柵の中の狂人(2)
翌日、旅の荷物を片付けるることもそこそこに。美緒は与えられた袷の長着に着替え、前掛けと
――まずは、掃除から。
この建屋、真新しい木の香りで満ちているのと同時に、埃で充ちているのだ。
土間の蜘蛛の巣、縁側の砂埃だけでなく。雨戸や障子の桟といったところはもちろん、部屋の隅も白くなっている。
前の
掃除もできないほどの何があったというのか。そんな疑問はすぐに解けた。
気が付いたのは、桶の水を変えようと振り返った時。
「椿殿」
すぐ後ろに立っていた少年に気づき、目を細める。
「何故、泥だらけの足で部屋に上がっているのですか?」
「だって、楽しいでしょ?」
うふふ、と彼は笑って、また一歩踏みだした。
「ちゃんと足の形が残るんだよ」
なるほど。先ほどまで彼の右足があった部分には、その形の泥がきれいにくっついている。
「あ、泥が足りなくなってきた」
左足を上げてその下にあった床を見て、呟いて。どたどたと庭に下りていく。
雨上がりの庭は十二分に湿っていて、ぐしゃ、と嫌な音を立てる。
「椿殿」
思わず声が低くなる。
「その足で上がられるおつもりですか」
「もちろん」
ふにゃと頬を緩ませる様をまじまじと見つめる。細い眉と柔らかな顔立ちのせいもあって、本当に女子のようだ。年の頃は美緒と同じ十七、八――いや、もっと下だろうか。
袖から覗く手首は細く、裾から覗くふくらはぎも骨の形が目立つ。
――何を食べていたら、こんなに細くなるのやら。
美緒がそう思っている間にも、泥んこ足は縁側を上り、ぺたぺたと板敷の上を縦横無尽に駆け巡っていく。
「ちょっと! 掃除したそばから汚さないでください!」
「やぁだよ!」
あっかんべ、と舌を出され、思わずぐっと拳を握った。
――このクソガキ!
実家でいつも叫んでいた言葉を思い出す。
継母の産んだ、年の離れた弟妹たち。外で遊んでくることを覚えた途端、その汚れた足に悩まされた。
「部屋に上がる時は足を洗いなさいと言っているでしょ!」
べたべたとつけられた跡を拭きながら、叫ぶ。時にはハエ叩きを手に追いかける。そうしていると、継母が金切り声を返してきた。
「泥くらい、掃除すれば落ちるだろう!?」
「掃除の手間を増やされたんだ、怒って当然でしょう!?」
とにかく、泥だらけのまま部屋を走るのは当たり前。気を付けないと、布団さえも泥だらけにされていた。
汚されるのと、綺麗にするのの、いたちごっこ。
耐え切れずに手を挙げたことが、何度あったことか。取っ組み合いになることも多かったが、最後の一年は弟たちも体が大きくなり、妹たちは口が達者になって、美緒が負かされることも多かった。
――なんだろう、この状況は。
相手は半分でも血のつながった弟妹ではない。世話を焼くべき相手だ。だから、必死に理を説くだけで、さすがに殴るわけにはいかない。
成程嫌になるわけだ、と妙に納得した。
掃除したての床に泥をつけられるのはまだマシなほう。
用意された食事に文句を言うのも、それこそ朝飯前。
煙草盆をひっくり返して、辺りを灰まみれにするのは日常茶飯事。
他にも、夜東向きに敷いた布団が、朝見たら北枕に変わっていたりとか。
洗濯した長着をご丁寧に物干し竿から外し、それだけを半分土に埋める、なんてこともあった。
しかもそれを、わざと、行うのだ。
――絶対、怒らせようとしてやっている。
それは確信。
彼は、瞳をふわりと輝かせ、美緒が顔色を変えるのをちゃんと見ているのだ。
決して狂っているのではない。何かの思惑を持って、それを為している。
何故、と問えぬまま。
「ほーら、見てみて、美緒!」
そして七日目の日の朝。ご飯の大根をぽおんと庭に放られるのが見えた瞬間だろうか。
「大根の泥んこ漬け~!」
頭の中で、糸が切れる音がした。
「いい加減にしろ!」
叫び、床を踏み鳴らす。
ぽかん、と彼が口を開ける。
「食べ物を粗末にするな! あんたは、料理をした人への感謝がないのか!」
構わず叫ぶ。
「ついでに言うと、掃除の邪魔も止めろ! 子どもじゃあるまいに!」
二度瞬いて、彼は唇を尖らせた。
「会ったばかりの下女に言われたくないね」
んべっとまた舌を出す。そればかりか、くるりと背を向けて、尻を向けられた。
「ほ~ら、おしりぺんぺん」
「そんなに殴られたいか!」
手にしていた盆で、思いっきりその尻を叩いてやる。
「ぐへっ!」
甲高い声を上げ、椿は前につんのめった。両手を床についた瞬間、もう一度引っ叩く。
「おまえはどういう躾を受けてきたんだ!」
「ちょ、ちょっと! 痛い! 痛い!」
椿は叫び、前に這いずりでようとする。美緒はぶんと盆を振り上げた。
「こんの、クソガキがぁ!」
ばしん、ばしん、と音が響く。
「や、止め! 痛いって!」
泣き喚く声も響く。
里山の猿も驚くくらいにその尻は赤くなった。
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