沈んでいたものが浮く(8)
「どうやってかは知らぬが、いないということは逃げたということでしょう」
不機嫌な津也がそう言い切ったので、手分けして市街に行くと話がまとまった。
「表だって捜すわけにはいかぬ。あくまでも内密に。幕府に内紛を悟られてはなりませぬぞ」
そう主張した伝衛門に、別の初老の男――小久保家の江戸家老が頷き。
男たちは静かに出かけていく。
桜も駆り出されたらしく、大きな背中がのそのそと歩いていくのが見えた。
美緒はひっそりと裏口から出た。
街中の浮かれた気分はもう冷えていると感じながら、威勢の良い掛け声と慌ただしい足音でごった返す街道を、南に向かおうとする。
――煙草屋は閉まっている。お勧めの菓子屋がある。
桜は檪の店が移ったと伝えてくれたのだろう。それが何故かは行けば分かる。
気が
その中で、嫌な男とかち合ったと頭を抱えたくなった。
「どこへ行く」
知らぬ顔ばかりだった流れを
武虎は渋い表情だ。
「美緒。屋敷に残るのではなかったのか」
「私も文虎様を捜します」
唇を尖らせて言ってみると、面白いくらいに彼の顔が歪んだ。
「外にいるとは限らないぞ」
それに首を振る。
「既に中にはいらっしゃいませんでした」
足の向きを変えると、腕を掴まれた。
「ならば外、とおまえも思うのか」
「逆にお尋ねしますが、武虎様は、文虎様が何処においでだと考えているのですか」
そのままの姿勢で睨む。
「何処でもない。あそこで力尽きたと思っている」
高い位置にある彼の目には鈍い光。
「死んだのではないのか」
躊躇ない言葉に、さらにきつい視線を投げる。
「軽くおっしゃいますね」
ぶん、と腕を振ると
「怒ったのか、美緒」
「当然でしょう」
ぎりっと奥歯が鳴る。
「腹違いとは言えご兄弟。何も感じないのですか」
「国と江戸で別々に育ったからな。父上や爺を介して文のやり取りをしたこともあるが、そこまでだ。今は、あんな狂態を見せつけられて、怒りを感じている」
一瞬だけ頬を引き攣らせただけで、彼は表情を変えない。
「俺はこんなだと言うのにおまえがそこまで気にかけているのは、やはり、そういう仲で間違いないんだろう?」
淡々とした声に、もう答えはしない。
ずんずんと歩いていく。
よほどの形相なのだろう。後ろから大股でやってくる武虎もかなりの迫力なのだろう。向かいから来る人はぎょっとして道を譲ってくれる。
菅笠を被った旅人も、野菜の入った桶を抱えた女も、赤ん坊を背負った子どもも、駕籠かきまでもだ。
「待て」
それでもまた腕を掴まれた。
「少し話を聞け」
「どんなお話をですか」
ちらり、と武虎は道端の茶店を見遣った。
「落ち着いて、話させてくれ」
ゆっくりと首を横に振ろうとしたが、彼はずかずかとそこに入っていく。唇を曲げて、後を追う。
店の娘はにこにことしていたが、仏頂面のまま長椅子の端と端に腰かけた美緒と武虎はやはり奇異らしい。奥にいる店主と思しき男も、他の客も――頭巾姿の男と、流行りの長着を纏った娘も、顔は背けるのに視線は向けるという不思議な姿勢になっている。
「美緒。何度も言ったが……」
「一途に慕われる相手が欲しいのなら、他を当たってくださいませ。私は無理です」
きっぱり言い切る。武虎の眉が下がる。
「奥方様にも歓迎できないと言われましたので」
「一体何を話したんだ」
こめかみを抑えながら、彼は長く息を吐き出した。それから、しんとした顔を向けてくる。
「何度も問うが。何故、俺では駄目だ」
「こちらもお訊きしたいですよ! 何故、私。それに、どうして必ず振り向かれるとお思いなんですか」
言ってみたら、腹まで立ってきた。
何かと椿と自分を比べたがる。そこに意味はないだろうに。
たんっと地面を蹴って、武虎の真正面に立つ。
「もう一度申し上げます。この数日、貴方様のお気持ちは存分に聞かされましたが、お応えできません」
「何故」
「どうしても」
一等きつい視線を向けているはずなのに、武虎も退かない。むしろ。
「あれには、口づけさえも許すのに」
そんな言葉が飛び出してきて、かっと顔が、頭のてっぺんが熱くなる。
ぱあん、と高い音が往来に響いた。
右手がじんと痛むのを感じながら踵を返し、走り出す。
「待て!」
振り返らない。数多の視線を無視して、腕をめいっぱい振って、ぬかるんだ土を跳ね上げて、進む。
細い道が交わる角を曲がって、次も曲がって、さらにその次もとめちゃくちゃに進む。
喧騒が聞こえなくなったところで、ようやく足を止めた。
裸の木が連なる土手をずいぶんと進んできた。
溶け残っている雪を払って、岩の上に腰を下ろし、ほうっと呟く。
流れる小川の中では魚が跳ねる。
――ここ、どこだろう。
肩を上下しながら、そっと右手を見た。
最近辛抱がきかないなと、苦笑する。
今度は、あろうことか主家の人間と分かっている相手を殴ってしまった。
「屋敷に戻れないわね」
むしろ、国許の父にもとばっちりが行くかもしれない。
家族全員連座となったらゴメン、と弟妹たちの顔を思い浮かべる。
うう、と呻き。それでも、とも思う。
「なんで、知ってるの……」
重ねられた唇の熱は忘れられずにいる。
その二人以外いなかったはずの離れの中での出来事を、何故、武虎は知っているのか。
知らぬ間に忍び込んでいたとでもいうのか。
「椿殿に何をしようとしていたの」
もしかしたら、あの時の曲者も、と思って右手を握りなおす。
ぎりぎりと奥歯が鳴る。
証拠はないが、確信へと変わった思いだけでも伝衛門へ伝えたい。
――檪を頼ろう。
当初の心積もりどおり、品川へ向かおうと、立ち上がる。
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