唯少女論 第1話 「君に名前をたずねる」



 七月の青い空。

「それは、幻」

朝の太陽の匂いを運ぶ風。

「回る回る自転車の車輪」

土を蹴る音。

「リズムよくすれ違う両足」

水しぶき。

「風と一緒に君を追い越す」

地面に染み込んだ水の匂い。

「君の視線が見つめるアタシの背中」

誰もいない教室。

「君だけがいる教室」

アタシの好きなモノ。

「こら! 最中唯理もなかゆいり! 止まりなさい!」

ヘッドフォン越しにもその大きな声は聞こえた。

「………先生、おはよーございます」

「おはよう、じゃない。自転車でヘッドフォンは道交法違反。朝練に無断で遅れてくるのは校則違反」

校門前で私は陸上部の顧問の先生に呼び止められた。

「先生、もしかして待ってた?」

「待ってたよ。朝練を遅刻した理由は?」

「理由………」

そんな理由は一つしかない。

「———寝坊、かな?」

そう言った私の横を一人の生徒が通り過ぎる。

軽く会釈をするその横顔。

タマゴみたいな顔の輪郭、体調が悪いんじゃないかと疑ってしまうくらいに白い肌。

マユ毛で切りそろえた前髪、サイドに輪郭を隠すように残して二つ結びにした黒髪は胸よりも長い。

前髪の下で銀のフレームのメガネの奥にある瞳がアタシを見ていた。

「………おはようございます」

「はい、おはよう」

彼女はクラスメイト。話したことは、まだない。

「とにかく、唯理。すぐに着替えて校庭10周!」

「はーい」

名前は、桜木。

アタシが知っているのは、それだけ。


四月でクラス替えをしてから彼女とは初めて同じクラスになった。

それまで同じ中学に通っていることすら知らず、こんな子がいることも気付かずにいた。

毎日あの時間に登校して花壇の手入れをしている。

初めて彼女の存在に気が付いた時もそうだ。

その時はほんとうに寝坊して、今日みたいに校庭を走らされていた。

何周かしてから彼女は花壇の手入れを始めるとホースで水をまき始めた。

花達に話しかけながら水をまく彼女。

水しぶきの先に、虹ができていた。

アタシは思わず立ち止まる。

その瞬間、心を奪われるってこういうことなんだと思った。

その日から、アタシは彼女しか見えない。


きっとそれは、蜃気楼。

もしくは、夏の幻。

彼女は、まぶしすぎた。

たとえばそれは真夏の逃げ水のように、青春なんて不確かな時代の見せる白昼夢。

夏の熱気にうなされた私の脳裏に浮かぶ影。

間違いかどうかもわからないままアタシは一途いちずだった。

あの頃は、ただただ真っ直ぐに彼女のことだけを見ていた。

まぶたに焼き付いた白い残像の儚さに、アタシは―――


アタシと彼女は不釣り合い。

だってほら。

アタシはショートヘアで、彼女はロングヘア。

アタシは裸眼で、彼女はメガネ。

友達でもない。

ただのクラスメイトという曖昧あいまいな関係。

アタシはクラスでも目立つグループにいる。

彼女は目立たないグループにいる。

同じ教室のはしと端。

交わることのない円と円。

だからアタシ達は、話したこともない。


チャイムが鳴ると担任は順番に出席を取り始める。

「小池さん、小林さん、斉藤さん、桜木さん」

彼女は名前を呼ばれると、大きくはない声でそっと返事をして、隠すように開いた文庫本に目をやる。

窓際の席から廊下側の彼女を見ていると、

「ねぇ、唯理。現国の宿題やったきた?」

前の席に座る藤田が振り向いた。

「ううん、今から。藤田やってきたなら見せてよ」

「やってるわけないじゃん。ここはやっぱり、わもかに見せてもらうしかないか」

「ねえ、わもかって桜木さんのことだよね?」

「そだよ。小学校からずっと、わもかだよ」

「何でわもかなの? てか、そもそも下の名前って何?」

「さあ? 知りたいなら自分で聞きなよ」

「えー、ケチ。菊子きくこのくせに」

「菊子言うな。私のことは藤田かシャルロットと呼んで」

「なぜにシャルロット?」

「ミドルネーム」

「どこの国のヒトだよ」

「フランスと日本のハーフだよ。言わなかったっけ? んで、おばあちゃんがシャルロットと菊子」

言われれば日本人離れした顔だとは思うけど、小さい頃から周りに何人かいたのでそれほど気にはならなかった。

「日本生まれの日本育ちだから日本語しか話せないけどね」

「ふーん。それで桜木さん———わもかちゃん? とは小学校から一緒なの?」

「うん。家が近いからね。この学校に通うって言い出したのも近いからだし。ちなみに言い出したのは私ね。わもがシャルはさみしがり屋だからって。優しいでしょ?」

「二人とも家近いんだ」

アタシ達の通う中学校は中高一貫の私立校で生徒数は多くないものの文武両道を掲げている中で、進学率も高く部活動も好成績を収めている部活が多かった。

取り分けアタシの所属している陸上部はインターハイに出るほどの優秀な部だった。

アタシ自身はスポーツ推薦がもらえたからでもあったけれど、何より制服がかわいいことがこの学校に入りたいと思った理由だった。

アタシ達のような学校が近いからとか推薦でとかの理由以外の生徒は裕福な家庭の子が多く、何かとそのことが気にかかる。

まだあと三年も我慢しなければならないのかと思うと少し気が滅入めいってしまう。

それでも陸上部に入ってすぐに髪を切ってショートカットにしたアタシに同じクラスの一番お金持ちの女子生徒が告白してきたことは少なからずアタシに優越感を与えていた。

何だか、勝った気がしていたのだ。

ウチはそんなに金持ちでもない。

かといって貧乏だというわけでもない。

いわば普通だ。

けれど、普通って何だろうか。

ごく平均的?

何の特色もない?

それは何もないということに遠くて近いんじゃないだろうか。

アタシは普通で、何もない。

「———最中さん。最中唯理さん」

ぐるぐると回る思考を止める担任の声が聞こえた。

「………あ、はい」

「聞いてた? 卒業アルバムの係り、お願いできる?」

「はい。わかりました」

と簡単に返事をしてしまったことを少しだけ後悔した。

「じゃあ、桜木さんと一緒によろしくね」

「え………?」

そう言われて彼女を見るといつものように軽く頭を下げた。


放課後の美術準備室。

アタシは彼女と今までの卒業アルバムを何十冊と、何も言わずに見ていた。

アタシ達の担任が美術教師で顧問の美術部の桜木さんに卒アル係りを頼んだのは少し納得できた。

だらだらとページをめくるアタシに対して彼女はきっちりと要点をまとめてメモしている。

アタシみたいな面倒くさがりとは正反対だった。

だから話すきっかけも探せない。

桜木さんと楽しくお話したいのに。

部屋の中に、二人きり。

言葉はほとんど交わしていない。

正直、気まずい。

藤田とだったらグループは違っても話せるのに。

「あ、そうだ。———ねえ、桜木さんって藤田と仲いいよね。わもかって呼ばれてるの?」

「うん。でも、私がそう呼んでほしいって言ったの」

「何で?」

「私、自分の名前ってあんまり好きじゃなくて」

「そうなんだ。どんな名前なの?」

「………言いたくない」

クールなフリ、興味のないフリをしていたけれど、恥ずかしそうに顔を背けるその表情を見て、

「———かわいい」

と思わず口にしてしまった。

不意のことに驚いた彼女が頬を赤らめる。

それにつられてアタシも焦って顔が赤くなるのを感じた。

「あ、いや! そのー、決して深い意味はなくて………」

「………うん」

「素直に、かわいいなって思って」

「………そんなことないよ」

「そんなことあるよ。目鼻立ちだって整っているし、顔もタマゴみたいにってしてるし」

「とぅるん?」

「キレイなお肌で羨ましい」

「ううん。私よりお姉ちゃんのほうがキレイなの。だから私はお姉ちゃんが羨ましい」

「お姉ちゃんいるんだ。アタシは一人っ子だからお姉ちゃんって羨ましい」

「何か最中さん、さっきから羨ましいばっかり」

「だってほんとうに羨ましいって思ってるんだよ。桜木さんのこと———」

最中さん。

桜木さん。

その距離が遠い。

「ねえ、桜木さん。………わもかちゃんって呼んでいい?」

「うん。………私は、何て呼べばいい? 最中さん? それとも———唯理さん?」

「唯理でいいよ」

「じゃあ、唯理さん」

そう言って彼女は照れ笑いを浮かべる。

一つ一つ、何もかもかわいい。

「アタシの下の名前知っててくれたんだ?」

「シャルがいつも唯理って呼んでるじゃない? だからね」

呼び捨てでもアタシは一向にかまわないんだけどな。

「唯理さん。卒アル係り、ほんとうは他のヒトとがよかった?」

「え? 何で? わもかちゃんとでうれしいよ」

「私達、今まで話したことなかったじゃない? だから、同じグループのヒトがよかったのかなって」

「そんなことないって。アタシ、わもかちゃんと話してみたかったし」

「ほんとう?」

少し首を傾げて聞き返す姿は小動物のようで、ほんとうにかわいく思えた。

「うん。だから、友達になってよ」

友達。

それでよかったんだろうか。

「………私でよければ」

「じゃあ、ケータイの番号教えてよ。メッセのID登録しちゃうから」

「私、ケータイ持ってないの」

「嘘? どうやって連絡するの?」

「お家の電話から」

「え!? マジで!?」

今時そんな子がいるなんて信じられなかった。

「うん。お兄ちゃんが高校生になるまではダメだって」

「お兄ちゃんもいるの? 何人兄弟?」

「三人だよ。お兄ちゃんとお姉ちゃんしかいないよ」

少しオーバーなアタシの反応に彼女は微笑んだ。

「わもかちゃんって末っ子なんだね。しっかりしてるから長女っぽい」

「末っ子はすぐに甘えてるって言われちゃうから。ウチ、親いなくて」

「………え?」

「お父さんは小さい頃に病気で亡くなったの。お母さんはいるのかいないのか———」

そう続けた彼女はうつむいていた視線をパッと上げた。

「ごめんね、唯理さん。こんな話。聞きたくないよね」

「そんなことないよ。ウチも似たようなもんかな。仲悪くてほとんど話さないんだよね」

「そうなんだ。私達、似てるのかも」

そうだとしたらうれしい。

「うん。似てるね」

夕暮れが迫る教室で、少しだけ彼女に近付けた気がした。


あの頃の私には何もなかった。

走ることは好きだ。

けれど、ただ風を感じて自分の力で走っていけるのが好きなだけで、順位やタイムに興味がなかった。

「それってほんとうに好きなことなの?」

突然の言葉でアタシは驚いた。

「担任の私が言うのも何だけど、最中さんってどこか浮世離れしているよね」

「ウキヨバナレって何ですか?」

「世間の常識からかけ離れていると言うか、世間のことには無関心と言うか」

「無関心………」

「それは言い方が悪いかな。流されない、それがしっくりくるかも。浮世の流れに流されない」

「はあ」

「まあ、とにかく。高等部に進学するにしても、それ以外を選ぶにしても、ちゃんとご両親と話し合うようにね」

放課後の誰もいない教室で向かい合って座る先生はアタシに進路希望の紙を渡した。

「先生、そういえば、何でアタシと桜木さんを卒アル係りに選んだんですか?」

「何かと思えばそんなこと?」

書類をまとめて先生は立ち上がった。

「二人が私のお気に入りだから、かな」

笑顔でそう言った先生は、ほんとうに思っていることを話そうとしない。

そんなふうにアタシは感じていた。


「わもかちゃん。わもかちゃんの好きなことって、何?」

フルーツを前に置いて絵を描いている彼女の隣でアタシは同じように絵を描いていた。

同じように、というのは彼女に失礼か。

彼女の絵は繊細ではかなくて美しい。

あれからアタシはほぼ毎日この美術室でサボっている。

アタシ達以外は三人のグループが好きなアニメの話で盛り上がっていた。

「絵を描くことかな」

あの子達も美術部員だ。

美術部は陸上部よりもだいぶ緩い。

来るも来ないも自由だし、来ても強制されることはない。

「強制されたら絵が描けなくなりそう」

彼女は笑う。

「描けなくなったら困るな。わもかちゃんとこうしてるの楽しいし」

おしゃべりだけじゃなくて、何も話さない時間、真剣な彼女の表情を見られることがうれしい。

「うん。楽しいね」

できるならこのまま二人でここにいられたらと、できもしないことを思っている。

卒アル係りを理由にするのも限界か。

毎日毎日アタシ達を走らせて何が楽しいのか。

陸上部の顧問、脳ミソまで筋肉じゃないのか。

「反復練習は大事だよ」

彼女はツボに入ったみたいで笑いをこらえながら言った。

「絵だってこうやって毎日クロッキー描いてたら上手くなると思うよ。走ることだってそうでしょ?」

アタシは彼女の絵をのぞき込む。

教科書のお手本のような線画は繊細な寄り集まっているのに、そこにあるモノクロの果物からは瑞々しさが伝わってくる。

「わもかちゃん上手だよね」

「えー? そんなことないよ」

「画家になれるんじゃない?」

「それはどうかな。私が描きたいのは———」

照れ笑いの中、彼女はスケッチブックの端に何かを描き始めた。

「こういう感じのがいいかな」

とショートカットのデフォルメされた目の大きなアニメのキャラクターを描いた。

「かわいいね。何かのキャラクター?」

「ううん。………唯理さん」

「え? アタシ?」

驚いて少し大きな声を出してしまった。

「あ、ごめん。嫌だよね。すぐ消すね」

「待って———」

消しゴムを持って消そうとしていた彼女の手をアタシはつかんだ。

「消さないで。イヤじゃないから」

いつの間にか教室にはアタシ達二人だけになっていた。

差し込む西日がやけに暑く感じる夕暮れ。

見つめ合う彼女の瞳はメガネの奥で光を浴びてキラキラとしていた。

「わもかちゃん。アタシね———」

ほんとうに自分が好きなことって何だろう。

それが見付けられずにいたアタシは、

「アタシ、わもかちゃんのこともっと知りたい」

理由もわからない焦燥感にさいなまれていた。

「だから、教えて」

彼女は何も言わないまま、アタシの言葉を待っていた。

「アナタの名前は、何ですか?」

そんな大したことじゃないんだ。

ただ、名前を聞いただけ。

それでも彼女が嫌がっている名前を聞くのは躊躇ためらわれた。

「私の名前は、………桜木———かりん」

彼女の手がアタシの手から離れていく。

「かりんなんて、似合わないでしょ」

今日はもう帰ろうか。

カバンにスケッチブックをしまいながら彼女は視線を合わせない。

「ううん。似合うよ」

「………そんなことない。だからこれからも、わもかって呼んでね」

「———わかった。そう言えば何で、わもか、なの?」

立ち上がるとアタシよりも少し背の低い彼女が上目遣いに見た。

「バラ科のカリンって植物の果実の生薬しょうやく名が、和木瓜わもっかなの。だから、わもか。格好悪いでしょ」

「そうかな? かわいいと思うよ。わもかも」

「ありがとう。かりんよりは私に似合うかなって」

「かりんちゃんも似合うよ。かわいい」

「もう。唯理さん、そればっかり」

「だってほんとうにそう思っているんだもん」

「はいはい。わかったからそろそろ、帰ろう?」

呆れて笑いながら薄暗い廊下を歩く。

「ねえ、わもかちゃん」

涼しかった美術室から出ると、そこには夏の夜が近付いていた。

「夏休みになったら、わもかちゃんの家に行っていい?」

「家? 夏休みだったらいいよ。隣の駅からちょっと歩いたところの喫茶店だから一緒に宿題やろうよ」

「わもかちゃんの家って喫茶店なの? オシャレなカフェ?」

「元々レトロな喫茶店だったのをお兄ちゃん太陽の光がいっぱい入ってくる古民家風カフェに去年改装したの。だから、オシャレだよ」

「ほんと? 楽しみだなぁ」

ほんとうは夏休みも彼女と過ごす穏やかな時間が続けばいいと思う下心だった。

そんなことを悟られまいと、いつもよりも明るい自分を装っていた。

「ねえ、唯理さん」

校門を出ると自転車を押しているアタシの前に彼女が歩み出た。

「今日はゆっくり、お家に帰ろう?」



夏の蒸し暑い夜風にふわりと揺れる髪。

少し汗ばんだ首筋。

そこから漂う彼女の匂い。

触れてもいいはずなのに、触れられない。

友達でいいはずなのに、友達ではいられない。

アタシがアタシでいられない。

君がいない時間なんて考えられない。

それでも、思いはきっと届かない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

唯少女論ユイショウジョロン 椎名ニーオ @shenaneo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ