛がわれるなり、椿は寝転んでしまった。
「肉刺、見せてください」
「やだ。恥ずかしいもん」
「いいから」
べしっと胸を叩き、足元に回る。
「潰れているではないですか」
「あー…… だから、恥ずかしいってば」
「ご自分で体力ないとおっしゃっているのに、今更何を恥ずかしがるんですか」
「うえええええ」
自分の荷物にも檪が入れてくれていた軟膏を取り出して、掌に取った。
「くすぐったい……」
「これくらい我慢してください」
「ねえ。なんで当然のように美緒が塗ってるの」
え、と顔を向ける。彼は頬を膨らませている。
「一人でできることはやるから」
瞬く。真剣な眼差しが向いている。それに頷いて。
「ええ。椿殿が――文虎様がされるべきことはなさってください」
でも、と 頬を緩めた。
「一人でできなくても良いではないですか」
「本当にそう思っている?」
「事によります。それと」
と、視線を合わせて言った。
「椿殿にしかできないこともあるでしょう?」
今度は椿が目を瞬かせた。自然と笑みが深くなる。
「貴方が戦うものが何であっても、どこへでも、私はお供します」
そうして、意識を椿の足裏に戻した。
彼も何も言わない。
静かに、薬を塗り広げる。
「終わりましたよ」
薬を荷物に閉まっていると、後ろから抱きしめられた。
細い腕のどこにそんな力があるのかと思うほど、強く。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「薬のことだけじゃないよ」
「君が僕といてくれること全てだよ。分かった?」
心臓が跳ねまわるから、振り返ることができない。代わりに、手に手を重ねる。
その晩は、抱きしめあって眠った。
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