柵の中の狂人(7)

 あっという間に、雪は降り積もり、師走の半ばになってしまって。


「あんた、一月以上保ったねえ……」

 使用人たちの朝餉の席で、したり顔の女に言われた。

「何がですか?」

「離れにいる方のお世話を、さ」

「ああ……」

 そう言えば、と美緒は苦笑した。皆、三日保たなかったのだった、と。

 女の言葉のせいで、この場の視線を一身に集めている。初日に同情の眼差しを送ってきた男も混じっている。

「よく保ったなぁ」

「大変だろう。あたしは一日で厭になったよ」

「あんたは上手くやっているみたいで、まあ良かったよ」

「なんでか相変わらずの御狂態と見受けるが…… せいぜい気をつけてくれよ」

 そんな訳知り顔に見送られ、今日も奥の離れへ、と。


 御狂態といっても、椿が子どもじみたいたずらを繰り広げるのは、日中、庭の近くでだけだ。

 今日は、縁側に大きな雪だるまが作成されていた。

「どかしなさい」

 半眼で見遣ると、舌を出され、思わず頬を張った。

「痛い! 痛いよ、毎回!」

「話を聞け! 掃除の邪魔だと言っただろ! 怒られたことを繰り返すんじゃない!」

 ぎゃあと叫んで庭に四つん這いで逃げていく背中に。

「着物にわざと泥をつけるんじゃない!」

 怒鳴る。ついでに柵の向こうにちらりと視線をやって。

 松の後ろに隠れている人影を見つけた。



 縁側の掃除を諦めて、品川宿へ。

 煙草屋の暖簾を潜ると、今日は先客がいた。

「ちょうどよかったな」

 店の主、檪が笑う。彼の正面には、煙管からもくもくと煙を上げる男。

 檪よりさらに年上らしく、灼けた顔には皺が多く、棘の多い顔立ちだ。指先はところどころ黒く汚れている。

 その細い目で見上げられて、美緒は戸口の前で立ち止まる。

「どなた様でしょう」

「柏、だ」

 低い声で応じられる。頭の中で文字を書いて、ああ、と呟く。

――なんらかの繋がりがある人だ。

 真っ直ぐに見返す。彼は、傍の風呂敷包みから紙と筆を取り出した。

 さらさらと紙に線が引かれていく。

「こいつは絵描きなのさ」

 と、檪が言った。

「文字では書ききれない情報を描くのが、こいつの役目。今日はこいつの絵を持って帰ってもらうぜ」

「承知しました」

 既に小さく畳まれている紙を二つ三つと渡される。

「主から預かってきた分は?」

「こちらです」

 先日買った葉を包んでいた紙に、爪で引っ掻くようにして記された文字。一文字一文字が離れて記されているうえにひどい癖字で、美緒には椿が何を伝えようとしているのか分からなかったが、檪には通じているらしい。

「まだまだ、出て来られないかねぇ……」

 彼はすぐにそれを囲炉裏に放り込んでしまった。じじじ、とそれが泣き声を上げる。

「早く、柵の外に出られたら良い、と」

「当たり前さね。あんただって思ってるだろう?」

 応じず、目を伏せる。

 傍では柏は描き上がったばかりの紙を折りたたもうとしていた。

「すぐに畳む馬鹿がいるか。乾いてからにしろ」

 檪の呆れた声に、柏は口を尖らせる。年頃に似合わない仕草に吹き出しかける。

「今は何を描いたのですか」

 それを誤魔化すように問うと。

「あんたの絵だよ」

 と檪は指さす。

「ああ…… これは持って帰ってもらわなきゃなぁ。主、見たら大笑いするぜ」

 覗き込んで、美緒は憮然となった。

「とんでもない鬼女ですね」

「だって、あんたいつも怒ってそうだもんな」

「悪うございました」

 ぎっと睨む。檪はしれっと笑い続けた。



「狂っているふりは、昼間だけですか」

「そうだねぇ」

 雨戸を締め切った夕方。言うと、椿は首を竦めた。

 そこに、今日預かった紙を渡す。

「これ、何?」

「今日は、柏と名乗られる方に会いました。その方の描かれた私です」

「ああ。成程ねぇ」

 ぶっと彼は吹きだして、それから見上げてきた。

「柏も美緒を気に入ったみたいだね」

「こんな兇相で描かれても、ですか」

「うん。だって、美緒はいつもこの表情かおでしょ」

 にこりと笑われる。つい、その横っ面を叩いてしまった。

「本当に…… 檪たちの前とかでは止めてね」

「善処します」

 それから、布団の上に座った彼は、手招いてきた。

「甘えん坊さんですね」

「そうだよ。知ってるでしょ」

 くるりと包まって、顔と指先だけを出してくる。

「おやすみなさいませ」

「……うん」

 白く細い指先が、美緒のかさついた指先に絡みついてくる。

「ごめんね」

 そう言って、彼は毎晩眠るのだ。

「本当にごめんね」

 今夜は長い。

「何に謝っているのですか」

「君に。面倒な役目でしょう?」

「お任せされたからには、精いっぱいやります」

 努めて淡々と答える。彼の顔に、しんと静かな笑みが広がる。

「そう…… お役目だものね」

 ちくり、と胸が痛む。

「そうじゃない、と申しましたら?」

「いいよ、無理しないで」

 笑みを顔中に広げたまま、彼は眠りについたらしい。

 じっと、その顔を見つめて。

「……ここから早く出られたら良いですね」

 呟いた。

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