柵の中の狂人(5)
風呂場は新築のまま利用していなかったらしい。
――どれだけ入浴していなかったんだ!
ふつふつと腹の底が煮え立つのを感じながら戻ってくると、椿は縁側に寝転がっていた。
その傍に立ち、腰に手を当てて見下ろす。
「お風呂を沸かし始めてよろしいですか?」
「その前に煙草」
「煙草がなんでしょう」
「買ってきて」
「はぁ!?」
思えず声が裏返る。ふらりと上体だけ起こして、彼はぎゅっと見つめてきた。
「だって煙草がないとつまんないんだもん!」
「馬鹿ですか、あんたは! 煙草を吸うのは体に良くないというが医者の見立てです! ついでに言うと、不始末は火事の元になるんですからね!」
「やだ~! 吸う~!」
ぶんぶんと振り回された椿の手から、煙管がするりと抜ける。ぽおん、と飛んで、障子に突き刺さる。
「……分かりました」
ぽすっという小気味良い音に、こめかみを押さえた。
「行ってきましょう。戻ってきたら、入浴していただきますからね」
するりと
「行きつけのお店があるんだよ」
振り向くと、黒い瞳がじっと覗きこんできた。
「ごめんね、ちょっと遠いよ。品川宿だ。そこの表通りを一本入ったところの煙草屋さ。
「いつもの? 私は初めて行くのに?」
「大丈夫さ」
ふわっと笑われる。
「お風呂、楽しみにしてるから。さ、気を付けて行ってきて」
雪の合間の晴れ間らしい。
溶けた雪で足元は悪いが、寒くて動きにくいということがないのは有難い。
――さっさと歩かないと、日があるうちに戻ってこれないわね。
国許から来る際に通った東海道を少し戻る。海沿いの、漁師たちの船を眺めながら、品川宿へ入る。
旅装束の人の流れを裏切るように一本通りをずれるだけで、ざわめきは遠のく。
その裏通りの長屋の一角で、
開け放たれていた戸を、そこにかかっていた暖簾をくぐる。
薄暗い室内は、葉の香りが漂っていた。
「いらっしゃい」
土間の上がり口に背を丸めて座る男がいた。
綿がみっちり詰まっていそうな袷を着こんで、しきりに両手を擦りあわせている。
二十歳過ぎくらいの彼とじとりと視線が絡み合う。
「見ねえ顔だなぁ」
「それでも、いつもの、を譲っていただける?」
無表情を装って言うと、彼はにたりと笑った。
「そいつは無理だな」
「何故」
「お嬢ちゃん、煙草吸わねえだろ。匂いで分かんだよ。それで『いつもの』はねえよなぁ」
口元がきゅうっと歪んだ笑いだ。美緒は眉を寄せた。
「それでも、いつもの、よ」
「そこまえで拘るんだったら、こっちからも何故って訊かせてもらおうか」
「それは……」
お遣いだからだ、と言おうとして、口を噤む。
だが、他にも言葉が浮かばなくて、さらに眉を寄せる。
「黙ってちゃあ分からねえよ」
ずっと動かしていた手を止めて、彼は立ち上がった。
ずいっと体を寄せてくる。
「さあ、出て行った。お客じゃない奴に用はねえ」
殊更胸を張って、睨みあげる。
「冗談じゃないわ。私は客よ。
そう言うと、男は目を丸くした。
「よくその名前を知ってたなぁ」
それから、今度はくくっと笑う。
「じゃあ、あんたの名前も教えてくれ。それ次第で売ってやってもいい」
「私の……?」
「そうだよ」
唇を噛む。
何と答えよう。素直に名乗っていいのだろうか、それとも。
蒼白い肌に険しい顔立ちの、唇を弧の形にした男の顔をまじまじと見つめていると、どんどん眉が寄っていく。
――この男は檪。
木へんに楽と書く字。
――それなら。
「椿、と」
木へんに春と書く字を名乗ってみよう、と。
そう一言告げただけで、彼は満面の笑みになった。
ぽん、と肩を叩かれる。
「戸を閉めてくれ」
言われるがまま、がたつく戸を引く。
弾むような足取りで、彼は土間を上がっていった。
「ちょっと座って待っててくれや」
がさがさと部屋の奥に行き、畳まれていた布団を広げる。一緒に埃が舞い、美緒は目を細めた。
「煙草と一緒に、こいつもな」
そう言って、彼は小さく丸められた紙屑を掲げた。
油紙に包まれた葉も渡される。
「……ありがとう」
「気をつけて帰んな。主によろしく」
「主?」
「そうだ。俺とあんたの大事な大事な主だよ」
目を丸くして見つめると、ぶぶっと笑われる。
袖に油紙と紙屑を――紙屑を奥側に入れて、外に出る。
角を曲がる時に振り向くと、他にもその戸を潜る人がいた。
夕焼けだ。
木々も建屋も赤く染まる。人も染まる。
その中で屋敷の門を潜った後に、また武虎とかち合った。
「出かけていたのか?」
頷き、見上げる。
美緒は庭に、彼は縁側に立っているので、余計に高いところから見下ろされている。
「奴の遣いか」
「はい」
「断ってもいいだろう。どうせ、子どもじみた我儘なのだから」
「そうでございますが、奥方様には『世話をせよ』と言われましたので」
「面倒くさい。あそこまで狂っているならば、一人で放っておいていいだろうというのが俺の考えなのだがな」
「決裁をなさるのは貴方様ではないのでしょう?」
「そうだが……」
ぎり、と奥歯を鳴らした後、彼は視線をまっすぐに向けてきた。
探ってくるような瞳だ。
何もやましいことはない、と睨み返す。
「面倒事はないに越したことはない」
「それは誰もが思っているでしょう」
「奥のあいつは面倒の際たるものだ」
「左様で」
零しそうな息を無理矢理呑みこむ。顔が歪んだのを見られたようで、武虎の眉が跳ねた。
「おまえが巻き込まれることはないだろうに」
「ご心配ありがとうございます。ですが、お勤めは殿のお気に召すようになさせていただくつもりですので」
頭を下げるなり、踵を返す。
「美緒!」
呼ばれた。聞こえないふりだ。美緒は足早に奥へと向かった。
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