国中に広がる網(5)
「
煙草屋の戸口を閉めて開口一番そう告げると、
「なんだよ、じいさん名乗ったのかよ」
「いいえ。柊殿がおっしゃったのではなく、
意図してか知らずかは分からぬが、確かにはっきりと、椿は伝衛門を、繋がりを示す名で呼んだ。
がっくりと肩を落としながら、美緒は上り口に腰を下ろす。くく、と笑う檪に肩を叩かれた。
「まあ、一人知っている味方が増えたな、ぐらいに思っておけ。ついでにもう一人教えておいてやろう」
「私の知っている方で他にもまだ、繋がっている方がいるのですか?」
「江戸屋敷の使用人の中に、な。台所番に
「桜殿」
「そう。俺からあいつに伝えておこう。ちなみに、あいつも二代目だ」
「二代目って…… 随分昔から、あなた方は同じことをやっているのね」
「二十年だ」
「一体、何を、何のために」
どうせ教えてもらえなかろう、と諦めつつ吐きだした問いに。
「じいさんだったら教えるかねえ」
檪の思わぬ呟きが返ってくる。
え、と顔を向ける。檪は分厚い
「今の主が、小久保文虎だってのは分かってんだろ」
「はい」
「その前に俺たちを遣ってらしたのは、その母君だ」
「ええ!?」
声を上げて、はっとなって両手で口を覆う。
戸口ががたごとと揺れている。
「風だな」
檪は声を低めて、美緒の真後ろにピタリとついた。
「俺たちは、江戸の、そして大田原藩の領地の全てから、ありとあらゆる『話』を集めてくるための『網』さ」
ぼそぼそと言葉が続く。
「築いたのは、先代の檪と柊。小久保滋虎の正室――俺たちは御方様とお呼びしていたが、その方が藩の統治と幕府内での身動きのために、有益無益を問わず『話』をお持ちになるよう命じられたのさ」
「
ごくり、と美緒の喉が鳴る。
「一体、どうして」
「経緯は知らねえよ。亡くなって五年経つが、俺だって、お会いしたのは片手の指で足りるくらいだ。繋ぎには、やっぱり『椿』と名乗っていた傍仕えがいたんでな。今の主も最初はそいつが渡りを付けていた」
「その、先代の椿殿はどうされたのです?」
「年だったんでな、亡くなったよ。その直後に主は大田原に行かれて、戻ってきてからはこの店に自ら足を運んでくださっていた。だから、『椿』の二代目は長く空のままだったが、なんとかなってたんだよ」
「そうですか」
ほ、と息を吐き出して、それから続ける。
「煙草を吸うようになったのは、この店に来やすくなるためかしら」
「そうかもしれねえな」
檪は、ふっと吹き出す。
「最初は似合わねえなと思ってたが、様になってきてたねえ」
「柵に入れられてからはお会いしてないの?」
「俺は屋敷に表だって出入りできる身分じゃないんでね。会えるはずもなく、二代目の椿――あんたが来るまで渡りを付ける手段さえなかったからな。せいぜい、さっき言った桜が様子を遠くから見てたくらいで」
「桜殿は側仕えを任されなかったの?」
「台所番の仕事優先で、回してもらえなかったんだと。迂闊に名乗り出て、津也に網のことが知れてもマズイから出るなって指示してた」
「……そうよね」
うん、と頷く。
「お会いしたい?」
「情はあるからねえ…… これっきりにはしたくねえな」
檪も頷いた。
「ってことで、差し当たっての目標は柵から出して差し上げることさ」
「ご本人がどう考えているのかはご存じ?」
体を捻り、顔を真っすぐに向ける。檪は初めて笑みを消した。
「そう訊くってことは、あんたも分かってるな」
「文虎様は、家督を武虎様にお譲りしたいんでしょ?」
言うと、へっと笑われた。
「俺個人の感想としては、武虎は駄目だと思うんだけどね。だが、主の指示が優先だ。柊のじいさんがいるなら、お家の中のことは任せてしまって構わねえ。俺にできるのは、幕府がどう考えていんのかをそれとなく探るくらいさ」
「今はそうしているの?」
「それくらいしか仕事がないんでね」
不意に浮かんだのは、少し寂し気な笑みだ。
「主が藩主に就かないなら、俺たちはもう、大田原藩のために働く必要はなくなる。もしかしたら、これが最後のご奉公かもだな」
「……そう」
美緒は顔を伏せた。
雪が散らつく中を屋敷に戻る。空は暗く、さらに強く降ってきそうだ。
「なのにどうして、外で寝ているのですか」
庭の真ん中に大の字になり、うっすらと白い氷を顔に張り付かせて、椿は唇を尖らせた。
「雪って楽しいよ」
「そうじゃない」
目を一度閉じてから、手を伸ばす。反対からも伸びてくる。
引っ張ると、あっさりと彼は起き上がった。
「風呂。飯」
「はいはい」
「その前に美緒」
「なんですか、それは」
戸を潜り、土間に移る――表から見えないところに来るなり、彼は美緒の背中にくっついてきた。
「あったかい」
「そうですね」
肩から回ってきた腕に手を添える。
「私だけなく、檪殿にも駒場殿にも、もっと甘えてらっしゃればよいのに」
「さすがに、もう柊にはくっつけないなぁ…… 檪には、同じことしたら変な誤解を生みそうだ」
首筋に彼の笑う吐息がかかる。
「美緒だからできるんだよ」
「光栄です」
「本当だよ」
ぎゅ、と心臓が縮み上がるような感触がした。
椿の腕にも力がこもる。
「ごめんね。もうちょっとだけ、こうさせて」
「……駄目と言っても、されるのでしょう?」
「嫌だったら、止める」
思わぬ形で返ってきて、両手で彼の袖を握った。
「本当はいけないんだって分かってるよ」
「そんなことは」
「あるよ。僕がこうしてるのを知られたら、君の身が危険だ」
耳朶を打つ声は震えている。
「僕は死ぬかもしれないけど、美緒は死んじゃだめだからね」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます