国中に広がる網(3)
「美緒」
眉根を一度寄せて戻してから、振り返った。呼び止めたのは武虎だ。
「何を急いでいる」
落ち着いた色合いの小袖と袴を身に付けた彼は、美緒の抱えている綿入りの長着に視線を落としていた。
「その長着は誰の物だ」
「文虎様の物ですが」
気付かず、片目を
「ここまで持ち出してきて、どうしたのだ」
「古いものに綿を入れ直してもらったのです。大がかりな手直しは、私では
「この真冬に手入れをしたのか?」
「お召だったものを雪でびしょ濡れにされてしまいましたので、急遽」
答えに、武虎は首を振った。
「性懲りもない悪戯か。まともに向き合うことはないと言ったはずだぞ」
「悪戯はともかくとして、濡れた御召し物のままで、風邪をひかれたら困りますでしょう?」
言い返すと、武虎は真っ直ぐに見つめてきた。
「俺の部屋付きだった頃は、そのような気遣いをしてもらったことはなかったな」
それを受け止めた時、かっと頬が熱くなった。
一体何が気に入らないというのか。
「お世話が言いつけられたお役目ですので。心を砕くのは当然のことでしょう。それとも――」
―― 武虎様はそれを邪魔なさりたいと?
「文虎様のこと、お嫌いでおっしゃいますか」
「それは」
と言って、武虎は口を閉じる。
美緒も息を詰めた。
――文虎様の敵、だ。
外に出さない、柵の中に押し込めたばかりでは済まさないつもりなのか、と奥歯を鳴らす。
死ねと呪われているんだ、という椿の言葉が頭を過ぎる。
――簡単に死なせてなるものか。
睨むと、彼は一歩退いた。
「それでは、急いでおりますので」
ここぞとばかりに一歩踏み出す。
武虎は視線を彷徨せ、あ、と呟いた。
「爺や」
ひっくり返った声に、思わず美緒も振り向く。
背筋をぴんと伸ばして廊下を進んでくるのは、初老の男。
美緒も目を丸くする。
「
大田原の屋敷で、屋敷内だけでなく、領地のこと全てを取り仕切っていた男。藩主の右腕と呼ぶに相応しい国許家老、駒場伝衛門だ。
懐かしい顔――国許を出てきてから
「何故ここに」
武虎が問う。彼は、うむ、と呻いた。
「文虎様の御行状が優れぬとの嘆きが絶えぬのでな。殿のお達しで様子伺いに参った次第」
「……そうか」
答え、武虎は目を伏せた。
――
四十を超えたしかめっ面の顎を見上げ、思う。
彼は己の顎を指で擦りながら、言った。
「奥方様にもご納得いただいておる、すぐにでも文虎様がおいでの奥に参る」
「今すぐですか」
思わず声に出て、あ、と美緒は口を掌で覆った。
「ふむ。原田の娘御、お主も久しいな。そなたが世話を任されておるのは聞き及んでおる」
じっと顔を見られて、背中に汗が噴き出した。
「その美緒が参るというなら好都合。早う連れて行ってもらいたい」
それに、何と答えよう、と唇を空回らせる。
この男は、連れて行って良い相手なのだろうか。
――『文虎様』の味方か、それとも敵なのか。
考える材料がない。
だが、伝衛門は美緒の返事を必要としていなかったらしい。先にずんずんと廊下を進んでいく。
唇をぎゅっと噛んで、美緒はその背を追い掛ける。
武虎はそのまま廊下に残ったようだ。
積もった雪を踏みしめて、奥へ。
椿は縁側に寝転んでいたが、さくさくという音に気が付いたらしい。のそりとこちらを向いて。
げえ、と叫んだ。
「
「お久しゅうござる、若!」
叫び、伝衛門は、ずんっと縁側に上った。椿は飛び上がり、奥へ駆けていった。
「この爺の顔を見忘れてなくて
「え、やだ、心の準備ができてないよ!」
柱の影に体を隠して、まだ叫ぶ。
「何をおっしゃるのか、さあ!」
伝衛門もまた大声で応じ、ずんずんと突き進む。ひいっと悲鳴を上げて、椿は走る。
戸口から上がった美緒は、その様を唖然と見遣った。
この様子はどうしたものだろう。
どたどたと柱を中心に走り回った挙句。
「美緒~! 助けて~!」
眉をハの字にした椿がまっすぐ駆けてきて、立ち尽くす美緒の背に回り込んだ。
「若! 情けのうございますぞ!」
「やだよ! 柊のお説教は長いんだよ! 今日はやだ! 絶対やだ!」
「うぬぬ! あくまでも逃げるつもりでおられるか!」
肩越しに顔を出した彼は、べっと舌を出した。伝衛門の顔が真っ赤になる。
「勘弁なりませぬな! 神妙に座っていただきましょうぞ」
「やだやだやだやだ絶対やだ!」
「若~~~~~~~!」
ぬっと太い腕が美緒の肩越しに伸びようとする。
ぷちん、と頭の中で糸が切れる。
「嫌がっているんだから止めなさいよ!」
つい。そう叫んで、腕の主の頬を引っ叩いてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます