沈んでいたものが浮く(2)
離れから主屋に戻るにはどうしても、柵を潜るしかない。
初日に告げられたとおり、唯一動く部分の傍で呼ぶと、いつも、鍵を持った下男が走ってきてくれる。
だが、その夕方はなかなかやって来なかった。
「すまんすまん、遅れた」
息を切らした男を美緒は睨んだ。
「大晦日だもの。忙しいのでしょう?」
「いんや。面倒くさいことはもう済んでるさ。そうじゃなくてな」
頭のてっぺんが無暗に薄い男は、そこを忙しなく掻いた。
「鍵がすぐに見当たらなくてなぁ」
がちゃがちゃと唸って開いた戸から出てから、重ねて問う。
「鍵が失くなっていたということ?」
「そうじゃない。仕舞い場所とは全然関係ないところにあったってだけだよ」
男は大げさに身震いした。
「鍵が無くなったら、あんたが出られなくなって困るもんな。いや、重々気を付けるよ」
あたふたと走っていく男の背を見送ってから。
柵の中から出てくるには鍵を奪うことも必要なのか、と美緒は目を細めた。
離れから玄関にこっそりと行く方法ばかり考えていたが、最初の難関は此処だ。
――合鍵でも作れないかしら?
世話をしに行くのに面倒だから自分にも持たせてくれ、と言ってみようか。巧く言えば、伝衛門が何とかしてくれるかもしれないと、首を捻る。
――何にせよ、今日は言い出せないわね。
一年の締めの日だ。慌ただしい。
喧騒とはすっかり無縁の離れにも、少しは華やかなものを持っていきたい、と思ったのだが。
「結局、鏡餅だけでしたね」
二日前に棚に飾ったそれを、椿は指でつつき続けている。
「そうか、今日が大晦日か。雪も降ったし、そりゃ、そんな日にもなるよね」
「なんで今気付いた、みたいなことをおっしゃっているんですか。ここには暦は無いのですか」
「無いし。仮にあっても、見てなかったと思うよ」
「次の年の分はなんとかご用意しましょう」
はあ、と息を吐くと、椿はけらけらと笑った。
いつもの夜は静かなのに、今日ばかりは違う。
母屋からは笑い声が響いてくる。
「みんな元気?」
「はい」
「……
ふわっと笑って、椿は雨戸を閉めた。
「美緒は、向こうに行かなくていいの?」
「何故」
「いつも僕の世話ばかりでしょう。たまには、江戸屋敷の他のみんなと楽しんでおいでよ」
にこりと笑われても、首を振る。
「いいんです」
こちらもまた、にやりと笑んで、すとっと腰を下ろした。
肩を竦めてから、椿も座る。
「嬉しいけど…… うん。嬉しいんだけどね」
笑みの形を変えた彼を見た時に。
かたん、と雨戸が鳴った。
「また?」
「……え?」
「この二日、多いね。風が強いわけでもないのに」
す、と目を細めた椿が言う。
その間も、かたん、ことん、と音が続く。
その音を立てるのは縁側の雨戸。
普段、美緒が出入りに使っているのとは別の雨戸だ。
「立て付けが悪くなってきたのでしょうか」
首を振り、立ち上がったところで、袖を掴まれた。
「椿殿?」
向けられたのは微笑み。そのまま、彼も立ち上がる。
美緒を背の側にして、するりと戸の前に行って。がらっと一気に開け放った。
部屋の中に、ぶわりと白い風が吹き込む。
「君たち、何?」
椿の低い声が響く。
え、と呟いて、美緒は外の人影を見た。
柵の中の庭に、知らぬ影が二つ。
――何故、他に人がいるの!?
二人とも、小袖と袴を着て腰には刀を差した、男、だろう。美緒よりも椿よりも、背が高く肩の厚い体躯をしている。
顔を頭巾で覆っているので、ぎらぎらとした目元しか見えない。
「名を名乗るか、せめて顔を見せてもらわないと、困るんだけど……!」
言葉を切って、椿が転がる。彼が立っていたところに、すとん、と刃が突き立つ。
――曲者!
叫ぼうとして、喉にべとりとしたものが絡みつく。
一人が刀を床に取られている間に、もう一人が中段で突き込んでくる。
跳ね起きた椿の顔の横を刃がびゅっと通り抜けていく。
「……いきなり何なんだよ!」
続けざまに踏み込んできた一人の膝に、椿は叫びながら己の足をぶつけた。
よろめいた男はそのまま雨戸にぶつかって、戸板ごと庭に落ちる。
もう一人がまた繰り出してきた突きと払いは、ひょいひょいっと潜り抜ける。
部屋の中に戻ってくる形になった彼の腕に、とっさに掴まる。
見上げると、左頬にすっと赤い筋が通っている。先ほど当たっていたのかと、身震いする。
椿もまた、腕を美緒に回してきた。
こちらへと一歩大きく踏み出してきていた影が、急に止まった。
庭から上がってきたもう一人を手で制する。
椿と美緒で後ろに下がる。じりじり、と下がって、ぐるりと部屋の壁際を回る。
ぐるりと半周したところで。
「美緒」
低められた声で呼ばれた。
「外へ」
とん、と背中を押された。
倒れた雨戸のあった場所から、雪の庭へと転げ出る。
頬を引き攣らせて振り返ると、部屋の中で、また刃が空を斬った。
「椿殿!」
呼ぶ。
「そのまま走って!」
焦りを隠さない声に、体が震えた。
裸足のまま、 星明りだけの狹い庭を抜けて、柵の脇へ辿り着く。
「誰か!」
柵に手をかけて、その向こう、母屋に向けて叫ぶ。鍵がかかったままの戸をがしゃがしゃと揺らす。
「誰か! 早く!」
こういう時に限って、返事がなかなかない。
「どなたかいませんか!?」
宴会騒ぎの中まで、呼び声が届いていないのか。
それとも、まさか、また鍵が無くなっているとでもいうのか。
すう、と大きく息を吸って。
「こっちに来て!」
叫ぶ。
は、と肩を落とす。
ざくざく、と雪を踏む音が背中に迫ってくる。
ひっと息を呑んで振り返ろうとして、首の後ろを、どおん、と押された。
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