沈んでいたものが浮く(1)

 離れに戻る。

 雨戸はきっちり閉められていて、部屋の中では、燈台の火だけが動いていた。

 彼は灯りの傍に座って、じっとしている。

「椿殿?」

 うん、という気のない返事とともに振り返られる。

 顔を向けてくれたものの、どこか違うところを見ているような。

 今度は、ちくり、と痛んだ。

 黙って傍まで行って、同じように腰を落とす。

 椿は視線を自分の正面に戻して、そして。

「僕は何をいまさら迷っているんだろうね」

 そう、呟いた。

「半年――これでいいと思っていたのは、なんだったんだろう」

「何か、思い直すところがあったのですが?」

 言葉を挟むと、ようやく美緒を見てくれた。

 ふにゃ、ともとから優し気な顔からさらに毒気が抜け、ごろんと倒れ込んできた。

 頭を美緒の膝に乗せ、腕と足は放り出して、椿は息をつく。

 彼の真っ直ぐな黒髪の先を、美緒は片手で梳いた。

 僅かに笑い声を立てた後。

「知って行なわざるは未だこれ知らざるなり」

 ぽつん、とまた言葉が漏れた。

「何かお勉強の途中でしたか?」

「読む本も何もないよ」

 くすくす、と二人笑う。

 髪を弄っていた手を取られ、握られる。

「昔は日がな一日本を読まされていたけど」

「読んでいた、ではなくて?」

「読まされていた、だよ」

「どなたに」

「母上」

 椿はまだ笑っている。美緒は眉を下げた。

「多恵様とはお会いしたことがありません」

「死んだのはもう五年前だからね。君、その頃はまだ国許でも奉公し始めていないんじゃないの?」

「そうですね」

 ふっと息を零して、美緒は笑みを向けた。

「お母上のこと、お好きでしたのね」

「そりゃあね。唯一の僕の母だ」

「どのような方だったのですか」

 問うと、彼はさらに笑った。

「すぐ怒るおっかない人」

「おっかないんですか?」

「言ったでしょ、日に一回は父上を引っ叩いてた。僕に対しても、勉強しろ勉強しろ、藩主に相応しい教養を身につけろって、自らいろんなことを指導してくださった」

「他に先生を雇わずに、ですか?」

「全く他の先生が来なかったってわけじゃないよ。でも、そうだなあ、僕の知っていることの三分の二以上は母上から」

「すごい方ですね」

「そう。知らないことは何もない、藩をどう動かすかだって、父上にいくつも進言してた」

「そういえば」

 美緒は瞬いた。

「檪たちを最初にお遣いになっていたのは、多恵様だと」

「うん。そうだよ」

 椿はまだ笑っている。

「父上が頼りにならなさ過ぎると思ってから本格的に広げたみたいだけど。その前――小久保家に嫁いでくる前から、市中の様子とか幕府の裁定とかに興味があって『網』を作ったんだって」

 ふっと息を吐いて、彼は美緒を見つめてきた。

「僕が『網』を引き継いでも、檪も柊も他のみんなも黙ってついてきてくれた。感謝しているんだ。だから、余計に――なんでもないや」

「なんでもないではないです」

 べしっと頬を軽く叩く。

「皆に対して思うことがあるのでしょう?」

「はい、あります」

「では、おっしゃってください」

 すると、彼は口を尖らせて。よっこらしょ、と起き上がった。

「ここまで頑張ってもらったのに、僕のわがままで終わらせる。厭な思いをしているだろうな、と。それに」

 すうっと視線が細くなった。

「皆が集めてくる話や、ひっそりとやってもらった仕事のお陰で藩が保っていた部分もあるんだ。それが無くなったら、この藩は今までどおり回るのかな?」

 口元を引き結んで、椿は首を捻った。

「僕から武虎に譲る――無理だな。義母上の子ってだけで毛嫌いしてるし」

「皆様、そんなに津也様がお嫌いですか?」

 美緒が口を挟むと、彼は顔を向けて、笑った。

「母上が義母上を嫌いだったからね。父上のサボりと自堕落を認めてばかり、と」

「はあ」

「本当におっかない人だったからね、母上」

「……はあ」

 生返事をする。何かがひっかかると睨む。椿は肩を竦める。

「もっとも、義母上も母上が大っ嫌いだよ。だからお互い様さ。それよりも」

 ふわっと笑われて、瞬く。

「ごめんね、美緒。君が逃げようって言ってくれた途端、こんなことを言い出して」

「あ……」

 忙しない瞬きを続ける。椿は、よいしょ、と言って、正座した。

「君がいろいろやってくれたり、言ってくれるのは、嬉しいんだ。だから」

「はい」

 相づちを入れてから、首を傾げる。

「だから、なんでしょう」

「うーん…… いざ言うとなると照れるなあ」

 うっすら赤みを帯びた頬を掻いて、彼は笑みを深くする。

「だからね。その。僕が何をしてても見ててくれると嬉しいなあ、と」

 首を振る。縦に。首肯の意だ。

 椿が笑う。

「おかしかったら、ダメだったら、叱ってほしい。たまに甘えさせてくれるともっと嬉しいな、なんて……」

「分かってますよ!」

 つい、叫んだ。美緒も、頬が、熱い。

「逃げるなら一緒に行きます! ここに残って戦うというなら、共に戦います。簡単に死んだりしませんから!」

 一気に言い切って、両手で頬を抑える。

 熱い。何故だ。

 椿の笑みはどんどん深くなっていく。

「ありがとう」

 言って、彼の両手が美緒の両手の上から、頬を抑えてきた。

「大好きだ」

 そのまま顔を近づけてくる。慌てて瞼を閉じる。唇が熱くなる。

「……恥ずかしいです」

「君でもそんなことを言うんだ」

「それは、どういう」

「何にも動じなさそうなんだもん。でも、僕になら、少しくらいなら、動じてくれるんだ」

 両手が、頬から、首の後ろと肩に動く。そのまま引き寄せられて、細い体へと倒れかかる。

 思いの外しっかりと支えられて、頬が熱くなる。

「美緒」

 呼ばれて。

「なんでしょうか」

 応じた声は掠れていた。笑われる。

「大好きだよ」

 また唇が重なる。肩を震わせると、くすくすと笑う声が耳朶をくすぐってきた。


 同時に、雨戸がかたんと鳴るのも聞いた。

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