エピローグ 新しい道

 藍はしばらく姫巫女流の開祖である小野篁が消えた方角を見ていたが、ハッとなって駆け出す。

「どうした、藍?」

 仁斎が声をかけると、藍は走りながら振り返り、

「雅よ!」

 仁斎はその言葉に隣にいた丞斎と顔を見合わせた。丞斎は頷き、

「先ほど、椿の声が聞こえた。雅はもう……」

 仁斎は目を見開き、車へと走った。


 小野宗家のテレビの前で、剣志郎達はそれぞれ互いに喜びを分かち合った。

「藍さんが無事で良かったなあ、竜神」

 剣志郎が引いてしまうくらい大泣きの北畠大吾を高校の同級生である裕貴は苦笑いして見ている。御幸も戦いの終結を喜んでいたが、藍の事を考えると手放しで笑えない。

(だって、雅さんは……)

 彼女が必死になって涙を堪えているのを遠野泉進が気づき、

「御幸ちゃん、泣きたい時は泣いた方がいいぞ」

 そんな泉進も目を潤ませていた。

「泉進様こそね」

 御幸は泣き笑いして泉進を見た。

「皆、儂より早く逝ってしまう連中ばかりで、腹が立つのだ」

 泉進は御幸に背を向け、憎まれ口を言った。

(馬鹿者が……)

 彼は雅の命が尽きようとしているのをはっきりと感じていた。


「終わったんだ……」

 女神の消失を報道記者が興奮した様子で伝えているのを観て、古田由加はホッとし、携帯を閉じた。

「小野先生、無事なんだよね?」

 水野祐子が不安そうに由加に尋ねる。由加は零れる涙を拭いながら、

「当ったり前じゃない! 藍先生は無敵よ!」

「そ、そうだよね」

 祐子は同じく不安そうな顔だった江上波子と顔を見合わせ、微笑み合った。


「小野先生、良かった……」

 本多晴子は私立大学の推薦入学が決まった事を報告するために杉野森学園に来ていたが、藍達の戦いの決着を感じ、安堵の表情で西の空を見上げた。

「お帰りをお待ちしています」

 晴子は会釈をし、校舎に入って行った。


 藍は始めの女神が滑空して腐蝕させた地面を柏手を打って浄化しながら、雅がいる比婆山久米神社の奥の宮の前へと走った。距離にして十キロ以上はあったはずだが、藍は息を切らせる事なく、一気に走り抜けた。

「雅……?」

 朝日に照らされた奥の宮の前に雅が仰向けで倒れている。その傍らには京都小野家の後継者だった椿とその実の父親である康斎の霊体がたたずんでいる。

「椿さん、康斎様!」

 藍は二人が悲しそうに自分を見ているので、もう一度雅を見た。雅の左肩は黒く腐蝕し、それはすでに肺にまで達しているようだ。彼が呼吸するたびに妙な音が伴うのだ。右の頬は完全に変色していて、顔半分に黒い仮面をつけているかのように見える。

「雅!」

 藍は涙を流しながら彼に駆け寄った。

「藍、か……?」

 雅はほとんど視力を失った目を半分開き、辺りを見回すように眼球を動かす。

「ここよ、雅」

 藍は膝を着いて雅の右手を両手で包み込むように握り締めた。彼女の流す涙が雅の手と頬に落ちる。

『藍ちゃん……』

 椿は康斎と顔を見合わせ、辛そうに声をかけた。藍はギクッとして椿を見上げた。

「そうなのですか……?」

 真っ赤に腫らした目で自分を見つめる藍を見て、椿は居たたまれなくなった。

「雅……」

 藍は雅の手をゆっくりと彼の胸の上に置き、左手で彼の右頬を、右手で彼の左肩をさすった。

「藍、すまなかった……。お前には迷惑ばかりかけたな……」

 雅は藍の輪郭くらいしか見えていないはずだが、彼女を見つめて言った。

「そんな事ない……。豊国一神教の時だって、雅がいなければ勝てなかった。吉野の時だって、辰野神教の時だって、土御門晴信の時だって、貴方がいなければ勝てなかった……」

 藍はポロポロと涙を零しながら雅の頬と肩をさする。涙は雅の顔や装束に落ちた。

「だから、まだそばにいて! 貴方をあい……」

 藍がそこまで言うと、雅の右手がスッと動き、彼女の口にその人差し指が押し当てられた。

「それ以上言うな、藍。お前は前を向け」

 雅は苦しそうに呼吸しながらも、しっかりした口調で言った。藍は以前出雲大社で雅に同じ事をされたのを思い出した。

「お前にはあの男がいる。あの男の思いに応えろ」

 雅は藍を叱りつけるように見据える。藍はその言葉の強さに驚き、息を呑んだ。

「お前と初めて会った時、何故か懐かしかった。その理由わけがずっとわからなかったのだが、さっきわかった」

 雅は微笑んで続けた。藍はキョトンとして、

「え?」

と首を傾げた。雅は空を見て、

「俺が第一分家の高祖父である耀斎の生まれ変わりだったからだ」

「耀斎様の?」

 藍がそう言った途端、彼女の身体から二人の高祖母である小野楓の霊体が離れた。楓は耀斎に嫁いだ頃の姿で立っていた。その顔形は藍とよく似ている。

「楓様……?」

 雅と藍の口から同時に声が漏れた。椿と康斎が楓にひざまずいた。

『雅、よう気づいてくれました。ようやく私と耀斎様ももう一度添う事ができます』

 楓は優しく微笑み、雅に手を差し伸べる。すると雅の身体から彼の霊体が起き上がり、楓の手を取った。

「いや……」

 藍は雅が逝ってしまうのを感じ取り、呟いた。

「いや、雅、行かないで!」

 藍は雅にすがろうとしたが、それは無理である。雅の霊体は楓の霊体と共に浮き上がった。それに椿と康斎の霊体が続く。

『藍、前を向け。それが俺の願いだ』

 雅は楓達とゆっくり天へ昇りながら言った。

『またいつか会える』

 雅は微笑んでそう言ったが、藍は微笑み返せなかった。

「嫌よ、雅! 嫌よ!」

 だが、藍のその悲痛な叫びも虚しいだけだった。雅達はやがて空の彼方に消えてしまった。藍は泣き崩れた。

「雅、雅、雅……」

 そこへ回り道をして仁斎と丞斎を乗せたリムジンが到着した。

「逝ってしまったか……」

 車から降りながら、丞斎が呟く。

「そのようだな……」

 仁斎は一人残された孫娘の泣きじゃくる姿を見て応じた。

「長生きをしてもいい事はあまりないな。人との辛い別ればかりだ」

 丞斎は椿と話がしたかったのであろう。悔しそうだ。仁斎はチラッと丞斎を見てからスタスタと藍に歩み寄った。

「藍、何をしている?」

 全て承知の上で仁斎は尋ねた。藍は祖父の声にビクッとして泣き止み、顔を上げた。鼻と額に土がこびり付いている。腕も膝も土まみれだ。

「お祖父ちゃん……」

 藍は涙で赤くなった目を仁斎に向けた。仁斎はその顔を見てウルッと来そうになったが、

「いい大人がみっともないぞ」

「うん……」

 藍は涙を拭い、ふらつきながら立ち上がる。仁斎は藍の傍らにまるで眠るように横たわっている雅の遺体を見た。

「逝ってしまったのか?」

 仁斎がぼぞりと言った。藍は雅を見て、

「うん。雅は、第一分家の耀斎様の生まれ変わりだったの。だから、楓様が連れて行かれたわ」

 仁斎は藍の言葉に眉を吊り上げた。

「雅が耀斎様の生まれ変わり?」

 丞斎もその話に驚き、藍達に近づいた。

「雅に振られちゃった……」

 藍は言うと、ワアッと大声で泣き出し、仁斎に抱きついた。

「藍……」

 孫娘に抱きつかれて、仁斎は困り顔で丞斎を見た。しかし丞斎は肩を竦めるだけで何もしようとしない。むしろ、

「抱きついてくれる孫娘がいるのに何を狼狽うろたえている?」

とでも言いたそうだ。

「全く……」

 仁斎は仕方なさそうに藍の頭を撫でた。


「終わったようだな……」

 境内で祈っていた辰野実人はフッと笑って呟いた。そして彼は雅の死も感じ取っていた。

(どうやら、普通に死ねたようだな、小野雅? 時を置かずに私もそちらに逝く)

 実人は何が起こったのかまではわからない妹の薫が、

「ねえ、どうなったの? どうなったのよ?」

としつこく訊くのを無視し、拝殿の方へ歩いて行ってしまった。


 翌日、藍は杉野森学園高等部を欠勤し、米子市にある鳥取分家で前当主小野令斎と雅の合同葬儀に出席した。一門の中には、宗家に仇なそうとした令斎や黄泉路古神道を修得していた雅を小野神社の祭式で送り出すのに渋い顔をする者もいたが、宗家の仁斎と京都分家の丞斎、そして神奈川分家の善斎が説得に当たり、実現した。御幸や裕貴も出席をしようとしたが、時間がないという事で、後日改めてお別れ会を催すという藍の折衷案で折り合いが付けられた。本当のところ、藍はボロボロの自分を御幸や裕貴に見られたくなかったのである。

「黄泉路古神道を修得した者が死を迎える時、その身体は砂となり、魂は砕け、黄泉の国には逝けない」

 それが一門に伝わる話で、現実に黄泉路古神道を修得していた土御門晴信は土のように崩れて消え去った。だから、仁斎達は雅の遺体もそうなるのではと危惧し、葬儀を急いだという側面もあった。しかし、雅の遺体は黄泉戸喫による腐蝕も停止し、崩れる事もない。

「あれはまさしく、始めの女神の呪詛だったのかも知れんな。女神が穢れから解放され、全てが終わったので、雅の身体は崩れないのだろう」

 丞斎が仁斎に囁いた。仁斎は頷きながらも、

「雅は黄泉路古神道を修得しながらも、その始祖である建内宿禰に同調はしていなかった。奴は最後までその心根は姫巫女流だったのだろう」

「なるほどな。そうかも知れん」

 丞斎はそう応じると、榊を手にし、祭壇に近づいた。仁斎もそれに続く。神式の葬儀の中でも、姫巫女流は別格である。死者は積み上げられた榊の上に横たえられ、衣冠束帯を着させられる。葬儀というよりは、新たな旅立ちという発想があるのかも知れない。

「雅……」

 葬儀の間中、正装の巫女服に着替えていた藍だったが、まさしく魂の抜け殻のようだった。普段は厳しい仁斎も、あまりにも痛々しい藍の様子を見て、かける言葉を思いつけなかった。それは丞斎や善斎、道斎、そして他の一門の出席者も同じだった。


 そしてそれから十日ほどが過ぎた暖かな三月初旬。

 杉野森学園高等部も、無事卒業式を迎える事ができた。仮校舎のため、式典は隣の中等部の体育館を借りている。

「藍先生!」

 由加が校舎の前で久しぶりにバイクで姿を見せた藍に両手を振った。祐子も波子も、そしてかつて九州に一緒に行った田辺や奥野や佐藤といった男子生徒達も出迎えてくれた。

「みんな、迷惑かけてごめんね」

 藍はバイクを停め、ヘルメットを脱いで微笑んだ。

「何言ってるんですか、先生。先生は日本を救ったんですよ? 疲れた身体を休めるのは当然ですって」

 由加が祐子と押し合いながら言う。

「ありがとう」

 藍は由加達の心遣いに感謝した。そんなやり取りを校舎の陰からそっと見ているのは、剣志郎だ。

(声、かけづらいよなあ)

 彼は茨城分家の裕貴を通じて、雅が命を落としたのを聞かされている。藍が落ち込んでいるのは誰よりもわかっているつもりだ。だからこそ、かける言葉が見つからない。

(藍、ここを辞めたりしないよな?)

 剣志郎がそう思った時、

「小野先生が辞めたりしないか、心配なのかね、竜神先生?」

 後ろからいきなり原田事務長に声をかけられた。

「ひ!」

 剣志郎は思わず悲鳴をあげてしまい、由加達に気づかれてしまった。

「あ、竜神先生、そんな所で何してるんですか!」

 由加達がわめき出して近づいて来る。剣志郎がギョッとしていると、藍はヘルメットを被り直し、バイクで駐車場に行ってしまった。

「小野先生は辞めたりしないよ、竜神先生。昨日、理事長に挨拶に来たからね」

 原田はニヤリとしてそう言うと背を向ける。

「健闘を祈るよ」

 剣志郎はその最後の一言に顔を引きつらせた。


 藍が駐車場にバイクを置いて歩き出した時、晴子が現れた。

「本多さん、こんなところにいていいの?」

 藍は微笑んで尋ねた。すると晴子は藍に駆け寄って、

「小野先生って、チョコをあげても突き返されるから覚悟した方がいいよって先輩方に聞いていたんですけど、私のは受け取ってくださったのですね?」

と妙な事を言った。

「え? チョコ?」

 藍には覚えがない。首を傾げる藍に晴子は不安そうな顔になり、

「バレンタインデー当日は試験だったので、歴研の後輩の古田さんに頼んで渡してもらったはずなんですけど……」

 藍はそれを聞いてハッとした。

(剣志郎が古田さんから受け取ったチョコの事なの?)

 晴子は藍の反応を見て、

「もしかして、受け取っていないんですか?」

 藍はギクッとして晴子を見た。

(まずい……。古田さんが本多さんに叱られる……)

 そう思って何か言わなければと思う藍だが、言葉が出ない。


「やっばー、私、勘違いして竜神先生に渡しちゃった!」

 二人の会話をこっそり聞いていた由加が言う。

「何だかんだ言って、やっぱり由加は竜神先生が好きだから、渡したのね」

 祐子が妄想を暴走させる。

「な、何言ってるのよ、祐子!」

 由加は真っ赤になって祐子に食ってかかった。それを横で波子がニヤニヤして見ていた。


 藍は晴子に真相を打ち明け、くれぐれも由加を問い詰めないように言った。すると晴子は、

「わかりました。それには条件があります」

「な、何?」

 藍はピクンとして晴子を見る。晴子はニコッとして、

「卒業旅行に一緒に行ってください!」

と藍の手を握って来た。

「え、え、ええっ!?」

 藍は仰天して、晴子の手を振り解く事ができなかった。

(やっぱり本多さん、そっちの人なの?)

 顔が引きつるのを感じた藍だった。


 やがて、杉野森学園高等部の卒業式が始まり、高等部の生徒全員が中等部の体育館に集合し、来賓や父兄達もゾクゾクと入場した。藍も黒のパンツスーツに着替えて出席した。剣志郎はチラチラと藍を見ていたが、藍は剣志郎を見る事はなかった。そのせいで剣志郎は酷く落ち込んだ。


 式典は滞りなく終了し、晴子達三年生は高等部を去って行った。泣いている者、笑っている者、様々だった。藍達も式典終了後の都心のホテルでの謝恩会に出席するため、一度仮校舎に戻った。剣志郎は藍に無視されたと思い、項垂れて社会科教員室に戻り、謝恩会は出ずに帰ろうと決意していた。するとそこへ藍が入って来た。

「わ……」

 剣志郎は気まずい思いで俯き、鞄に書類を投げ込むようにして出て行こうとした。

「ああ、待ってよ、剣志郎」

 藍が呼び止めた。

「え?」

 剣志郎は笑顔の藍を久しぶりに間近で見た気がした。

「謝恩会、行かないの?」

「い、行かない」

 剣志郎はまた出て行こうとする。

「じゃあさ、私を送ってくれない? 安本理事長に絶対に出席するようにって言われてしまったの」

 藍の言葉に剣志郎の胸の鼓動が高鳴る。

(ど、どういう意味?)

 藍はそんな剣志郎の心の葛藤を知らないのか、

「って言うか、出席しなさいよ、剣志郎。私一人で行くの、寂しいから」

などと妙に思わせぶりな事を言う。剣志郎の脳裏に豊国一神教の小山舞に騙された時の記憶が甦った。

「はい、決まりね。行きましょうか」

 藍は剣志郎の手を掴み、教員室を出た。

「あ、藍、えっと……」

「何?」

 オロオロしている剣志郎に藍がムッとした顔を向ける。

「あ、いえ、何でもありません」

 剣志郎のかしこまった口調に藍は噴き出した。

「行く途中、いろいろ話したい事があるの」

 藍は剣志郎から手を放し、背を向けて歩き出す。

「いろいろって、何?」

 剣志郎は心臓が壊れそうなくらいドキドキしていた。

「この前の返事とか」

 藍はチラッと振り返って言うと、また歩き出す。

「へ、返事!?」

 剣志郎はそれが何を意味するのか理解し、卒倒しそうだ。

「早くしなさいよ、剣志郎」

 廊下の角で藍が言う。剣志郎は苦笑いした。

(雅、私、前を向けそうな気がして来た)

 藍はどこかから見守ってくれている雅に告げた。


 季節は春である。


                                    ── 完 ──

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ヒメミコ伝完結編 黄泉津大神 神村律子 @rittannbakkonn

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