沈んでいたものが浮く(3)
目の前に火花が散った。
体が前にぐらりと倒れる。途中で大きな音を立てて、柵にぶつかった。
ずきん、と顔の前が熱くなる。ぬるりとした感触が鼻と頬を伝う。
呻いて、手を伸ばすと、指先は柵に引っ掛かったらしい。膝が雪に沈む。
後ろでも、ざく、と雪を踏む音がした。
ざく、ざく、ざく、と美緒から離れていく音だ。
「どうした、どうした!」
反対側、柵の向こうからは、声が近づいてくる。
「血が出てるぞ、大丈夫か!?」
「何があったんだ!?」
「いいから、早く鍵持ってこい!」
「それが、見つからねえんだよ!」
どんどん声の数と大きさが膨らんでいく。
「美緒!」
一際大きく聞こえたのは、すっかり慣れた声。
――椿殿。
ふわ、と背中と肩に温もりがかかる。は、と息と一緒に力が抜ける。しっかりと抱きとめられる。
「おい、早く鍵! 探して来いよ!」
「あった、あったぞ!」
「どこにあった!?」
「そこの雪の中に落ちてたぞ」
「誰だよ落とした奴は!」
がしゃがしゃという錆びた音が癇に障る。
「どっこいしょ、それ運んでやれ」
ふっと足が地面を離れた。それを押しとどめるように、掌に温もりがかかる。
「若様、ちょいとお手をどけてくだせえよ」
「大丈夫ですよ、すぐに手当してやりまさぁ」
誰かの呆れたような声に続いて。
「そこで何を騒いでいるの」
不意に混じった高い声に、しん、と静まり返った。
「ああ。奥方様」
しばしの間の後に、誰かが言った。
「この娘の怪我を手当てしませんと」
「何故、怪我をしてるの」
高く硬い声が、雪の上を滑る。
「
ざく、という足音が美緒の脇を通り抜ける。
「お久しぶり、
そんな硬い声を出した椿に。
「おまえ何故、外に出てきているの」
津也は言った。
「文虎。おまえがこの娘を怪我をさせたの?」
「違う」
椿の声が硬く応える。
「違う? まさかそんなはずがないでしょう? 柵の中にはおまえと娘しかいないはず」
「そのはずだったよ!」
きん、と声が響く。
「そうであれば、こんなことにはならない! 塀も柵も越えてきた奴がいるからだよ!」
「血迷い事を言う。おまえの言うことなど信じるものか」
「義母上、見てください。雪の上の足跡――僕ら二人分ではないでしょう?」
「そんなの。今これだけ人がいれば、分からなくなろうというものよ」
「柵の中を見……」
「見るまでもなかろうよ」
ぴしゃりと言い切って、津也が喉を鳴らすような音がした。
「おまえのような狂人、いつ娘に手を出すのかとはらはらしていたのだよ」
ひゅっと椿が息を吞む。
他の誰もが口を噤んだような気配の中で。
「そうだ」
と、三つ目の声がした。
「……狂ったから、中に入れられてるんじゃなかったのか?」
「
「おお、武虎や。そのままその狂人を抑えておいておくれ。誰か、早く縄を持っておいで。縛り付けて、動けなくしておしまい」
「ふざけんな!」
どさ、と雪の上に何かが放り出される音がする。ごっ、と物がぶつけられる音も続く。
「離せ、武虎!」
「おとなしくしろ」
「冗談じゃない! おまえは……!」
「早く! その狂人を捕まえるのよ!」
津也の甲高い声がまた響く。
「美緒!」
呼ばれた。
応えたいのに、まだ声は出ない。
ふっと目が開く。
何度が瞬いて、染みだらけの天井を認めた。自分が寝起きに使っている部屋の天井だ。
「どうして」
美緒は呟いて、むくりと起き上った。
「おお、大丈夫かい」
襖の向こうから、同部屋の年増がひょいと顔を覗かせた。
「でっかいタンコブができてたよ」
道理で、頭がズキズキと痛むわけだ。
「おでこの傷もひどいねえ。薬は塗っといたけど、跡が残らなきゃいいが」
額には自分の手を押し当てる。まだ湿ったかさぶたに触れて、呻く。
「どうだい、動けそうかい」
「ええ……」
呻きながら、頭の後ろをさすっているうちに思い出す。
ひらめく刃と、椿の怒鳴る声。
瞬いて。
「離れは今、どうなっています?」
低く問うた。
「へ?」
女は首を傾げる。何度も忙しなく瞬きながら。
かっと頭のてっぺんが熱くなった。
「離れは今どうなっているの」
ぎっと目尻を上げる。
「文虎様は御無事なの?」
「それは……」
視線がうろつく。体を乗り出す。
「言えないことなの?」
「若様のことをおおっぴらに話せるわけないだろう」
女の声が震える。見れば、彼女は顔中に大きな汗を浮かべている。
唇を噛むと、口の中に錆びた味が広がった。
両膝に力を入れて立ち上がる。
女の呼び声に振り向かず、まっすぐ進む。
外は晴れ。風はない。
松の枝に積もった雪が眩しい。
新年を迎えたはずの屋敷は、なぜか静まりかえっている。
屋敷の一番奥。
柵はまだ突っ立っている。唯一動かせる部分には錠前が下がっている。
その奥の建屋は、雨戸、戸口、その全てに板が打ちつけられていた。
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