沈んでいたものが浮く(4)

「もう、奥の離れは気にしないでよろしい」

 津也つやの部屋に呼び出され、そう告げられた。

 真向かいに座らされていた美緒は、唇を噛むのを見られぬよう、そっと顔を伏せた。

「わざわざ国許から来てもらったのに。ご苦労だったわね」

 ちらりと見ると、津也は紅を刷いた唇を少し釣り上げていた。

「これから、どうしますか。国許に戻りますか? 戻るにしても、殿に申し上げて、そなたが困らぬように取り計らってもらいますが」

 ねえ、と津也は横を向いた。

 その視線の先にいた伝衛門でんえもんは、うむ、と重く頷いた。

 皺の寄った横顔を見つめてから、ぎゅ、と膝の上に拳を作って、美緒は首を横に振る。

「よろしければ、まだこちらに残らせていただきたいのですが」

「そ、そう」

 津也の声がふわっと裏返ったので、美緒は顔を上げて瞬いた。

 一度咳ばらいをしてから、ほほほ、と笑われる。

「江戸の街が気にいったのかしら。暇々に出かけていたりしていると聞いていますからね」

 最後はややむせながらの笑いがおさまると、津也は言った。

「では、引き続き頼むわね」

「宜しくお願い致します」

 深々と頭を下げる。


――椿殿を捜さなきゃ。


 表情を引き締めて、背筋を伸ばす。

「では、次の頼み事をしても、よろしくて?」

「何なりと」

「今度は…… 武虎たけとらの世話を頼むわ」

 津也の笑みが歪む。

「武虎様の?」

 美緒も眉を寄せた。

「うむ。そなたには、奥の時と同じように、武虎様の身の周りを捌いてもらいたいのでござる」

 伝衛門がまた頷くのに、津也が頬を引きつらせる。

「奥と同じでなくていいわ」

「左様でございますか」

 つい、美緒もきつい声音を挟んだ。はっと津也が振り向いてきて、また無理やりな笑みを浮かべる。

「そう……ね。騒ぎの前からずっと、あの子がそう言ってきたのよ。奥の手が離れるようならこちらに頼む、と」

 ふっと視線を放り投げて、彼女は言った。

「同郷の出身ですからね、気になっていたのではなくて?」

「はあ」

「気楽にやってくれて良いのよ」

 そうして、早く行け、と手を振られた。

「では、拙者が案内いたそう」

 どっこらせ、と立ち上がった伝衛門に促され、美緒も部屋を出た。



「それで」

 と、途中で伝衛門が振り向いた。

「少し、相談がござる」

 そのまま向かったのは伝衛門が滞在している客室だった。

「他ならぬ文虎あやとら様に関わること」

 ぴしゃっと障子を閉めて、低い声で告げた男を美緒はきっと睨んだ。

「今、文虎様はどこでどうなさっているの? 私が気を失っている間に何があったの」

「若は今、奥の離れに一人でおいでだ」

 伝衛門が奥歯を鳴らす。

「おぬしの悲鳴に気が付いて、男衆が向かったところまでは分かろうか。拙者が離れに向かったのはその後でな。若と奥方で言い争った最後に、奥方の命に逆らえなかった男が離れに連れ込んで、さらに戸口を塞いでしまった。さらに、誰も近寄ってはならぬと、奥方が柵に書けてある錠の鍵を隠してしまった…… と、待つでござる」

 障子にかかった美緒の手を、彼はそっと抑えた。

「焦りは禁物」

「でも……!」

 あの出口全てを塞がれた建屋の中にいるのか、と思うだけで頭の中が沸きかえった。

「拙者もどうにかお助けしたいと思っている。穏やかに、というご指示は今は聞けぬとの覚悟もある」

 小さいが腹の底に響く声だ。

「なんとしてでも外に出して差し上げる」

「はい」

 真っ直ぐに見上げる。伝衛門はまた頷いた。

「屋敷内には、拙者とおぬしと、もう一人、桜がおる。その桜と檪で柵を越える手立てを考えさせておる。拙者とおぬしの役目は別のこと」

「何でしょう?」

 片方だけ眉を跳ね上げさせて問うと、初老の男はにやりと笑った。

「奥方と武虎殿のを掴もうと思うてな」

「……?」

 思わず問い返す。

「左様」

 伝衛門はさらに笑う。

「あの晩、若が何と言っていたか、聞こえておったか?」

「はっきりとは……」

 首を振ると、うむ、と返された。

「曲者が出たとおっしゃる若と否定する奥方とで揉めている中に、武虎殿が割り込んで、若を羽交い絞めにした。その時に若は『後ろから武虎殿が現れた』と言っておいでだった」

「何か、おかしいの?」

「若の後ろ、ということは離れの方。つまり、柵の内側でござる。あの時、柵の内側にいたのは誰だ?」

 あ、と美緒は呟いた。

「私と文虎様と、曲者」

「そういうことでござる」

 ふっと伝衛門が息を吐いた。

「嘆かわしい。自らご兄弟を暗殺なさろうとするなど」

「そんな。確証はないでしょう?」

「欲しくはないか?」

 問われ、美緒は首を傾げた。

 それを手に入れたところでどうなるのだろう、と。

 だけど。

「文虎様のお役に立つ覚悟はあるわ」

 それだけは確か。

「ならば良し」

 伝衛門が強く息を吐き出した。

「さらば、武虎殿の周りを探れ。何でもいい――若をおとしめようとしている素振り何でも、伝えに来るでござるよ」



 武虎の部屋は、離れとは逆の側にあった。だからか、見える景色が違う。

「来たか」

 手前の庭で、武虎は諸肌脱ぎになって、木刀を振っていた。

「よろしく頼む」

 部屋の中は、全く物が置かれていなかった。

「布団と…… お召し物だけですか?」

「あとは刀だ。置きっ放しにしていることはないが」

「本を読んだりはしないのですか」

「無理だな」

 これだと、仕事のほとんどは床掃除ではないか。

 唸って振り向くと、武虎は手で座れと示した。

「松の内が落ち着いたら、道場通いをまたするつもりだ。その時は、共をしてくれぬか?」

「私がですか?」

「厭か?」

「なんと申しますか」

 違和感がある。刀など振ったこともないというのに、出向いてどうしろというのか。

「厭でなければ、来てくれ」

 武虎は真っすぐに見てくる。

――逐一見ていたら、何か分かることがあるのかしら。

「お供させていただきます」

 無表情に言い切る。武虎はほっと息を吐き出した。

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