迷いは消えて(1)
歩こうと、土手の道を見渡す。
すると、街の方からふらふらしながら歩いてくる人影が見えた。
細く背の低い男だ。冴えない色の袴姿で、頭巾を被っている。
――さっきの店でも見かけたけれど。
一体何の用で追って来たというのだろう。
離れていてもなお聞こえるほど息を乱した彼は、美緒から五歩離れたところで止まる。
眉間と肩に自然と力が入る。
「どなた……?」
「僕だよ」
返ってきたのは小さな声。でも、間違えない。目を丸くする。
「美緒…… 足も速いね」
は、は、と息を繰り返して。
「
ずるりと頭巾を取る。
覗いたのは、細い眉に柔らかな目鼻立ち。
椿だ、と息を呑む。
黒い髪は
そこに思いっきり腕を伸ばして、飛び込んだ。
「ぬああ!」
彼は背中から泥の中に倒れ込んだ。
美緒はその上に乗りかかった格好だ。
「重い……」
「椿殿」
体全体を預けたまま、顔を肩に寄せて呼ぶと、目尻がじわりと熱くなった。
「何故、ここにいるのですか」
「え? 桜が、美緒も屋敷を出たって教えてくれて。柏が向かった方角も確認してくれたし」
「そうじゃないです」
「違う? 何を知りたいの?」
「あの中から、どうやって出てきたのですか」
「ああ、それね」
くすくすという笑い声とともに、彼の手がぽんぽんと背を叩いてきた。
「縄は自分で抜けた。昔、母上になぜか縄抜けも仕込まれてね。何に使うんだろうと思ってたけど、うん、役立ったよ」
「それはよろしゅうございました……」
「その後は、土間の側から床下に潜って、建物の外に出て。柵の側からだと見つかるから、塀を乗り越えた」
「塀を!?」
「これも母上に仕込まれてたんだよ。しかも、昔練習に使った場所がちょうど、あの建物の裏手だったんだよね。だから楽に乗り越えられて、その後は檪のところへ行った」
「いつ」
「元旦早々何しやがると怒られたから、元旦かなぁ?」
「え……」
がばっと顔を上げる。
つまり、美緒が気が付いて心配し始めた頃には、もうそこにいなかったということになる。
「知らなかった」
「だって、知らせようがなかったじゃないか」
椿はにやりと笑った。
「さすがに何も残ってないのはどうかと後から気づいたから、あとから柏に落書きしに行ってもらったんだよね」
「ああ…… あの、墨の」
「義母上へのちょっとした悪戯としてね。それだけじゃなくて、桜にもちゃんと伝達してもらったよ。ただ、桜から柊には話が通せなかったみたいだね。台所番と客人扱いの国許家老じゃあ仕方なかったかな」
「そんな」
「君と桜もなかなか繋がらなかったみたいだね。話せたのは今朝になってからだったんだって?」
彼の笑みがにやりと曲がる。
「だけど、結果的にはよかったんじゃない? 敵を欺くならまず味方からって言うし」
「冗談じゃない!」
思わず、肘をみぞおちに突き込んだ。
「ぐっは!」
椿は蒼くなって、腹を抑えてのたうっている。
体を起こして、美緒はごしごしと顔を拳で
「お一人で、どうなさっているかと……」
思った以上に声が震えた。
「……ごめん」
「ごめんって、美緒」
十日ぶりに見た少年は、変わらぬ笑みを浮かべて、その手を美緒の頬に沿わせてきた。
「心配させて、ごめん。叩かれても文句は言えないと思っているから」
「本当ですね」
ぎゅっと睨む。真面目な顔で頷かれたから、迷わず右手を張った。
「痛い」
うう、と呻いて、椿は笑った。
「でも、美緒といるって感じだ」
「そうなんですか?」
「だって、君、すぐ僕を叩くじゃん」
「そうでしたっけ?」
「そうだよ。ああ、でも本当に安心する。君に叩かれるのがこんなに嬉しいなんて」
「ちょっと待って」
口元を引きつらせながら、視線を向ける。すると椿は、腫れた左頬を隠すことなく、美緒を見つめ返してきた。
「これで赦してくれた?」
「……はい」
頷くと、顔が熱くなった。それを隠そうと、俯く。だけど、両肩を掴まれて、引き寄せられた。
「じゃあ、僕と来てくれる?」
細い腕に囲まれた中で、ぶんぶんと首を縦に振る。
「ああ、良かった」
笑われた。
そしてまた、唇が重ねられる。忘れられなかったものと同じ熱が。
その唇から、柔らかな声も漏れた。
「君に会いたかった」
「……私もです」
すん、と鼻を鳴らすと、彼はもっと笑った。
よっこらしょ、と彼は立ち上がり、手を差し出してきた。やや俯いて手を重ねる。
「照れてる?」
「違います」
「嘘だ」
「……そうですよ、照れていますけれど」
「うん。僕には照れてほしいな」
また笑い声が聞こえる。口を尖らせる。
そうして、行こう、と手を引かれたのだが。
「ああ、追い付かれちゃった」
椿が一歩、美緒の前に出た。
泥だらけの細い背中に隠すようにされて、瞬く。
聞こえた太い足音に体を縮こませる。
「本当に逃げていたのか」
武虎の声だ。椿がゆっくりと頷くのが見えた。
「ごめんね、死んでなくて。そのほうが君には面倒がなかっただろうけど」
足音が止まる。そろりと覗けば、さほど離れていないところに武虎がいた。
「おまえが死んでいれば、俺が小久保家の跡目だ」
低い声が言うのに。
「そのとおりだよ。逃げ出せた後、このまま江戸からいなくなるってのも考えたんだけど」
くすり、と椿が笑う。
「できなかった。君が手を出したって聞いてしまったから」
「美緒にか」
「そう」
武虎が、歯ぎしりの音を立てた。
「いつ、そこまでの仲になったんだ」
「
椿は肩を竦める。
「僕と美緒のことだ。君には関係ない。関係なくあってくれ」
背中に張り付いた美緒を肩越しにあやしながら、彼は声を低くした。
「理を優先するなら、美緒は、僕と関わらないほうが幸せになれると思うよ。でも、どうしても、納得できなくてね」
「何を」
「君と美緒が
武虎の眉が跳ねる。美緒はびくっと肩を揺らして、椿の袖を掴んだ。
「どう考えても、君には譲りたくないんだ」
椿は全く動かない。
「帰れよ、武虎。君の中に跡目を継ぐ気持ちがあるなら、女一人に拘らないで、狂った嫡子が家出したことを好機とすべきだよ?」
ふっと、どちらかが息を吐いて。
ぶん、と武虎の腕が空気を裂いた。
「どうしてそこで刀を抜くんだよ!」
椿が叫ぶ。
突き飛ばされ、美緒はぬかるみに転ぶ。
「椿殿!?」
彼の頭があった場所を刃が唸って通り過ぎる。
次は、ひょいっとその軌跡を潜る。
「本当に死ねってこと!? 冗談きついよ!」
「煩い!」
ぶん、ぶん、と刃が風を斬る。
ひゅっと息を呑んで、美緒は跳ね起きた。
手が当たった小石を掴んで、投げる。
それは刀を振る方の頬に当たる。
椿が武虎の懐に飛び込んで、顎にその額をぶつけた。
武虎が、呻いて、よろめく。
「行くよ、美緒!」
「はい!」
ぎゅっと手を握り合って、土手を駆け上がった。
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