沈んでいたものが浮く(7)
鍵を握り、裸足のまま、武虎は庭に下りていった。
瞬きを繰り返してから、追おうとした美緒を。
「お待ち」
津也が呼び止める。
振り返ると、彼女は目を
「よりによって、あの女の子どもと争うなんて」
口を開きかけて、止める。津也はのそりと体を起こした。
「
「お気づきで」
背中にひんやりとした汗を流しながら言うと、さらに顔を顰められた。
「今ので確信したのよ」
くいっと顎で示され、美緒はしぶしぶ腰を下ろした。
津也の視線は庭の木に向いていた。
「気づいていて? この屋敷には椿の木が多いのよ」
「え……?」
言われて見回して。雪の中でも緑を誇る木が多いと、知った。
頷いて見向くと、津也も美緒を向く。
「全部あの女が植えさせたのよ。お好きだったんですって」
あの女、という言葉に眉を顰めながら、問う。
「多恵様が、ですか」
「そう」
頷いた津也もまた、眉を寄せた。
「あの女を思い出させるもの全て、妾は棄てたかったのに。他の物――器の取換えや掛け軸の掛替えは許しても、木を切ることだけは、あの子が許さなかったのよ」
「武虎様ですか? 文虎様ですか?」
「武虎のわけがないでしょう。あの子が妾の言うことに逆らうわけがなし」
ぎゅうぎゅうと寄せられる眉に、少しだけ腰を浮かせながら、美緒は言葉を継いだ。
「では、文虎様が木を切るなと命じられたのですね」
「そう。椿の木だけは鬼のような形相で止められたわ」
頷いて、津也は喋り続ける。
「それだけじゃなくてよ。妾が江戸に来て四年、穏やかに挨拶できたのなんて、数えるくらい」
その顔は、どことなく蔭が濃い。
「妾が大田原から来たのも、しぶしぶ受け入れたという感じだったわね。まあ、あの女の喪が明けるなりやってきたんだもの、仕方ないわね。妾も仲良くなろうというつもりはなかったし」
そこまで話して、彼女はもう一度庭に視線を向けた。
目を凝らせば、蕾の先は真っ赤に染まっていると知れる。
津也の顔も劣らず、赤い。
「あの女の子どもだってだけで、憎くて当然でしょう」
ぎ、と奥歯が鳴るような音がした。
「あの女。江戸育ちの、大きな藩で育った、優しげな顔をした夜叉よ。妾が初めて会った時、何と言ったと思う?」
想像もつかない、と首を振る。それを見ているのかいないのか、津也は椿の木を睨んだまま。
「椿の花のごとく死ねる覚悟はあるか、と言ったのよ。武家の女として、もしもの時は潔く散れるか、ですって。妾を田舎の小娘と侮って言ったのだわ。忘れるものですか」
脇息に爪を立てて、唇を震わせ続けている。
「悔しくて、武虎には誰よりも武士らしく育ってもらおうと、武道に励ませたわ。それなのに、あの女の子どもは、読書ばかりの白い子なのよ。ますます訳が分からない」
美緒は僅かに首を傾げてみせた。
椿が自身を『頭でっかち』と評し、武虎の武芸を買っているというのは、聞いた。
その後ろには、母親たちの何がしかの思惑があったのか、と目を伏せて。
荒々しい足音が近づいてくるのに、廊下の先を見ようと背を伸ばす。
「今度はなんなの」
は、と津也が首を振る。
飛んできた男は、真っ青な顔で。
「奥が」
と言った。
「奥が?」
「離れが、ですよ…… 武虎殿が開けたから、皆で様子を見に行ったら、そしたら」
ぜえ、と喉を鳴らして、彼は掌も震わせた。
「離れの中に、若がいらっしゃらないんですよ」
「いない?」
「文虎様がいないんですよ!」
がたん、と脇息を倒して、津也は前に乗り出した。
美緒もまた立ち上がって。
庭を走る。
柵の戸は、きい、と揺れている。
打ち止められていた戸も全て明け放たれて、夕日が部屋の奥まで照らしている。
その外で、中で、ぐるぐると歩き回る男たちがいる。
「美緒よ」
伝衛門もその中にいて、手招いてくれた。
「文虎様は」
「いない」
「どうして」
「分からぬ」
彼の顔から血の気が引いていることに、美緒もまた眩暈を感じた。
「中にいたんじゃないの」
首を振られる。
建屋の中に飛び込む。
桟や燈台には、うっすらと
見回して、壁に墨が塗られていることに気がついた。
「何、これ……」
よほど太い筆で描かれたのだろう。強く存在を訴えてくる。
強弱をつけた、曲がり回って繋がっている形。
「……何の絵?」
首を捻る。
外では、男たちの怒鳴り合う声が聞こえる。
伝衛門の声も交じっている。
朝まで、 布団で横になったものの、 頭の中はずっと鐘が鳴っているようだった。
喉のかさつきに耐えられなくなって、厨房に向かった。
廊下を行き交う誰もが、眉を吊り上げている。
だが、厨房だけは慌ただしさから取り残されているようで、ひんやりとした空気で満ちていた。
「落ち込んでるのか」
いるのは大柄の男だけ。
「そんなにひどい顔になっているかしら」
指差して笑われて、美緒は両手で目を擦った。
「目の下が真っ黒だぜ」
「そ、そう?」
「まあ、しゃあないわ。ここに長く勤めてる奴は、若様を小さい頃から知っているから、気が気じゃねえんだぜ? おまえも、身近でお世話してから気になるんだろ。ほれ」
と、湯呑みとまっしろな饅頭が乗った皿を渡された。
「ありがとう」
笑って、土間の上り口に腰を下ろした。
かぶりつくと、塩のきいた餡がのそりと口の中に入ってくる。
「あんた、品川宿の方はよく行くんだってな」
隣に座って、男が言うのに頷く。
「年を越してからは御無沙汰だけど」
「これも品川宿にある店のなんだよ。行ってみな」
「機会があれば」
「待ってないで、作るんだよ」
にやりと笑われた。じっと顔を見つめる。
――厨房に桜って奴がいる。
「あなた、もしかして」
「煙草屋は今閉まっているぜ、椿」
じっと顔を覗かれる。ごくりと喉が鳴った。
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