沈んでいたものが浮く(6)
カア、ともう一度、
その声を合図に、ぬかるんだ地を勢いよく蹴って、体の向きを変える。
ぐいぐいと丸裸の木が並ぶ小道を進む。
「待て」
それでも、背中へ
「俺では、ダメか」
振り返ると、熱のこもった視線が絡みつく。
「ダメとかそういうことではなくて。私に何をお求めなのです」
眉を吊り上げる。彼は首を振った。
「先ほど言った。俺の妻となってほしいと」
「なぜ私なのです」
口の端を片方だけ丸める。
「国許のお屋敷には、他にもたくさん奉公に上がっている娘がいました。この江戸でもお傍に控えたいと思っている者はいるのではないですか?」
ふっと笑って、止めていた足をまた前に進める。
「俺はおまえが良いんだ。だが、おまえは……」
ぐいっと腕を引かれた。背中が武虎の胸に当たる。分厚い感触に身を縮める。違う、と胸の奥でび、睨み付ける。
その美緒の鋭い視線に武虎が臆することはない。
「やはり、おまえはとうに、あれと契った仲だったのか」
静かに言われ、かっと頰が熱くなった。
「あれ、とは」
「母上が奥に押し込めた、あの男だ。江戸に来てから、たった一月だというのに。あれはどうして、おまえと心を通わせられたんだ」
今度は、突き刺さってくる声だ。
ばっと身を翻して、距離をとる。武虎の腕が再び伸びてくるのを、慌てて払った。
当たった場所を反対の手で押さえながら、武虎は呻く。
「出会ったのは、俺が先だった。俺は、おまえが奉公に初めて来た時からずっと、焦がれていたのに」
「それが何だと言うのです」
思わず怒鳴った。
「知り合ってからの時間が長いほうが、分かり合えるとでも? より良い感情を
「少なくとも、狂ったあれが、おまえに何を与えられたと言うのだ」
「狂ってなどいなかったでしょう!?
言ってから、しまったと思った。案の定、武虎の目が揺れる。
「やっぱり、あいつなんだな」
は、と今度は短い溜め息が返ってくる。
それから、武虎は背筋を伸ばした。
「あいつを奥に押し込めたのは母上だ。あれを押し込めるから江戸に来い、と呼ばれた。母上は嘘をついてない。あれが狂態を
それはわざとやっていたんだ、などと言ってみるべきだろうか。
「私が見たのは、 己の身よりも家の将来を慮っている姿でしたが」
と笑う。
今度は武虎が首を振った。
「あれが聡い男だと、理に乗っ取って事を判じる奴だったのは俺も知っている」
「今もそうです」
「その怜悧な男が、わざと頭のおかしな真似をする理由が……」
「あったのでしょう」
ふん、と鼻を鳴らすと、首を捻ってから彼はぽつんと呟いた。
「だが、それで俺は小久保の跡目になるという未来が見えてきた」
そのとおりだ、と眉間に皺を刻む。
「未来に望むものが変わったのだ」
そう言ってまた、手を伸ばしてくる。
今度は身を固くして待つ。
掌は頬に触れるすれすれのところで止まった。
「おまえもその一つだ。応えてはくれぬのか」
「……お断りします」
言って、だっと駆け出す。
再び、カラスが一声鳴いた。
美緒が走る速さなどたかが知れていて、武虎は難なく付いてきた。
帰り着いた屋敷では、門の脇に控えていた男が声を上げた。
「奥方がお待ちです。まだ帰ってこないのかと、何度もおっしゃっていたほどで」
「……今帰ったのだ」
「帰ったら顔を見せてくれってお話ですぜ」
呻くようにしてから、武虎は振り返る。
「母上に話をする」
「はあ!?」
美緒は目を丸くした。彼はずかずかと廊下を進んでいく。
草履を脱ぎすてて、走る。追い付いてから叫ぶ。
「何を考えているんですか!?」
「おまえが俺の隣に来ないか、と」
「無理ぐり連れてきて楽しいですか!」
「来てくれるのならば、何でもしよう」
振り向いて、彼は真っすぐに見つめてきた。
「まず、あれを諦められればいいのだろう?」
ぐっと息を呑む。
「口づけを交わした仲といえ、もう忘れてくれ」
言い切ると、彼はまた前へと進む。その背中に向けて。
「ちょっと…… なんで、そんなことを知っているんですか!?」
裏返った声が出た。
「煩い。静かにおいで」
正面の部屋の中からは、常より低い
彼女は脇息にもたれた姿勢のままこちらを見てきている。
「武虎。情けなや」
ほっと彼女は息を吐いた。
「女子の心が欲しいなら、騒ぎ立てて連れてくるのでなくて、もうちょっと穏やかになって頂戴。妾も嫁に来てもらうなら、気持ち良う来てもらいたい」
ゆらりと身を起こした津也の前に、武虎はどっかと腰を下ろした。
「母上。鍵をお貸し願いたい」
「鍵? 何の?」
「奥の離れの周りを囲う柵の鍵です」
ぐっと手を出す息子に、津也は頬を引き攣らせた。
「借りてどうする」
「中を見てまいります」
「見てどうする」
「あれがどうなっているか…… 放り出して八日経つ。もう死んでいるかもしれない」
あまりに迷いなく飛び出してきた言葉に、美緒は立ち尽くした。
「おまえも、あれに死ねと言うのかい」
対して、津也はどこかほっとしたような表情を浮かべている。
武虎は答えず、もう一度手を突き出した。
津也は静かに立ち上がると、床の間の真ん中にあった物――鍵を掌に落とした。
「見ておいで。妾も気になっていたところ」
頬を赤くして、唇を舐めて、彼女は笑った。
「妾はね。あれこそ――あの女の子どもこそ、椿の花のごとく死ねばいいと思っているよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます