国中に広がる網(2)

 南天の実は、品川宿からの帰り道で拾ってきた。

 だが、帰り着いた時には、離れの縁側に並んでいた塊は綺麗に片付いていた。

 呆然となること、暫し。

「……椿殿?」

 戸口に回らず、縁側から声をかける。返事はなかったが、ことん、という音がしたのでそれを頼りに中に上がる。

 彼は、一番奥の部屋で膝を抱えていた。

「椿殿」

 もう一度呼ぶと、のそりと彼は顔をあげた。

「美緒」

 呼び返す声は細い。

「何処に行ってたの?」

 続けた声も、気を付けなければ言葉が分からないほどのそれ。

「檪の店へ。申し訳ございません、勝手に出てしまいまして」

「うん…… 其処だったらいくらでも構わないんだけど」

 美緒は静かに脇に寄り、膝をついた。

「お加減が悪いのですか?」

「本当に苦しかったんだよ」

 は、と息を吐いた椿がぐらりと傾いできた。

「全然戻ってこないから。もう来てくれなかったら、どうしようかと思ってた」

 美緒の胸元に顔を埋めた椿が、ぼそぼそと呟く。

「甘えん坊さんですね」

 にこっと笑って、美緒は両腕で彼の肩を抱いた。

 椿が顔を押し付けてくる。滑らかな髪が襟元から肌をくすぐってきて、美緒はまた笑い声を立てた。

 すると、ぐりぐりと椿がもっと頭を押し付けてくる。

「ちょっと、止めてください」

「やーだよー」

「そういうことを言っていると、こちらからもくすぐりますからね」

「え、わ、ちょっと、脇腹やめ」

 手を伸ばした途端、ひいひいと椿も笑いだす。

「こっちはどうですか?」

「脇はもっと、だ、だめだって!」

「そうですか。くすぐり甲斐がありますわ」

「ぎゃああああ!」

 くすぐりながら、首の後ろに息を吹きかけてやる。

「だめだから!」

 その時だけは、真っ赤な顔で椿は振り返ってきた。

「もう……」

 目の端に涙を浮かべながら、椿が唸る。美緒はにっこりと微笑んだ。

「金輪際懲りて、私をくすぐろうなどとなさりませんよう」

「肝に銘じておきます」

 その、美緒が吹きかけた部分を掻きながら、椿は肩を落とす。

 それからまた、ごろん、と美緒の側に寄ってきた。

 頭を美緒の膝の上に乗せた彼は、真っ直ぐに見つめてくる。

「何故、乗っかられるのですか」

「こうしていたら、どこにも行けないでしょ」

「そうは言われましても。まだ掃除が残っていますし、お風呂も沸かしませんと。出かけていた分急いでやりたいのです」

「えー。やだ」

 情けなく眉尻を下げた顔に、思わず吹き出す。

「お風呂が沸いたら、今後こそ、背中を流して差し上げましょうか?」

「それだけで済まなくなりそうだから、止めて」

 情けない笑い声を立てて、椿が頬に手を伸ばしてくる。

「ねえ、美緒」

「なんでしょう?」

「……やっぱ、なんでもない」

 そう言って、雪よりも深い笑みを浮かべた彼の指先が、頬と唇の上を滑っていった。



 今年も残り五日という間際に、小久保家江戸屋敷に一人の侍が辿り着いた。

「駒場伝衛門にござる」

 門前でそう名乗りを上げた初老の男は、実に仰々しく座敷に通された。

「奥方、お久しゅうござる」

 しずしずとやってきた津也に対し、彼は慇懃に頭を下げる。

「本当にご無沙汰で…… 国許家老としてお勤めの貴方とですから、妾が江戸に来て以来ですわ」

「うむ。大田原の邸にいらっしゃった時以来ですな。息災なようで何より」

「ええ。何も変わっておりませぬよ」

「……変わっておろう。その言葉遣い、亡くなられた多恵様を真似しているのだろうが、津也殿にはとんと似合ってござらぬよ」

 途端、津也のこめかみに青い筋が浮いた。脇に控えていた女中がひいっと小さな声を上げる。

 男――伝衛門は素知らぬ顔で、出されたお茶を啜っていた。

「うむ。非常に良い香り。渋みもちょうどよい。粋とはこのことでござろうなあ」

 しげしげと茶器も見つめた後、彼はぴんと背筋を伸ばした。

「して、状況は如何か」

 それに、津也は首を振ってから、向き直った。

「悪うございますよ。夏に武虎に来てもらいたいと遣いを寄越した時から相変わらず、奇妙な悪戯ばかり。大田原から送ってもらった者が付くまで、風呂にさえまともに入っていなかった有様ですから」

「ほほう。食事は如何なされている」

「それも、大田原からの娘が就くまで、ろくにしていなかったのですよ」

「毒殺を恐れていたからでは?」

「何とおっしゃったの? そんな小さな声では聞こえないわ」

「いいや。独り言でござる。とにかく、奥方の見立てでは、もう振舞が良くなることはなかろうというのですな」

「もう半年以上経つのですよ」

 ふう、と髪を掻き上げて、津也は目を細めた。

「殿はまだ諦めてらっしゃらないのですか」

 うむ、と伝衛門は頷く。

「当然であろう。幕府に正式に認められた嫡子であられる」

「あんな凶人よりも、武虎のほうが……」

「それは、今は言われぬお約束」

 両手を膝に置いて、彼は視線を遠くに向けた。

「仮に武虎様に変えられるのであれば、殿のご判断のあと。さらには、幕府に裁可を求めねばならぬ。武虎様の御血筋やお人柄を申し述べねばならぬだろう」

「何の問題があるというのです」

「いや。やはり、江戸でお育ちになった文虎様は、それだけで尊重されるのでござるよ」

 もう一度、力強く頷いて。

 伝衛門は真正面から津也を見た。

「これからの時代、武力一辺倒では藩主は務まらぬものですぞ、とだけ申し上げよう」

 そのまま誰もが黙り込む。

 じじじ、と火鉢の炭が燃え尽きる音がしてからやっと、伝衛門が立ち上がった。

「して、拙者も文虎様にお会いしたいのだが」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る