迷いは消えて(2)

「おうおう、背中が泥だらけじゃねえか」

 くぬぎがわしっと椿の頭を掴み、ぐりぐりと押す。

「ちょ、待って……」

 椿はなされるがまま、膝に手をついて、肩を上下させていた。

「い、息が、苦しい……」

「はあ、さいですか」

「は、走ったから……」

「ただ走っただけで、こんなに泥だらけになりますかねえ!?」

 叫んだ檪が視線を向けてくるので、美緒は思わず首を縦に振った。

「ごめんなさい、泥濘に押し倒したのは私です」

「お、おお、そうか」

 檪は目を白黒させて。天を仰いだ。

「そうだとして…… 一体この後、誰が洗濯すんのかねえ?」

「うん、ごめんよ。僕、自分でできることとできないこと、挑戦してもいいことはわきまえているつもりだよ」

「逆にその言い方は不穏だな。やっぱ、俺がするわ」

「手伝います」

「あんたはそこ座ってろ」

 ひらひらと手を振られ、美緒は囲炉裏の傍にちょこんと座った。

 そして、室内を見回す。

 此処は檪の煙草屋ではない。だが、同じく網の一人が店主をしているという菓子屋だった。

「どうして、煙草屋から此処に?」

「主が正月早々転がり込んできたからだよ!」

 椿の背中についた泥を叩き落としながら、檪が喋る。

「あの狭い部屋に二人でいたら」

「変な関係に誤解されそうだよね」

「おお、それじゃあ困っちまうな! じゃなくて、いきなり二人で暮らすようになって目立ったら困るだろう?」

 それでか、と頷く。

「それに、津也はうちの煙草屋の位置を知っているんでね。万が一でも主がいるのが知られたらまずいと思った。それだけだ」

 最後、檪はぱんぱんと両手を叩いて。ようやく二人も部屋に上がってきた。

「替えの着物は、あったかな…… 主は細すぎなんだ。俺の着物ほとんど体に合わねえじゃねえか」

「ちょくちょく来てたんだから、夏のうちに用意しておけば良かったねえ」

「今、柏に買い物に行ってもらってるんで、少し大人しくしててくれよ」

 いつもの分厚い半纏を着た檪は、両手をこすり合わせながら、美緒とは反対側に腰を下ろした。

 椿もまた、一番奥の座に背筋を伸ばして座る。

「はあ。一日に二回も走ったから疲れた」

「そこが理由かい」

「だって、美緒を追いかけるのと武虎から逃げるのと、だよ。美緒を探すのに走る羽目になるとは思ってなかったし。半年だらだらと床に転がっていた身にはこたえるよ」

「……すみませんでした」

「なんだって走る羽目になったんだい」

「それは私が武虎様を叩いたからで」

 体を小さくして、呟く。

 檪は手を擦る姿勢のまま、ぴたっと動かなくなった。

「ほんと美緒らしいよね。でも、叩くのであっても、君があいつに触れているところは見たくないな!」

 椿が一人笑っている。

「叩かれるのは僕だけで充分」

「ちょっと待ってくれ、なんだかものすごく変態じみてないか?」

「え? 美緒を独り占めしたいって言ってるだけなのに? ああ、それが変態なのか」

「いや、独り占めしたいは普通。その前だ、その前。絶対おかしい」

「私もそう思います」

 美緒は呻いた。

「まったくだ」

 檪が溜め息を吐く。

「主が変態なのはさておいて。あんた、今は向こうの方が立場が強いって考えてたか?」

「叩いてから思い出しました」

「おい」

「私自身も奉公を続けられないですし、奥方様や武虎様のお考え次第では、国許の父も罰を受けますよね」

「親父さんだけで済めばいいけどな」

「実は弟がおりまして」

「弟の奉公は絶望的だな」

「しかも二人」

「おーい」

 自分で言っていて、血の気が退いてきた。檪も片手を額に当てて、頭が痛い、とぼやいている。

 椿もまた同じ格好で。

「美緒のご両親に迷惑が行くのは困るなあ」

 呟く。檪がちらりと視線を動かした。

「今更何をおっしゃいますやら。惚れた娘を迎えに行きたいと言った時点で、俺は、向こうがどんな手段に出ても仕方ねえぞと言いましたがね」

「うん、言われた。ついでに言えば、美緒に叩かれるのも想定した」

「しなくていい!」

 檪は一瞬だけ声を荒げ、肩を落とした。

「何かを考えてらっしゃったお姿とは思えねえな」

「うん。結構、想定外なことだらけかな」

 あはは、と軽く椿が笑う。

「まさか、武虎があんなに美緒の話を聞かないで迫っていると思わなかったし。美緒が、武虎を引っ叩くことで抵抗するとも思わなかったし」

「お願いですから、そこを蒸し返さないでください」

「引っ叩くのが見えた瞬間、僕も武虎を殴ろうかと思ったよ。美緒が叩いて良いのは僕だけ」

「やっぱり変態じゃねえか」

「あとは、 刀を抜かれるとも思ってなかった」

 同じ笑い声を続けながら、椿は表情を引き締めた。

「あそこまで短気だったっけね、武虎って」

「さあ。どうですかね」

義母上ははうえと同じだなぁ。駆け引きとか、ちょっと裏のある振舞いとか苦手そうだね」

「できないんじゃないですかね」

 ひょいっと檪が肩を竦め、美緒を見た。

「あんたはどう思う?」

「話を聞かないお人だとはこの数日で嫌と言うほど思いましたけど」

「そこじゃねえ」

「裏表のある方ではいらっしゃいませんよ」

 眉を寄せて、国許で見ていた姿を思い出す。


 遠くから眺めているばかりだったが。黙々と稽古に励み、街に出て声をかけられれば、挨拶を必ず返す姿しか知らない。

 何かにかれたような、ひとつのことだけに拘っている姿に覚えはない。


 うんうん唸っていると、檪が吹き出した。

「よく言えば、真っ正直なんだろうな。嘘をけねえ」

「腹芸とか絶対無理だよ、武虎は」

「ははっ。幕府に出たら苦労するだろうねえ。百連練磨の老練たちにあっという間にわれちまいそうだ」

 檪が笑うのに、椿もこめかみを抑え始める。

「そうなったら、小久保家はおしまいだよ……」

「そうですよ。藩主の舵取りで、お家の未来が決まる。それに仕えている人間や領地の住人は振り回される」

 にやにや笑いで檪は言った。

「あんたの動き次第で皆の将来が変わると、散々申し上げたつもりなんですがね?」

「そのとおりだ」

 椿が襟を直す。檪は袢纏はんてんに首を埋めたまま、体の向きを変えた。

「僕がこのまま父上の跡を継げば、檪たちには今のまま――僕と藩のために働いてもらうことになる」

「その覚悟がある奴しか、集まってませんがね」

「武虎に変わったら……」

「俺は小久保家から離れるつもりでね」

 じっと見る檪の視線は、熱のこもったそれ。

「俺は、亡き御方様の藩とそこに関わる人間を守るというお気持ちに惹かれて、二代目を継いだ。あんたにもその気持ちがあると思ったから付いてきた。別の主に付く気はないんだよ」

「だけど」

「俺たちは藩に勤めてるんじゃねえんだよ。あんたに仕えているんだ、小久保こくぼ文虎あやとらさんよ」

 椿は顔を伏せる。

 ぎゅっと膝の上の拳が震えるのが見えた。

 美緒は眉を寄せる。


 長い沈黙。


 それを破ったのは椿だ。

「国許に――父上に会いに行こうと思ってたんだ」

「何故?」

「父上のご意見が聞きたい。僕の考えとか義母上の思惑とか、武虎自身がどう思っているのは別として、当主として将来の大田原藩をどうすべきか、をね」

 ふわりと笑い、美緒を見て。

「あと、美緒の家族に不利がないようにもお願いしようね」

 言って、首を傾げた檪を見遣る。

「もう少しだけ、『網』を預けてもいい?」

「少しと言わず、あんたの命が続いている限りですよ」

 檪は赤みのさした頬をまた袢纏に埋めた。

「うん。ありがとう」

 椿が笑みを深くする。

「ついでに旅の支度も教えてもらっていい?」

「はいはい。あんたが一人でできるとは思ってませんよ」

 のそっと立ち上がって、檪は奥の部屋へと声をかけた。襖の向こうの菓子屋の主と、何かを言い交わしている。

 その背を見てから、美緒は椿を見た。

 椿も真っすぐに見つめ返してくる。

「美緒。君は」

「お供してもよろしいですか?」

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