国中に広がる網(7)
離れから
今はまだ一人だが。
――もし、椿殿を連れて歩くなら。
何処を
不審がられぬよう、できるだけさり気無く視線を動かす。背中は季節外れの汗でびっしょりだ。
だから、声をかけられれば、跳ね上がってしまうのは必定。
「美緒よ」
叫ばなかっただけ偉かった、と自分でも思う。
心臓を宥めるべく掌を胸に当てながら、振り返る。
「駒場殿」
「探したのでござる」
どっしりと立っていたのは身嗜みにも隙のない初老の男。美緒と同じく、文虎の考えを知っている男。
――でも、今私が為そうとしていたことは、知らない。
「てっきり、離れにいるのかと思っておったのだが」
顎を擦って述べる伝衛門に、美緒は頭を下げた。
「申し訳ございません」
「いや、謝ることではない。気分転換も必要でござる。しかし、非常に頼みにくい件のために探しておった」
そろり、と顔を上げる。汗が首をつたう。
「奥方がお話を聞きたいと言っていてな」
「話? どのようなことでしょう」
「それが分かれば苦労はないわ」
苛立ちと大きさを抑え込んだ声が続く。
「分かっておろうか、奥方が若を奥に押し込めた張本人。何を問われても知らぬ存ぜぬが一番かもしれぬ」
のしのしと進む伝衛門の後を、そろそろと付いていく。
国許からやってきたその日にも通された座敷へ行くと、床の間の前に座る津也が鷹揚に手招いた。
「そなたには苦労をかけていますね」
紅を引かれた唇が、にゅうっと弧を描く。
「かれこれ二月以上、奥の様子を見てもらっているのですけどね。そなたの目から見て、いかが?」
美緒は下座について、深々と頭を下げた。
「何も変わりませぬ」
「何も? 夏よりも食事を食べるようになったという話ですけどね。他には?」
風呂に毎日突っ込んでいるので臭くなくなった、とはさすがに言えなくて、口の動きを止める。津也の目が細くなる。
「ほれ、奥方よ」
脇に控えていた伝衛門が口を開いた。
「美緒は分からぬのでござる。国許屋敷の奉公も数年しておるが、若のお傍には控えておらなかった。比較しようがなかろう」
「駒場殿」
津也がぎろりと目玉を動かした。
「妾は一年前と比べたいのではない。そもそも――」
と視線を向けられる。美緒は瞬いた。頭の中で何かが光る。
「私は、奥方様から奥に居る方がどなたかお聞かせいただいていません」
すると、今度は伝衛門が振り向いた。
「なんと!?」
「他の奉公人からも何も聞かされていません。ですから」
と、ぎりぎりの笑みを浮かべた。
「私は、一年前となんて比べられませんから」
「そうであろう、そうであろう」
ほほ、と津也は笑った。
「して、世話を引き受けるようになってからどうじゃ。その中では変わったか?」
「何も変わりませぬ」
と言ってから、二度目の光が頭を
「いいえ。実に大人しくお過ごしいただいています」
言って、頭を下げる。
「大人しい?」
津也が首を傾げるのに。
「ええ。よいこでいらっしゃいますよ」
ゆっくりと頷く 。
「寒いからか、周囲に迷惑をかけるような悪戯も致さなくなりました。これでしたら、柵から出しても何の問題もないのではございませんでしょうか?」
それから目を向けると、津也は口元を歪めていた。
「出すことはせぬ」
「何故」
問うたのは伝衛門。美緒は黙って視線を投げる。
「決して出さぬ。あの女の子どもなど――」
尖った声は途中で止まる。津也自身が口元を抑えたからだ。
「あの、女?」
つい、復唱した。
「な、なんでもないのよ」
津也は上擦った声を上げた。
「さあ、もう行ってちょうだい」
「失敗でした」
と、角を曲がってから呟く。伝衛門は溜め息を吐いた。
「冷や汗をかいたでござる。何故柵の外に、などと」
それは、玄関に向かいやすくなるからに決まっているではないか、と心の中でだけ呟く。
「申し訳ございませんでした」
「済んだことは致し方ない。それよりも、若のことを知らずに世話していたのか」
「ええ」
「よくそれで、檪のもとに辿り着いたな」
振り返った伝衛門は目をくりくりと動かした。
「共に離れで話した際には、かなりの信を得ていると見受けたのでござったが」
「光栄です」
口元が綻ぶ。
「いや、拙者も喜んでおる。若のためを思って動ける者が多いのは喜ばしいこと」
「はい」
結果的には、正体を知らなかったからこそ、ここまでの関係を築けたのだろう、と思う。そしてさらに、黙って成そうとしていることまで出来るとは。
――泣かれてしまうかもしれない。
くっと前に向き直る。伝衛門の目もぐっと引き締まった。
「引き続き、頼む」
「はい」
頷いて、突き当りで別れようとして。
「そうだ――駒場殿」
ふと、訊いた。
「奥方様のおっしゃる『あの女』とは」
「亡き御方様――多恵様のことであろう」
「そうですよね」
何故突然、多恵のことを言い出したのだろう、と思いつつ。
「妙なことを伺いました」
頭を下げる。
伝衛門は重く頷いて、去っていった。
入れ替わるように。
廊下を進んできたのは武虎だった。
「また離れに行くのか」
「お役目ですので」
応えつつ、美緒は背の高い武虎の隣に立つ、さらに背の高い青年に目を向けた。
「こいつは」
と、同じように視線を動かして武虎は言った。
「江戸で世話になっている道場の門人だ。士官先がまだないということで、母上に引き合わせにな」
なるほど、同僚となるかもしれない男、ということか。
名を言われたが、さらりと聞き流してしまった。
今日はさすがに、武虎はそいつの世話のほうが優先らしい。
そそくさと美緒もその場を離れた。
――今日はこれ以上うろうろするのは止めよう。
そう思いながら。
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