柵の中の狂人(8)
また武虎に逢った。
「ここのところ、遅い時刻まで離れにいるようだな」
訝しげな視線を向けられて、右手に拳を作り左手で隠す。
「何もやましいことはございませぬ」
「いや…… そういう話ではなくて…… 違うな。そうかもしれぬな」
武虎は頰を掻いた。
それから真っ直ぐに向けられてきた視線は、熱を含んだそれ。
「俺はあれが嫌いだ」
「狂っているからでございますか? 私はそれでも、お役目を全うするつもりでおります」
誰も彼も、と美緒はうんざりした。だから、顔を伏せてやり過ごそうとしたのに。
「本当にだな」
ずんっと前に立ちはだかられる。見上げる。凛々しい眉とかっと覗き込んでくる瞳。まだ十七歳とは思えぬ威圧感。
「美緒」
「なんでしょうか?」
「やはり、国許にいるうちに父上に話すべきだった。俺は跡目ではないのだからと遠慮せずに、おまえを……」
――小久保家の跡目。次期当主。
途端、散らばっていた思考が一気に繋がった。
藩主・
一人は江戸で他の武家から迎えた嫁、多恵の産んだ子。今一人が、国許で迎えた側室の津也の子、武虎だ。
その年、滋虎はよほどお盛んだったようで、江戸でも国許でも産声が上がった。つまり、二人は数え年が同じの、異母兄弟なのだ。
参勤交代の制度故に、正室の多恵とその子はずっと江戸住まい。多恵は己が身を置く藩の土地を見ないまま、五年前に江戸で亡くなった。その後、津也の
一方、二人の子は無事に元服した。
武虎という名は元服の際に改められた名前。
多恵の子、江戸で育った嫡子も名を改めて、今は『
その彼は、幕府の許可を得て一年だけ国許にやってきたことがあった。確か、去年の梅雨から、今年の春にかけて。
――去年一年だけ大田原の藩屋敷にいたことがある。
彼はそう言った。
年齢もぴたりと合う。
そして何より。美緒は江戸に来てから一度も、嫡子と会っていない。正室の津也と同じか、それ以上の扱いを受けていなければいけないはずの人と。
――つまり、そういうことだ。
その後も武虎は何かを言っていたが、頭に入らなかった。
よろめきながら、離れに戻る。
この寒さにも関わらず雨戸を明け放たれた縁側で、椿はだらしなく座り込んでいた。
風呂に毎日入れるようになってから、さらに女子のような、柔らかい肌と細い体つきになった。いつもどおりの派手な格子柄の小袖に金糸の入った打掛をかけて、火鉢の傍にずり寄って、煙草をふかしている。
とんとん、と煙管の灰が鉢の中に落とされたのを見届けてから。
「
部屋の中から小さな声で呼ぶ。彼は大きく肩を揺らして振り返った。
めいっぱい見開かれた瞳で、光が揺れる。
美緒は、体が固まってしまった。
見つめ合って、そのまま。
こつん、と音をたてて煙管が落ちる。
そこでようやく、彼は笑った。
「本当に聡いなぁ…… ううん、違うな。正直なんだ。嘘を
ゆっくりと立ち上がって、彼は庭を――雪で
「誰もいなさそうだね。良かった」
くるりと向きを変えて、部屋の中に戻ってくる。ぴしゃん、と後ろ手で障子を閉めて、笑いかけてきた。
「美緒。座ってよ」
言って、正座した美緒に相対するように、彼もどさりと腰を落とす。
「いつ、気が付いた?」
「たった今、ですが」
大真面目に答えると、彼はくすくすと笑った。
「どうして、気が付いた」
「どうしてと聞かれましても」
眉を下げ、口を開く。
「武虎様と話していて、なんとなくピンときました」
「君、武虎のことを知っているんだ」
彼の目が細められる。美緒は頷いた。
「奉公し始めの頃、お部屋廻りのお世話をしていましたので」
それよりも、と首を振り、椿――文虎を真正面から見つめた。
「何故、ここにおとなしく入っているのですか」
「
「いくら奥方様でも、
「その普通じゃ許されないことを無理矢理でもするために、僕を狂ってることにしたんじゃないか」
彼はひょいっと肩を竦める。
「あの人はもともと僕のことが嫌いなんだよ。自分は正室扱いになったのに、嗣子が僕のままってのが気に入らないのさ。父上の後釜に武虎を据えたくて仕方ないんだよ」
「そんなの。文虎様を跡継ぎにと決められたのは殿のご判断ですよね? それを覆そうなんて、立派な反逆ではないですか」
「だから、下手な手でやったら、義母上自身が屋敷から追い出されちゃうでしょ?」
震え始めた肩を、彼にとんとんと叩かれる。
「去年から春にかけて僕が大田原に行っている間、父上が江戸にいたけど、その間散々悪口を言って下地を作ってたんだと思うよ。春に顔を合わせた時の父上、滅茶苦茶困った
穏やかな笑みで彼は喋り続ける。
「で、僕も迂闊なことに、江戸に戻ってきてから、出かける回数を増やしちゃったりとか、煙草を吸うようになったりとか、その時に
「傾奇者? ああ、女物を着ていることですか……」
「そしたら、義母上に御狂乱って言いがかりをつけられちゃったのさ」
そこでようやく息を吐いて。
「めんどくさいお家騒動でしょ」
「そんな軽い話ではなくて、一大事ではないですか」
まだ肩が震える。
「そうだよ。あいつ――義母上と僕の、命がけの戦いだよ」
文虎は、美緒の目をじっと見つめてきた。
「でも、今更、僕から離れてなんかいかないでね?」
瞬いて、見つめ返す。
「もう独りには戻れない」
――絆されたのだろうか。
ぎゅっと唇を噛む。目を細める。その一つ一つを、椿はしっかりと見ている。口元を
両手を伸ばして、相手の頬に添えると、その手を押さえられた。
そのまま、顔を近づけてくる。鼻先と鼻先がくっついて、吐息が混ざる。
慣れてしまった、葉の匂い。
唇に唇が重なった。
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