国中に広がる網(4)

「実に良い一撃でござった」

 左頬にくっきりと赤い痕を付けた伝衛門が言った。

「主を護ろうとの覚悟がこもったそれ故、響かぬわけがござらぬ。この心意気、拙者も見習わねばならぬと」

「思わないでください」

 美緒は、床に両手をついて項垂れている。

 それを見ているのかいないのか、伝衛門は喋り続ける。

「思い返せば、亡き御方様――多恵様も殿をよくはたいておいでだった」

「……本当ですか?」

 美緒が顔を上げると、椿が首を振っていた。

「ほんとほんと。父上が江戸にいる間は、日に一回は平手の音が響いていたもん」

「……本当ですか」

「それも愛故。殿が小久保家当主、大田原藩主としてより良き選択をなさるよう常にいさめておいでだった」

「母上は、見てると腹立つといつも言ってたよ。父上はぼんやりしてる人だから、大事なことを見落としていたりするからね」

「うむ。否定できませぬな」

「今もねー。ぼうっとしてるからねー。僕も見ててハラハラすることがあるよ」

「御方様のご意見で家と藩が救われたことが何度あったことかと、思い出すと胸が熱くなってまいりましたぞ」

「……それは単に、尻に敷かれていただけ、ではなくて?」

「その可能性も多いにござる」

 伝衛門は正座のまま、頷いている。

「父上は、母上からも義母上からも、尻に敷かれているよ」

 その正面で、やはり膝を揃えて座る椿は、片手で額を押さえていた。

「まあ、母上然り――主君の思うようにばかりするのが良い臣下、良い伴侶とは限らないからね」

「全くでござる」

 言い、伝衛門は真っ直ぐに椿を見遣った。

「では、その耳に痛いことを口にするこの爺とは、話す気にはなられましたかな?」

「なったよ」

 長い溜め息の後で、椿はしゃんと背筋を伸ばした。


 障子の締め切られた部屋。外は静かに雪が降り出したらしい。どんどん冷え込んでいくその真ん中に、椿と伝衛門。美緒は一歩脇に下がって、囲炉裏の火を熾した。


 炭が燃える匂いが広がってきた頃。

「柊が江戸に来たのは、父上のご命令?」

 先に口を開いたのは椿だった。

「父上は僕の『御狂乱』をご存じだよね」

「左様。津也殿からひっきりなしに、若ご乱心故に跡目を替えることを求む、と文が届いてござった」

「そうか」

「ご覧になって、そのはずがあるまい、とおっしゃってござった」

「父上は信じてくれてないの?」

「信じるはずがありましょうか。ぼんやり、と言えど人の善し悪しを見抜く目は鋭くいらっしゃる。江戸で過ごした日々をかえりみて、若は頭が良い故何かの策であろうと考えるとのこと」

「冗談だろう?」

く言う拙者も、若が狂われたとは信じてござらぬ」

 伝衛門は真っ直ぐに椿の瞳を見ている。

「何故、おとなしく柵の中に入っておられる」

 視線を真正面から受け止めて、椿は首を傾げた。

義母上ははうえに嫌われたから…… と言っても、信じてくれそうにないね」

「無論。津也殿が若をお嫌いなのは、今に始まったことにござらん」

「あははっ、そのとおりだね」

 笑い声を立てる椿に、美緒はそっと視線を送った。

 見えたのは、冷え切った彼の表情。

「半分は、僕が望んでいるから、かなぁ」

「何をお望みか」

 伝衛門の肩に力が入る。美緒も唾を呑み込む。

 椿はゆるく首を振った。

「跡目が武虎に替わるなら、その方が藩のためだと思うんだよ」

 じじ、と炭が燃える。

「何故」

 と、伝衛門が口を開くと、椿はまたからからと笑い声を立てた。

「武虎は強い。春までの一年、初めて一緒に暮らして、剣の道に秀でていることに驚いた。もう道場で負け知らずなのに、それにおごらず稽古に励んでいる姿に吃驚したよ。だからか、街に出れば、皆が声をかけてくるくらいに頼りにされている。藩の土地を豊かにしようと思ったら、まずは住まう人々の心を得ることが不可欠だ。武虎はもう、それができている」

 奇妙に高い声で椿は喋り続ける。

「対する僕は、江戸のボンボン育ちだからね。藩の財政の知識や、他の藩との交流術はあっても、領地に住まう人たちとのそれはないんだよ。頭でっかちの僕と、気軽に街に出ていく武虎。どちらに人が付いていくかは明らかだろう?」

「確かにその考えもござろうが」

 伝衛門も首を振る。

「だが、貴方様は幕府から認められた正当な御嫡子。家の者も皆そう考えている。若がそう言ったところで、一斉に風向きが変わることがござろうか」

「だから、義母上も僕も、どうにか武虎に家督がいかないか、と頭を捻ってるんじゃないか。問題は二人で考え方が正反対だってことさ。義母上は僕を『死んだ』ことにしたい。でもそれは悪手だよ。暗殺によって跡目が替わったなんて、万が一幕府にバレたら、お家が取り潰しになっちゃうからね」

 椿はひょいっと肩を竦めた。

「義母上はそのへんが分かってないんだよなぁ…… だから、狂ったふりをする羽目になったんじゃん。それを理由に跡目を変えられないこともない。そうでなくても、『狂っている』僕だから病死したってことにもできるでしょ? って、死ぬのはちょっと厭なんだけどさ」

 そこに、伝衛門が長い溜め息を挟み込む。それから、初老の男は、白髪頭を下に向けた。

「それだけでござるか?」

「人を側に置きたくなかったからでもあるけど」

 急に声を細くして、椿は応じて。

「義母上が、僕の味方を攻撃するんだよ。江戸屋敷の親しかった人たちはほとんど、義母上には干されている。立場を無くされていってるんだよ。そんなことが続いていて、心穏やかでいられると思う?」

 見つめてきた。

 じくり、と胸の奥が痛い。眉をひそめる。

 椿はさらりと笑い直して、伝衛門に向いた。

「皆の平穏が約束されて、武虎が穏便に嫡子の座についてくれれば、僕、ここを出て行けないかなあ?」

「そうなった場合は」

 と伝衛門の何度目としれぬため息が響く。

「小久保家に文虎様の居場所はございませんぞ」

「そうだろうね。無一文で街に放り出されたら、一日のうちに野垂れ死んでしまいそうだ」

 椿は笑っている。

「でも。来てくれたからには、協力してくれるよね、柊?」

 じっと大きな瞳が爺を見る。伝衛門はしょんぼりと頷いた。

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