沈んでいたものが浮く(5)

 陽気な掛け声もない屋敷内、まったくもって正月という気分ではない。

 厨房でも、膳に並べるのは祝い料理ではないという有様で。

「つまんねえな」

 と、大柄の男は言い、美緒は曖昧に笑った。

「国許にいたほうが楽しめたかもしれねえなあ、あんたは」

「ご心配なく」

 くすっと笑って見せると、男は豪快に椀に飯をよそってくれた。

「まあ、また雪が残っている中を歩くのは面倒だし、当分帰れねえな。春、殿と入れ違いになるくらいまでいる気か?」

「東海道の海沿いはそんなに雪が積もらないもの。春まで待たなくても、とは思うけど、いつまでいることになるかしらね」

「ふうん」

 ほらよ、と椀を渡される。

 自分の前に、武虎の分を運ばねばならぬ。


 彼が食べている間は、縁側で待っている。

 何を話しかけられるわけでも、話すわけでもない。

 かちゃかちゃと食器が鳴るのを聞いているだけだ。

 目を閉じて。

「美緒よ」

 慣れぬ低音に、ゆっくりと瞼を持ち上げる。

「明日からまた、道場に通おうと思っている」

 欠片一つ残さず食事を平らげた武虎が、一語一語を噛みしめるように話す。

「前にも言ったが、一緒に来てもらいたい」

「明日、早速ですか?」

「なんとか、頼む」

「かしこまりました」

 は、と息を吐いてから、膳を引き上げようと彼の前に進む。

 伸ばした指先が触れ合って、つい、眉間に皺を刻んだ。

「美緒」

 低い声に慣れない。

「なんでしょうか」

 応じる自分の声が硬いことは気付いているが、直せない。

 それが通じたのだろう。

 武虎は、結局、なんでもないと首を振った。



――話されたところで、聞ける自信もないけど。

 廊下に一人になったところで、やっと詰めていた息を吐き出した。

 伝衛門につい頷いたのが間違いだった、と今では思う。

 腹に一物を隠しておくという芸当は、自分には無理だった。

 かと言って、今更逃げ出せもしないのが困る。

 ずるずるとへたり込んで、視線だけ動かした。

 奥へ、奥へ。柵の中へ。


 あれから、一歩も近寄れていない。誰もそちらへ向かわない。


 寒くないだろうか、おなかは空いていないだろうか。

 寂しがってはいないだろうか、と。

 思考がぐるぐる巡る。


――とっとと逃げ出しておけば良かったんだ。


 すう、と一度息を吸って、立ち上がる。



 雪が大分解けてきたその日に、美緒は久々に屋敷の外へ出た。

 前を向けば、武虎の大きな背中。

 武家屋敷の並びから、小川を越えて、畑と家屋がごちゃ混ぜになった中へと。彼がずんずんと風を切って進んでいくので、小走りで追う。

「おお、奴もいた」

 と言って、さらに足を速められた時は、さすがに走るのを止めた。

 髪を掻き上げて、前を向き直る。

 武虎に劣らぬ巨躯の男がいる。

 二人が喋る後ろについたので、時折、横顔が見えた。

 どこかで見たな、と思った。



 道場は、決して小さくない。

 掛け声が響いてくる。

 門の外で待つつもりだったところを、手招かれて、恐る恐る板敷のそこに上る。

「ここで待っていろ。――師匠」

 武虎が、奥に座す白髪の男を呼ぶ。

 老翁は、ほ、と笑った。

「そんな隅でなくて良かろう」

 手招かれ、一番奥に上げられて、さらに縮こまる。

 喧騒へと武虎は臆することなく混じっていく。

 太い腕が、竹刀を唸らせている。

「このような場は初めてか」

「いいえ」

「だが、緊張しなさっている。恐ろしいか」

 掛け声が、竹刀が怖いのかと訊かれたら、それは否だと思う。

 だが、肩ががちがちに強張っているのも本当だ。それは、きっと。

「何故ここに連れて来られたのか分からず、戸惑っています」

 答えると、同情の主は目尻を柔らかく下げた。

「分からぬ、と申されるか」

「はい。道場の付き添いは、同じく刀を振ることを知っている者のほうがよろしいのではないでしょうか。私は剣の道を分かりません」

「なるほど。ただの付き添いのつもりでおられたか」

 弾んだ笑い声をあげられて、美緒は振り向く。

「ただの、では連れて来ぬだろう。では『ただ』ではないとすると何か」

 翁は目元をしわくちゃにした。

「嫁にするつもりだ、ということであろう」

「……は?」

 声が裏返る。また笑われた。



 かあ、と烏が鳴く。

「怒っているのか」

「いいえ」

 否定はしたが、体の奥はまだかっかと燃えている。

「きちんと話してから連れてくるべきだったと師匠にも怒られた」

 さもありなん、と極力感情を消して見上げる。

 武虎の表情も静まり返っていた。

「何度も言おうと考えていた」

 じゃり、と土を蹴って二人立ち止まる。

 夕日を背に受けて、武虎が口を開く。

「俺の妻となってくれないか」

 唇を噛む。

「師匠にはお認めいただいた」

 と、彼は言葉を継いだ。

「母上にも、帰ったら話をするつもりだ。国許にいた時から、気の利く娘と思っていたのだ、と。父上にもお許しを乞う。おまえの親にも会いに行くつもりがある。だから」

「黙ってついてこいとおっしゃいますか」

 見上げると、瞳だけは熱が籠っていた。

 きつい視線が絡み合って、そして、また武虎が口を開く。

「受けてはくれぬのか」

「受けかねます」

 まっすぐに答えると、武虎の顔が歪んだ。

「俺では駄目なのか」

 引き連れた口からうめき声が漏れる。

「既に心に決めた相手がいるのか?」

 だから、唾を呑み込んだ。


 椿の柔らかい声が、頭の中で響く。

 あの声で名を呼ばれることが、こうも好きだったのか、と唇を噛む。

 その唇に重ねられた熱を思い出すと、心臓が喚き出す。


 俯く。

 からり、と下駄を鳴らして、武虎が寄ってきた。

「美緒」

 固い呼び声だ。身が強張る。

「なんでしょうか」

「俺は、遅かったのか? もっと早くに言っているべきだったのか」

「どうでしょう?」

「もし、大田原にいるうちに言っていたら……」

「何とお返事したか、想像できませぬ」

 顔を上げて、にやりとして見せる。

 彼は太い眉を情けなく下げた。

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