国中に広がる網(6)
何を言われたのかを理解した瞬間。
体の芯が熱くなった。ぐつぐつと、腹の底から沸き立ってくるものがあった。
「貴方だって、死にたくないんじゃないですか?」
美緒は勢いよく顔を上げ、振り向いた。
「何故、死にたくないと抗わないのですが。怒らないのですか」
椿は目を丸くしていた。険しいところがまるでない顔は、そんな感情など知らないよう。
「何に怒るの」
と返ってきて、さらに目尻を吊り上げる。
「今あなたが置かれているこの状況にです。本気で、おとなしく殺されるのを待つのですか? 狂っていると罵られるまま過ごすのですか!?」
「それは」
「怒りましょうよ。殺されることも、狂人扱いされることもないじゃないですか。あなたが正式な跡目なのでしょう?」
「それを僕は
椿が笑む。熱はどんどん上がっていく。
「どうしてそう思うのです? 確かに国許の城下では、武虎様のことしか知らぬ者が多いでしょう。でも、屋敷の中は違います。私もそうでしたが、いずれ江戸にいる御嫡子に藩主は替わられるのだと皆ちゃんと意識していたのですよ。それでも……」
「それでも、僕より、武虎のほうが人に好かれている」
「ここ、江戸屋敷でも?」
問うと、ようやく椿の顔が揺らいだ。
「さて…… それはどうかな」
「詳しくご存じないのですか?」
「武虎が江戸に呼び出されたのは、僕がここに入ってからだからね。だから、君が
「その檪殿がどう感じておいでかはご存じで?」
「これに関しては、檪の判断を聞いちゃ駄目だよ。
先程そんなことを言っていたな、と美緒は小さく頷く。椿は苦しげな笑みを浮かべた。
「でも、皆そうみたいだね。僕を柵に放り込むなり呼んだものだから、かなり白い目で見られてる感じだ」
「つまり、江戸屋敷の者は、
「だけど、まだ分からない。僕がこのままでいたら、江戸屋敷に長く勤めてくれてる人だって、呆れるだろう。武虎に心情が傾くとおもうよ?」
「それこそ、分からないではないですか」
は、と美緒は息を吐いた。
椿は笑んで、体を傾げてくる。
「穏便に済めばそれでいいんだよ。小久保家に益があるなら、僕の存在は要らない」
見つめているのは、しんと沈み込む笑み。
「では、せめて」
美緒の口からは溜め息が溢れた。
「ここに閉じ込められていることを怒りましょう。狂人扱いされるのは不本意ではないんですか?」
「あはは。それはそうかもね。多少は傷ついているよ。小さな頃から見知っている皆に憐みの視線を向けられるのは堪えるし」
「そんなに苦しんで狂ったふりをしなくても」
まだ回されていた腕――袖の上から椿の腕を握る。一度、美緒の肩に額を押し付けてから。
「どうかな」
くつくつと笑いながら彼は言った。
「苦しまないで済む手があると思う?」
「手があるかと問われても…… いっそ、逃げ出しますか?」
言ってから。
「そうか」
美緒は自分の言葉に妙に納得した。
「逃げましょう」
「本気?」
「殺されるのを待っているのより、蔑みの視線を浴び続けるより、良いではないですか」
体をよじって、正面で向き合う。すっぽりと細い腕の中に収まったまま、美緒は椿を見上げた。
「ここから居なくなってしまいましょう。 小久保家など関係なく暮らしていけば良いではないですか」
「ちょ、ちょっと待ってよ」
椿は何度も瞬いた。
「仮に、だよ? ここから出て行って、どうやって生きていけというの? 悪いけど僕、市井で働く術は持っていないよ?」
「やってみなければ分からないではないですか!」
「へぶっ!」
つい手が出てしまった。張り倒された椿は頰を押さえながら、ぽかんと口を開けて美緒を見上げてくる。
だん、と足を鳴らす。
「やる前から諦めたら何もできないですよ。何かできないか考えるのは、職の募集を見てからで間に合います。私も考えますから!」
叫び、息を吐くと。
「美緒」
目を限界まで見開いたまま、彼は口元を震わせた。
「僕と一緒に来るつもりなの?」
あ、と呟いて、美緒も瞬きを繰り返した。
どこか当然のように、共に行くつもりでいた。
だが、それも悪くない。
「参ります」
「本気?」
「椿殿は嫌ですか?」
「僕に訊く!?」
裏返った声に、美緒は明るい笑い声を返した。
「私が一緒なら、私が働いてもよろしいんですものね」
「……ヒモにはなりたくない」
椿は、はぁ、と長い息を吐き出した。
まだ笑い声を立てながら手を出すと、両手で包み込んできた。
「じゃあ、考えてみようか。僕ら二人でここから逃げ出す手段を」
柵に囲まれたこの建屋があるのは、小久保の江戸屋敷の一番奥。
表門までの間には、主屋がどんっと立っている。
その縁側の廊下は、昼間は常に人が歩いていた。
「早速会ったそうね」
廊下を足早に進んできた津也が言うと、伝衛門は重く頷いた。
「如何? おかしくなったと思わないこと?」
「うむ。逃げ回られて、話にならなんだ」
「そうでしょう」
唇で弧を描いて、彼女も頷く。
「そなたの口からも、武虎にと殿に申してもらえないかしら?」
「ふむ」
骨ばった手を顎に添えて、彼は唸った。
津也の口の端がさらに吊り上る。
「ねえ…… そろそろ面倒を見なくてもいいかしら?」
「そのようなことをしたら、死にまするぞ」
ぎょろりと動いた伝衛門の目玉に、彼女は肩を竦めた。
「厭ねえ…… さすがに死ねとは」
「思ってないと言い切れるでござるな」
伝衛門の黒目が大きくなる。
津也は頰を引攣らせて、頷いた。
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