柵の中の狂人(3)
朝の騒動のあと、美緒はじっくりと掃除に取り組めた。お陰様で、離れは塵一つない新築の姿を取り戻した。
それから外出して戻ってくると、雨戸がぴっちりと閉められていて、驚いた。
美緒がやらなかったのだから、締めた人は一人しかいない。
身に付けているのは格子柄の長着だけで、打掛は隅に放られ、煙草盆も捨て置かれていた。
真っ暗だった部屋に灯りが
――ますます子どもなんだから。
殴り合った後の弟たち、怒鳴り散らした後の妹たちのようだ。
なんだかんだで、美緒を姉として尊重してくれた四人は、部屋の隅でめそめそ泣いた後、形どおりの「ごめんなさい」を言ってくれた。口でそう言いながらも納得していない時は、その感情が尖った口元によく出ていた。
それが無かったとき――拗ねて拗ねて仕方がなかったときは、美緒が折れて、無理矢理笑わせようと策を練ったりもした。
大げんかの末、父も母も捨て置いて、姉弟五人だけで一つの布団に潜り込んだこともある。
なんだかんだで四人とも可愛かったな、と今更のように思いながら。
「夕餉をお持ちしました」
そう声をかけても、椿には、背中を向けられたままだ。
ほう、と息を吐いて、部屋に踏み込む。
床が軋んでも、彼は動かない。
その背中からすこし離れたところに膳を置き、自分も腰を下ろす。
すう、と息を吸って、椿の座っている座布団の端を持ち上げた。
「うげ!」
つんのめった椿が声を上げる。構わず、座布団をずらして、椿の体も押す。
その結果、変わらず胡坐を組んでいるが、体はこちら向き。美緒はその正面にいる形だ。
「はい。こちらを向きましたね」
にっこりと笑みを向けると、憮然とされた。
脇にあった膳から、箸と器を取り上げる。
「ちゃんと召し上がってくださいませ」
言って、器の中の具を持ち上げる。
「今夜は里芋ですね」
ずいっと箸先のそれを顔に近づけると、椿は唇を歪めた。
「召し上がられませ」
「厭だ、と言ったら?」
「聞きませぬ。用意された食事を残すなど言語道断。それに、好き嫌いしたり食べなかったりするから、椿殿は細いのです。毒も何も入っておりませんから、さぁ!」
さらに突き出すと、彼はゆっくりと首を振った。
「毒殺だなんて手段には、さすがに出ないと思っているけどさ……」
首を横に振ってから、彼は口を開ける。そこに崩れそうな里芋を放り込む。
むぐむぐと口を動かして、喉を鳴らしてから、彼はぽつんと呟いた。
「甘い」
「ええ。良く煮えています」
美緒は笑った。
「次は蒟蒻がいいな」
「よろしいですよ」
「沢庵も頂戴」
「はいはい」
「もしかして、お茶漬けも食べさせてくれる?」
やや俯いてから美緒の顔を覗きこんでくる。どくん、と心臓を跳ねさせてから、笑みを深くした。
「よろしゅうございますよ」
箸を置き、匙と持ち替えて、椀の中を掬った。
「さあ、どうぞ」
海苔の香りが広がる。
椿が笑う。それから、ぱくっと器用に匙の先を咥えた。
椀の中が空になるまで、
こと、と箸が膳の上に乗る。
じじじ、と燈台の灯りが鳴く。
屋根をしとしと打つ音が響く。
「雨かな?」
「雪かもしれません。大分冷えてきました」
雨戸の隙間から入ってくる風に気付いて、美緒は部屋の前の戸をごとりとずらした。
風が止むと、微かに屋敷から聞こえていた声も聞こえなくなる。
世間から取り残されたような気分になって、首を振る。
取り残されたのは、引き離されているのは、美緒ではない。椿だ。
「狂っている僕と二人きりだ。怖くないの?」
問いかけに振り返る。
「狂っているなんて、嘘でしょう?」
美緒は真っ直ぐに、彼の顔を見つめた。
「椿殿は、私の考えをちゃんと探ってらっしゃるではないですか」
そう言うと、椿は大きく息を吐いた。
「
がりがりと片手で頭を掻きむしってから、煙管で自分の前を叩く。
そこに美緒が座りなおすと、彼はまた口を開いた。
「美緒は江戸の出身じゃないの?」
「私は、国許の――大田原の生まれです」
「そう。どおりで、喋り方が違うと思った」
「そうなんですか?」
「うん。江戸っ子と大田原の人では、なんとなく言葉や訛りが違うんだ。で、江戸屋敷に勤めるようになったのは最近?」
「最近もなにも、貴方に会った日がここに来た日です」
「人手が足りなくなって、呼んだのかな。ご愁傷様」
くくくっと喉を鳴らしてから、彼は真っ直ぐに美緒の目を見つめてきた。
黒目の大きい、睫毛の長い瞳。微かに潤んだそれに、また心臓がざわめく。
「君、僕が何者か知らされてないでしょ」
「あ……」
途端、顔から血の気が引くのが分かった。
閉じ込められている身ながら、世話役を必要とする。そんなの、位の高い人間に決まっているではないか。
――全然、考えが回らなかった!
今朝方の凶行が頭を過ぎる。両手を床について、がくりと項垂れる。笑い声が降ってきた。
「久しぶりに怒鳴られて、叩かれて、吃驚したよ」
「申し訳ございません……」
「いいんだ」
椿はまだ笑い声をこぼし続けている。
「食事を食べさせてもらうのも久しぶりだった。楽しかったよ」
「左様にございますか……」
呻いて顔を上げ、真っ直ぐに座りなおす。
「大変申し訳ないのですが」
と固い声を出す。
「今一度、御名をお聞かせ願えませんでしょうか?」
「うん、却下」
椿はからからと笑う。
「何も知らないままでいて。その方が君の命を長引かせることに繋がるから」
それから、細い指を口元に当てられた。
「今、僕とこうして喋ったことも内緒にね」
「ですが」
「僕は『頭が狂った』から閉じ込められているんだよ。さっさと死ねと呪われた上でね」
しんみりとした笑み。
胸の奥が喧しくなって仕方がない、と美緒は眉を寄せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます