柵の中の狂人(6)

 離れはまた、雨戸が閉め切られていた。

 その出入り口を勢いよく開けて、雪駄を脱ぎ捨てて、中に駆け上がる。


 障子にはまだ、煙管が突き刺さったままだ。

「おかえり」

 その主は、部屋の真ん中で大の字に寝転んでいる。

「椿殿」

「買い物できた?」

「無事に」

 深呼吸を一つして、傍らに腰を下ろす。両手で音もなく、油紙の包みと丸められた紙屑を置くと、彼の眉が情けなく下がった。

「そう…… 買い物できたの」

 彼は紙屑を先に手に取った。

 ぐしゃぐしゃに丸められたそれを、丁寧に押し伸ばす。広げられたそこには、黒々とした墨で『合格』と書かれていた。

「なんですか、これは」

 呆気にとられる。

くぬぎが君を気に入ったってことさ」

 カラカラ笑われる。

「ただ買い物に行っただけですのに」

「度胸試しと、知恵試しさ。名前を聞かれただろう? なんて答えたの?」

「椿、と」

「あはははは! 正解だよ!」

 仰向けから、ごろん、と寝返りを打って。彼は頭を美緒の膝の上に載せてきた。

「ごめんね」

「……何がでしょう」

「これで完全に巻き込んだ」

「何に」

「僕とあいつのいさかいに、さ」

 低い声。所在無く持ち上げられた手を、思わず掴んだ。

 ゆっくりと、握り返される。

「これから何度も檪のところに行ってもらうことになる。あそこに話も物も集めるようになっているから。僕のことも伝えてほしいし、僕への話も持って帰ってきてほしいんだ」

 それでどうなる、と言いかけて、止めた。『あいつ』が誰なのか、そもそもこの男自身が誰なのか、それさえも分からないのに。

 確かなのは、この少年が自分と檪で共通の『大事な主』だということ。

 ややこしいと思いながら、美緒は溜め息をついた。

「それよりも何よりも、まずお風呂に入っていただけませんか?」

「ええ!?」

「臭いです」

「地味に傷つくんだけど!」

 きりっと見上げてきた顔の、その頬を、ぺちん、と叩く。

 がりがりと首の後ろを掻きながら、彼はむくりと起き上がった。

「確かにね。夏以来お風呂なんか入ってないからなぁ。真面目にひげも当たってないし。爪も切ったほうが良いかなぁ……」

「是非そうしてくださいませ」

 ふん、と力んで立ち上がる。



 釜風呂はすぐに沸かせられた。湯気の立ちこめる中に、椿は足取り軽く入っていく。

「お湯加減は如何ですか?」

「ばっちり!」

 薪の爆ぜる音に混じって、お湯が流れる音がする。

「すっごく気持ちいいよ!」

「何よりです」

 クスクス笑って。

「背中を流して差し上げましょうか?」

 言うと。

「さすがにそれは遠慮する!」

 壁越しに焦った声が返ってきた。



「あー、すっきりした」

 ぺたぺたと、湿った足取りで部屋に戻ってきて、彼は大きな欠伸をした。

「眠くなっちゃった」

「夕餉はどうなさいますか?」

「いらない。寝たい」

「かしこまりました」

 さっと布団を敷いてやる。そこに迷わずに倒れ込もうとするので。

「駄目です。ちゃんと体と髪を拭いてから」

「ええええ…… 早く横になりたいんだけど」

「駄目です。風邪をひきます」

 ぐいっと肩を押して、座布団の上に座らせる。その後ろに立って、手拭で髪に残る雫を拭いはじめた。

 艶とこしのある真っ直ぐな髪。

「ちゃんと櫛も通しましょうね」

「うん。ありがとう、なんだけど、君さ、僕のこと弟かなんかだと思っていない?」

 首だけ回して見上げてきた少年に、美緒は吹き出した。

「どうでしょう? 家には弟と妹が二人ずつおりまして、その世話をしていましたが」

「うん。だから、それと同じ調子でやってるでしょ」

 じとりと見上げられ、そっと横を向く。

「否定はしないんだね」

「意識はございません」

「構わないんだけどさ。……皆、同じ父と母の子?」

「いいえ。私だけ母親が違います。弟と妹は、父の後妻の子で、私とは年が離れてしまいました」

「そっか。美緒にも異母兄弟がいるんだ」

 くすっと椿が笑った。

――私にも?

 それは椿にも母が異なる兄弟がいるということなのか、見つめ返す。

 湯上がりの椿の頬は、まだほんのりと上気している。わずかにかさついている部分も見えるが、色白で柔らかそうな肌だ。

 ひげは全て剃ってしまったので、線の細い顔立ちは女子のよう。

 改めて、彼が随分と若いのだと思い知る。

――あれ?

 じっと見つめて、美緒は首を傾げた。

――どこかで、会ったことがある?

 江戸に来てから、ではない。もっと前だ。瞳が大きくて目立つこの顔立ちに、微かに覚えがあるような気がした。

 櫛を動かす手が止まる。

「椿殿」

「なに?」

「椿殿は江戸のご出身なのですよね?」

「うん。生まれも育ちもちゃきちゃきの江戸っ子だよ」

「江戸から外に出たことはありますか?」

 問うと、彼は目を丸くして、それから笑った。

「去年一年だけ、大田原の藩屋敷にいたことがある。もしかしたらその時に、お互い顔ぐらい見てたかもね」

「そう、ですか」

「もしかして、だけど。少なくとも、僕は覚えてないなぁ……」

 言って。彼はまた大あくびをした。

「眠い。髪、まだ濡れてる?」

「もう平気ですよ」

 応じると、彼は今度こそ布団に倒れ込んだ。

「ねえ、お布団かけて」

「はいはい」

「灯りはまだ消さないで」

「どうして」

「美緒の顔を見ていたいから」

 半分閉じかけた目で見上げてくる。

「もうちょっとだけ、ここにいて」

 きょとん、となってから、美緒は枕元に座った。

 右手を伸ばすと、布団からも伸びてくる。

「温かい」

「お布団ですか」

「違うよ…… 君の手だよ」

 はあ、と息を吐いて。

「荒れてる。掃除も炊事も頑張ってくれてるから。ありがとうね」

 彼はまだ細く目を開けている。

「美緒」

「なんでしょう」

「絶対、命は大事にしてね。簡単に死のうとしないでよ」

 とろん、としていながら、その光は強い。

 一瞬顔が強張る。無理やり笑む。

「勿論です」

 すると、ほっと息を吐いて、彼はやっと目を閉じた。

 握っていた手から力が抜けて、すうすう、という息だけが聞こえてくる。

 寝顔は、あどけない。

「……これでは本当に、弟のようではないですか」

 呟けど返事はない。

 また雪が降ってきたようで、雨戸が微かに揺れ続ける。

 名残惜しくて、手を握ったまま、蝋燭の炎が燃え尽きるまでそこに座っていた。どこでこの顔を見たのか、と考えながら。

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