第十五章 姫巫女三人合わせ身
開祖の小野篁から数えて千年以上の長きに亘って伝えられて来た姫巫女流古神道。その中心である小野宗家の後継者の小野藍は、たくさんの人達の思いを受け取り、姫巫女流の源流である那美流古神道の最高の使い手であった那美の巫女、すなわち始めの女神に挑もうとしていた。
「はあ!」
藍の身体がより輝く。そして彼女の背後の二人の倭の女王である卑弥呼と台与が藍に同化した。
『クォォォォ……』
瞳のない目を吊り上げて始めの女神が禍津気を更に吐き出す。禍津気はまるで生き物のように宙を飛翔し、藍に向かって来た。
「えい!」
藍が姫巫女の剣と篁が持っていた闇の剣を融合させた剣を
『クォォォォ……』
女神の怒りで周囲の空気が振動し、彼女の足元の地面が揺れ、地割れが起こる。
『フォォォォ……』
女神は両手を高々と掲げ、振り下ろした。するとその指先から妙な魔物が無数出現した。それはグニャグニャとしており、まるでイザナミとイザナギが最初に産んだヒルコのようだった。
「凄い……」
藍はその数に女神の執念を感じた。
(まだお怒りが収まっていないのね……)
藍は目を潤ませ、その魔物の集団に突っ込んでいった。
藍の最後の戦いが始まったのを感じ、椿の霊体と雅は朝日に照らされながらも尚も漆黒に見える女神とその周りに渦巻く禍津気、そして藍に襲い掛かる黄泉の魔物を見た。
『藍ちゃんが呼んでいるから、行くわね』
椿は何故か涙を流しながら告げた。雅は弱々しく微笑み、
「ああ。もう俺には何もできないみたいだな」
『そんな事ないよ、雅。貴方が明斎を女神から切り離してくれたお陰で女神の穢れが弱まったのだから』
椿はもう触れる事ができない雅の頬を愛おしそうに撫でる仕草をし、フワッと浮き上がった。
『ありがとう、雅』
椿は涙で光る目で雅を見てから、スーッと上空へ飛翔して行った。
「あれは?」
雅は椿を目で追っていて、西の空から迫って来た気の塊を感じた。
「一門の気、か?」
彼が見たのは、神奈川分家の善斎と茨城分家の道斎が米子の鳥取分家で集めた日本中の小野家の者達の気の集まりだった。
「そうか。今、日本の多くの人々が、藍を見守ってくれているのか」
雅はフッと笑うと、そのまま前のめりにドサッと倒れてしまった。
「頼んだぞ、椿……」
彼は少しだけ顔を上げ、呟いた。その顔には椿が祓ったはずの黒い傷があり、左肩も腐蝕を続けていた。その時、雅はようやく椿が言った事の意味がわかった。
(そうか……。藍は楓の生まれ変わり……。そして、俺はその夫であった耀斎の生まれ変わりか……)
雅は藍に初めて会った時、何故か懐かしい感じがしたのを思い出した。その理由が今わかったのだ。
小野一門からの気を受け取った藍は更に輝きを増して剣を振るい、女神が放った魔物を斬り裂く。しかし、その数はその前に女神が出した黄泉醜女以上で、一向に減る気配がない。
「あ!」
藍が魔物と格闘しているうちに、女神はまた目的地である黄泉比良坂へと向かう。
「く!」
藍が剣志郎達からもらった気を使おうと考えた時、
『それはならぬ。その力は女神の禍津気を打ち祓うためのものぞ』
篁が言った。藍はその言葉にハッとして思い止まったが、
「でも、このままでは……」
と去って行く女神を見た。
『藍ちゃん、ここは私達が引き受けるわ』
藍はその声を聞いてビクッとしてしまった。
『相変わらず、私は怖がられたままなのね』
声が聞こえた方を見ると、椿が微笑んで浮かんでいた。
「いえ、そういう事ではないのですが……」
藍は椿の声を聞き、彼女が雅と話しているのを感じてから、複雑な思いになっていたのだ。
『雅は大丈夫。貴方が戻るのを待っているわ。早く女神にお帰りいただくのよ』
椿は藍が不安そうな顔をしているのを感じたのか、諭すように言った。
「私達って、そういう事ですか……」
椿の後ろには彼女の実父である
『さあ、藍さん、行きなさい。早くしないと女神が黄泉比良坂に辿り着いてしまう』
康斎は優しく微笑んで言った。
「はい!」
藍は大きく頷くと、女神を追って飛翔した。
『頼んだぞ、我が血に連なる者達よ』
篁は椿と康斎を見てから、藍を追いかけて飛翔した。
『はい、篁様』
康斎と椿は篁に頭を下げ、次に黄泉の魔物を見る。二人はすっかり取り囲まれていた。
『腕は落ちてはいないな、椿?』
康斎は衣冠束帯の下から陰陽道の護符を取り出す。
『もちろんです。私は小野椿ですよ、お父様』
椿はフッと笑って応じた。そしてその両手に光り輝く剣を出した。そして、藍達を追いかけようとする一団を見て、
『お前達のような者にこれ以上女神様を利用させたりしない!』
と叫ぶと、右手の草薙剣を振るい、消滅させた。魔物達は椿の力を知り、彼女から離れた。
女神の姿は遂に黄泉比良坂の伝承地がある松江市東出雲町揖屋の人達にも肉眼で見えており、パニックになっていた。交通は麻痺し、電車は全て運休し、登校途中だった児童生徒達は全員、災害時の集合場所に避難していた。
「女神様が黄泉戸をお開けなさるのか……」
ゆっくりと進んで来る女神を目を細めて見ていた老人が呟いた。
「さあ、早く避難してください」
制服警官が立ち止まっていた老人を強制的に移動させる。老人は人の流れに飲まれ、その場を離れて行った。
藍の祖父仁斎と椿の祖父丞斎を乗せた京都小野家のリムジンが米子自動車道を走っていた。
「始めの女神はもう松江市に入ったようだな」
丞斎が後部座席に備え付けられたテレビの映像を観ながら言った。
「藍……」
仁斎は窓の向こうに見える空を見上げ、孫の戦いを案じた。
藍と篁は女神の正面に回り込んだ。
『クゥォォォ……』
女神は藍と篁の存在に気づくと、再び敵意を剥き出しにし、瞳のない目を向けて咆哮した。
『女神が黄泉の魔物を放つ前に禍津気を薙ぎ払うのだ、藍』
篁が言った。藍は頷いて女神に接近した。しかし女神は身を翻し、藍から離れようとする。
『遠くからの剣撃では禍津気の奥まで届きません。できるだけ近づくのです』
藍に同化した卑弥呼が藍の心に直接語りかけて来た。藍は女神の動きを観察しながら、飛行方向を変え、女神のそばに近づこうとする。
『クゥァァァァ!』
女神が
「く……!」
藍は女神の攻撃を素早くかわしながら、女神の懐に入った。
『今です!』
台与の声が指示する。藍は剣を大上段に構え、
「えええーい!」
気合いと共に振り降ろした。すると剣先から光の筋と闇の筋が伸び、女神を取り巻いている禍津気にぶち当たった。
『グォォォォ……』
その途端、女神が苦しみ出した。彼女は目茶苦茶に両腕を振り回し、藍を落とそうとした。
「キャッ!」
女神の腕が当たった訳ではなかったが、その風圧で藍は跳ね飛ばされ、落下しかけた。
「藍!」
その時、剣志郎の声が聞こえ、竜の気が藍を支えた。
「藍姉!」
「藍ちゃん!」
「藍さん!」
「小野先生!」
「藍先生!」
たくさんの人達が自分を呼ぶ声が聞こえた。
「私は……負けない!」
藍は上昇し、女神に向かった。そして今度は、
「えやあ!」
右斬上に剣を振るい、禍津気を断ち斬った。
『クゥォォォォ……』
女神の咆哮が強くなり、身体が揺れ始める。
『もう一撃!』
藍は更に上昇し、女神の真上に出た。
『ガァァァァ!』
するとそれに気づいた女神が藍を見上げ、口から禍津気を吐き出した。
「そうです、全部お出しください! 穢れをお祓いします!」
藍は向かって来る禍津気に対して剣を正眼に構えた。禍津気はまるで意志を持っているかのように動き、藍に襲いかかった。
「これで終わりにする!」
藍は身体中の気を剣に込めて、禍津気に向かって飛翔した。
(私自身を剣の一部と化して、全てを薙ぎ払う!)
藍の身体がより強く輝き、剣と一体化した。大きな光の剣となった藍は、禍津気を一刀両断し、そのまま女神に突っ込んだ。
『見事だ、藍よ』
篁がその様子を見て呟いた。
『クィァァァァ……』
禍津気を打ち祓われた女神は藍の剣で斬られ、霧が晴れて行くように徐々に崩壊して行く。
「くう……」
一晩中戦って来た疲れが出たのか、あと一押しのところで藍は意識が飛びそうになった。
『藍、しっかりなさい』
その時、誰かの声がした。
「どなたですか……?」
藍は薄れゆく意識の中で尋ねる。
『私は楓。貴女をずっと見守って来ました』
「楓、様?」
藍はフウッと気を取り直した。
『姫巫女合わせ身は常人の想像を絶する究極奥義。貴女に私の力を貸しましょう』
楓の声がそう言うと藍の身体に力が戻って来た。
「これは……」
藍は何が起こったのかわからず、驚いてしまった。
『これぞ姫巫女流の最終奥義、姫巫女の
楓の声が心の中で聞こえた。
『さあ、終わりにしましょう、藍』
「はい」
藍は態勢を立て直し、また力を取り戻しかけている禍津気に向かう。
「姫巫女流は滅びない!」
それは卑弥呼、台与、楓、藍の心からの叫びであった。藍はそれと同時に剣を振り降ろし、禍津気の足掻きを断ち斬った。
『ガァァァァ……』
元に戻ろうとしていた巨大な女神は崩壊して行き、禍津気は荒れ狂いながらも朝日の中に消失して行った。
「終わったの……?」
藍が呟くと、
『まだです。降りなさい、藍』
卑弥呼の声が告げる。藍は黙って頷き、地上に降り立った。そこはまるで重機で踏み荒らしたようにあらゆるものが崩れ、散乱していた。周囲の木は倒れ、高圧電線が何本も切れて揺れているのが見える。それでも女神の進行が人家の手前の林で止まったのが幸いであった。
「あ……」
藍はその瓦礫の向こうに一人の巫女姿の美しい女性を見つけた。
「あれは……始めの女神様……。那美の巫女?」
藍はふらつきながら巫女に近づく。卑弥呼と台与が藍から離れ、巫女に向かって飛翔した。
「母上」
卑弥呼が叫ぶ。台与がそれに続く。巫女姿の女性はゆっくりとこちらを向き、卑弥呼と台与を見た。
『藍、剣を始めの女神様に』
楓の声が聞こえた。藍が剣を掲げると、剣はスウッと宙を舞い、卑弥呼の手に収まった。やがて篁も追いつき、那美の巫女のそばに降り立った。
『
那美の巫女の声が響いた。その荘厳な気の流れに藍は立ちくらみがしそうだ。
(すごく清らかで鮮烈な気だわ……)
篁は巫女の前に
『長々とお借り致しましたお力、ようやくお返しする運びとなり、喜ばしい限りでござります』
と言った。巫女は微笑んで篁を見ると、
『其方こそ、よくぞ我が那美流を守ってくれた。礼を申すぞ』
『ありがたきお言葉に存じます』
篁は深々と
『今まさに姫巫女流は那美流に戻された』
楓が心の中で囁いた。藍は込み上げて来る涙を堪え切れなくなった。別れの時が来たのを感じているのだ。
「藍」
そこへ仁斎と丞斎が到着した。
「お祖父ちゃん、丞斎様」
藍は涙を拭いながら振り返った。仁斎と丞斎は藍に楓が降りているのに気づき、思わず顔を見合わせ、頭を下げた。その行動に藍はキョトンとしてしまった。
『小野の血に連なる者達よ』
巫女が言った。藍と仁斎と丞斎は巫女を見た。
『
巫女は卑弥呼と台与を見ながら言う。藍はもう号泣してしまっていて、仁斎と丞斎が支えていた。
『皆の幸いを祈っている。さらばじゃ』
巫女と卑弥呼と台与の身体が宙に浮き、光に包まれて行く。仁斎と丞斎もその光景に息を呑み、声を失ったように見つめていた。
『これからも私達はあなた方を見守っています』
卑弥呼が言う。
『姫巫女流は那美流に戻りましたが、小野一門は終わった訳ではありません。これからも久しく続くように祈っております』
台与が微笑んで言った。
「ありがとうございます」
篁、そして仁斎、丞斎、藍が去り行く三人の偉大な女性に頭を下げた。三人の巫女は光と共に上空へと舞い上がり、空の彼方に消えて行った。
『終わったな』
篁が呟き、藍達を見やった。
『我が血に連なりし者達よ、ようやった。これでようやく私も静かにあちらで暮らせる』
篁は微笑んで言った。藍はまだ泣いている。
「小野一門はこれから先も篁様を祀り申し上げ、この国を陰から守り続けます」
仁斎が頭を下げて告げた。
「どうか拙い我々をお見守りください」
丞斎が告げる。篁は慈愛に満ちた眼差しで二人を見て、
『承知した。小野一門の事、頼んだぞ』
篁の身体が透け始めた。彼もまた行くべき場所に帰るのだ。
「ありがとうございました、篁様」
藍は涙を流しながら、大声で言い、頭を深々と下げた。篁は大きく頷きながら消えて行った。
「終わったな。これで我らは姫巫女流ではなくなった。小野神社は続くがな」
仁斎が言った。藍は涙を拭いながら、
「うん……」
と応じた。
そして、もう一つの別れが藍達を待っていた。
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