椿の花のごとく死ね
秋保千代子
柵の中の狂人(1)
江戸に行けと命じられて、美緒は驚いた。
はて、何か粗相でもしたか、逆に引き立てられたということなのか、うんうん唸りながら我と我が身を振り返ってみたが、まったく思い当たる節はない。
京の都と江戸を結ぶ街道の要所として栄えている城下町・大田原。その端っこの、海に近い集落で、美緒は生まれ育った。
父は城勤めのしがない武士。実母は五歳の時に死に、その後やってきた継母は四人の弟妹を生んだ。
そんな総勢七名の暮らしが変わったのは、美緒が十四歳、父と同じく藩屋敷に奉公することになった時だ。
住込みでの仕事だったから、寝る場所が自宅から藩屋敷に変わった。建前は嫁入り先を探すため。本音は、そりが合わず絶えず言い争っている娘と妻を引き離したいと父が願っていたから。話が決まった時、誰よりも喜んだのは父だった。
住込みの暮らしは楽じゃないと言われていたが、家にいても炊事洗濯に追われていたし、むしろ継母の嫌味から解放されて、実に気楽に過ごせるようになった。
下っ端の洗濯から始まって、着物の管理を任されるようになり、仕事が楽しくなってきた矢先の、江戸行きの話。
満足している暮らしが変わるのは口惜しいが、
よって、命じられるままに城下を出て。
江戸に辿り着いたのは、秋の終わりのことだった。
「よう参りました」
江戸屋敷で出迎えてくれたのは、藩主・
国元で囲われている妾だったが、江戸住まいの奥方の逝去によって、正室の扱いとなった女。三十路半ばを過ぎて小さな皺の増えてきた顔ながら、白く柔らかそうな肌を持ち、笑い方は非常に艶めかしい。
「人がいなくて難儀しているという妾の気持ちを殿が理解してくださって、本当にようございました。参勤交代に先んじてそなたを江戸へ上げてくださったのがその証」
細かい織と刺繍の着物を着込んだ彼女は、ほほ、と目を細めて言った。
「国許の屋敷での奉公は大変良いと聞いております。ここでの働きも期待しています」
その言葉に、深々と頭を下げて応じる。
「早速、おまえの役目についてもらいましょう。離れにいる男の世話です」
話しの後に連れてこられた先は、よく手入れされた庭園の奥。
そこに建つ真新しい白木の建屋はなぜか、柵で囲まれていた。 一カ所しかない出入り口には錠前がかけられている。
開いた口が塞がらない。
後ろから付いてきた男が、溜め息をついて、その錠前を開けてくれた。
「鍵は基本かけっぱなしだからな。」
鈍い音を立てて、門が開く。踏み入れることができないまま、口だけを動かした。
「一体これは、何のための鍵なのでしょう?」
「そりゃあ、中の人が出てこられないように、に決まってんじゃないか」
「出てこられないように?」
眉をひそめ、重ねて問う。
「ここには誰がいるの?」
「それは…… 俺の口からは言えねえ。あんたは知らないほうがいい」
いやに同情めいた顔を向けられる。
「……耐えられなくなったら逃げて来い」
「耐えられない?」
「そうさ」
男はにんまりと笑った。
「奥方様の命で、中にあの方を閉じ込めてから三ヵ月経つんだが…… 世話役を仰せつかった奴はみんな、三日も保たずに根を上げた。泣きながら、受け持ちを変えてくれと訴えてきたんだよ」
自分もその一人、と男は首を振る。
「それで、江戸に元々いた人じゃあ引き受け手がいなくって、困り果てた奥方様と御家老が国元に帰っていたお殿様に助けを求めたってわけさ」
はあ、と頷いて、美緒は男を見つめた。
「その人を閉じ込めている理由は何?」
すると、男はすっと視線をずらす。
「それも知らねえほうがいい」
「はあ?」
眉間に皺を刻む。男は勢いよく首を振る。
「お殿様のご指示無くしては、如何ともしがたい人だ。それだけ覚えてろ。あんた、国許から来たばっかなんだろ。余計なことに首を突っ込まないほうが良い。おとなしく仕事だけしてろ。仕事のための出入りは自由だから、鍵を開けてほしい時は大声で呼んでくれ」
背中を押され、よろめいて進む。その後ろでガシャンと錠がかけられる。
ぐっと唇を噛んでから、顔を上げ、建屋の中に踏み込んだ。
掃除が行き届いていないようで、土間の隅には蜘蛛の巣があり、縁側にも砂が溜まっている。陽の光が辛うじて届いているのは、南側の部屋だけらしい。
彼は、そこの板敷の床にゴロンと寝そべっていて。
「今度は君?」
気怠げに体を起こし、真っ直ぐに見遣ってきた。
彼と云っても、体が細く、顔立ちも優しげで、女子のようだ。
身に纏うのは格子柄の長着。 肩にかけられている打掛も、鶴と大きな牡丹が描かれていた女物のそれ。手元に煙草盆を手繰り寄せて、使い込まれているだろう煙管から細い煙を立てている。
そんな
まだ若い。次の正月で十七になる美緒とそう変わらないのではないだろうか。
「奥方様にお世話を言い付かってまいりました」 部屋には入らずに、縁側で腰を下ろす。ゆっくりと指をついて、頭を下げた。
「
名乗り、顔を上げると、ニヤニヤ顔が見えた。
「美緒、ね」
いつの間にやら真正面に来ていた人に、ふうっ、と煙を吐きつけられる。
意識して眉を動かさずにいると、カラカラと笑われた。
「君は何日、ここに居てくれるのかなぁ?」
それには首を振り、逆に問う。
「何とお呼び申し上げればよろしいでしょうか?」
すると、黒目がちの大きな瞳を細め、彼は美緒を見つめてきた。
「椿、と呼んでおくれよ」
思わず、え、と呟く。その名で良いのかと――武士ならば
けれども、彼の笑みは深くなっていく。
「僕は、この屋敷の今の主に、囚われの身ならば椿の花のごとく死ね、と呪われている身なんでね」
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