柵の中の狂人(4)

「あの男を引っ叩いたとか」

 奥方に呼ばれ、部屋に顔を出すと、開口一番そう言われた。

 絹の着物の袖口で口元を隠しながら、ころころと笑い声をこぼしている。

「実に爽快」

 居たたまれない、と美緒は顔を伏せたが。

「国許から人を呼んで正解でした。そなたなら、今しばらく、あれの相手をしていられそうですね」

 との言葉に、肩を強張らせる。

「今しばらく、とは……」

 真正面に座ったまま、すっと見上げると、細められた瞳が見えた。

「殿が国許から江戸にお戻りになる三月まで、よろしく頼みますよ」

 両手を膝におろし、彼女は眉を寄せた。

「いつまでも今の状態を続けていてはならぬとは分かっているのですよ。ですが、最終的なお沙汰は殿でないと決められないこと。留守を預かるわらわができるのは、せいぜい閉じ込めておいて、逃げ出さぬようにすることくらいです」

 津也の瞳の奥で、剣呑な光がちらりと過ぎる。

 唇をぎゅっと噛む。



 椿は一体、何者なのだろう。



 はっきりしているのは、椿をここに押し込めているのは、奥方の判断だということだ。

 彼自身も、『この屋敷の今の主』と言った。それは今、藩主が参勤交代で江戸におらず、ここの実質的な采配を奥方が握っていることを言っているのだろう。

 だが、その奥方でも、彼をここから追い出すことはできない。彼の始末を命じられるのは、藩主の大久保滋虎しかいないというのだ。

 奥方にできたのは『さっさと死ね』と『呪う』ことぐらい、だと。


――殿より偉くなくて、奥方よりも偉い方?


 それはいったい誰だ。


 考えながら床を磨いていたら、思った以上に時間がかかってしまった。

 椿はと見回すと、彼は磨き終わった床の上に寝そべって、煙草をふかしている。

 溜め息を吐いてから、柵の外に出て、裏の井戸で水を汲んだ。雪の積もり始めた季節でも、汲みたての水はまだほんのり温かい。

 雑巾をざぶざぶ洗ってから立ち上がり、周りを見回して。近くの建屋――表屋敷の方から向いていた視線に気が付いた。

 あ、と声が漏れる。相手もまた苦笑いを浮かべて、庭に下りてきた。

「江戸に来ているとは聞いていたんだが…… 久しぶりだな」

 そう言って少年は笑う。

武虎たけとら様」

 名を呼ぶと、大きく頷かれた。


 小久保こくぼ武虎たけとら。藩主の二人いる息子の一人だ。

 母親は津也。国許で囲われている側室だった彼女の子なので、生まれも育ちも国許の大田原だ。

 元服を済ませた後もあちらに住んでおり、住込みで奉公していた美緒とは何度も顔を合わせたことがある。

 今年の夏、殿と入れ替わるかたちで江戸に移り、それ以来だったが、変わらぬ印象だ。

 背がずば抜けて高く、並んで立つと見上げるほど。武道を好んでいるだけあり、肩はがっしりと幅広く、袖から見える腕も逞しい。こざっぱりした羽織袴に大小の刀、武士としての貫禄は申し分ない。


「息災か」

「お陰様で」

「奥にいるあれの世話をしていると聞いたが……」

 と、彼は美緒の向こうの柵に視線を投げる。

 振り向くことなく、美緒は頷いた。

「苦労はしていないか」

 特に、と答えかけたところに。

「どうやらあれを叩いたらしいとも聞いているんだが、本当か?」

 重ねて言われ、黙りこくる。

「相変わらず、短気だな」

「申し訳ございません」

「あまり苦労するようなら、俺に言ってくれ。外してもらえるよう、母上に言ってやるから」

 ふっと笑ったその視線から逃れるように一礼し、足早にそこを去る。


 柵の手前で一度だけ振り向くと、彼はまだ美緒を見ていた。



 建物に入るなり大きく息を吸って、ずるずるとへたり込む。。

 しっかりと戸が立てられた土間は暗い。

 拳を左胸に当てて、唇を噛む。

 そこに、こつん、と音を立てて、椿も降りてきた。

 美緒の目の前に膝をつく。つんとした匂いが鼻につく。

「どうしたの?」

「いいえ……」

「外で、何か言われてきた?」

 覗き込んできた黒い瞳に息を呑む。

 人の想いを窺ってくる、ふわりとした光を宿した瞳。


――これで何故、狂っているなどと言われなければいけないんだ。


「なんでもございません」

「本当に?」

「本当です。それにちょっと、寄らないでいただけませんか?」

「ええ!?」

「椿殿、臭いのですが。そういえば、私が来てから一度もお風呂に入っていらっしゃいませんね!?」

「あ、そうかも!」

「……入浴の支度をしてまいります!」

 ぐっと腕まくりをしながら、部屋に上がる。縁側に回ると、べた雪の積もった庭が眩しく見える。

「まずは風呂場を掃除してきますから」

「え~? じゃあ、待っている間に雪だるま作っちゃおうかな~?」

 椿もまた縁側に出てきて、そのまま庭に飛び降りた。

「ひゃ~い、冷た~い! それ!」

 ばしゃ、と雪玉が投げ込まれてくる。

 三つ目は美緒の頬を掠る。

「こら! 何をして……」

「あっはははは! 鬼さんこちら!」

 両足で雪を蹴立てて、手を叩く。その姿をぎろりと睨んで、柵の向こうの松の影に人影を見た。

 はっとなる。

「それ、それ!」

 椿はどんどん、雪を飛ばしてくる。

 縁側に染みができていくのに舌を打ちながら、もう一度柵の向こうを見て。

 あれは誰だ、と首を捻る。

――見張り? 出ていってないかどうかを見張っている? それだけ?

「あいて!」

 突然、椿が雪の上で転ぶ。どしゃっと派手に雪を舞い上げながら、一瞬だけ視線を柵の外へと向けた。

「あははは! 冷たい冷たい!」

「すぐに上がりなさい!」

「や~だよ!」

 美緒が叫んでも、椿はまだ笑っている。なのに、瞳は笑っていないと気がついて、愕然となった。


――見張りがいるから、狂ったふりをしているの?

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