第十四章 穢れ祓い
藍は小野篁に差し出された黒い剣を戸惑いながらも右手に持つ。
『それを姫巫女の剣と合わせるのだ』
篁が言う。藍は思わず自分の後ろにいる二人の倭の女王を見た。
『篁の言葉に従いなさい。我らは皆帰るべき所に帰るだけです』
卑弥呼が慈愛に満ちた笑みを浮かべて藍を諭す。台与も微笑んでいる。
「そんな、では……」
藍の頬に涙が伝う。彼女は姫巫女流を自分の手で終わらせようとしていると理解したのだ。
『元より一つのものを私が分けただけ。元に戻すのは当然の事』
篁も微笑んで藍に語りかけた。
『迷うている暇はないぞ、藍。早くせぬと女神が黄泉戸を押し開いてしまう』
篁のその言葉に藍は涙を拭って左手の姫巫女の剣と右手の黒い剣を近づける。途端に二つの剣が干渉し合い、姫巫女の剣は輝きを増し、黒い剣はより黒くなっていく。
『全てお返しいたしますと心の中で唱え、剣を重ねよ』
台与が優しく藍に告げる。藍はゆっくりと頷き、剣を重ねた。
(全てお返し致します、女神様。どうかお戻りください)
彼女は目を閉じて二つの剣が一つになるのを思い描いた。始めの女神は藍に近づくのをやめ、再び北西を目指す。向かう先は松江市東出雲町揖屋にある黄泉比良坂である。
「きゃ!」
藍は剣が出す衝撃波のようなものに驚いて悲鳴を上げてしまった。恐る恐る目を開くと、そこにはあの明斎が持っていたのと同様の光と闇が入り混じった剣があった。
「これが……」
藍が剣を上から下まで見ると、篁が、
「それこそ那美流の剣。陰陽を束ねし唯一無二の宗派の剣ぞ」
藍はその言葉に実が引き締まる思いがした。
「さあ、全てを終わらせるのだ」
篁が藍を促す。藍は大きく頷いて、
「はい!」
と応じると、ゆっくりと進む女神を目指して飛翔した。
女神が動き出したので、テレビ局のクルーが色めき立つ。
「また動き始めました! 地元の方の話に従うと、恐らくあの巨大な巫女姿の女性は、神話に出て来る女神のイザナミではないかという事です!」
レポーターが興奮気味で伝えると、後ろで聞いていた老人が、
「罰当たりめ、イザナミ様と呼べ!」
と怒鳴っているのが聞こえたが、学校に遅刻しそうな古田由加は、キッチンで呑気に洗い物をしている母親を見て、
「お母さん、この番組、録画しといてよ」
と言うと、家を飛び出して行った。
「ええ? 録画って、どうするのよ、由加?」
由加とよく似ている母親は途方に暮れた顔でリモコンとテレビを見比べた。
「おはよう、由加!」
駅へと路地を走って行くと、親友の一人である水野祐子が横の路地から飛び出して来た。
「おはよう、祐子。テレビ、観た?」
「観た観た! だって、あの大きな女神様と戦っているの、小野先生でしょう?」
祐子も興奮気味だ。
「大丈夫かな、藍先生?」
由加は心配そうに携帯電話を取り出し、ネットに繋ぐ。
「ライブ中継しているよね、どこかで」
「多分ね」
祐子は由加の携帯を覗きながら応じる。
「お母さんに録画頼んだけど、当てにならないからさ」
「かもね」
やがて駅が見えて来たところで、歴史研究部三人娘の最後の一人、江上波子が現れた。
「凄いね、小野先生。あんな大きな女神様と戦ってるなんて」
いつもクールな言動が多い波子がやはり興奮している。
「あの女神様、悪い女神様なのかな?」
由加がやっとネットでライブ中継をしているサイトを見つけて呟いた。
「小野先生が戦ってるんだよ? 悪い女神様なんじゃないの?」
祐子が言った。
「そうかなあ……」
由加は納得していない。
「まあ、どっちにしても、私達は小野先生の味方だけどね」
波子が取り成すように言う。
「そうだね」
由加と祐子は波子を見て微笑んだ。
三人は駅に向かう道すがら、多くの人々が携帯やスマートフォン、あるいはタブレット端末で島根で起こっている事件を見ているのに驚きながら進んだ。
「藍先生……」
由加は藍の強さを知っているつもりだったが、今回は心配だった。何故そう思ってしまうのかは彼女自身もわからなかった。
雅と明斎はテレビ中継から外れた場所で睨み合っていた。二人に気づいた(とは言え、明斎は霊体であるから、実際には雅しか見えていない事になるが)テレビ局クルーもいたが、テレビ映りがよくてある意味見栄えのいい女神に向かってしまった。あるいは血塗れの雅を見て恐ろしくなったのかも知れない。
「こんな時にも不人気だな、明斎」
雅が皮肉めいた事を言った。すると明斎はフッと笑って、
「俺は見えていねえから関係ねえよ。不人気なのはてめえだろ、雅?」
と言い返す。雅は漆黒の黄泉剣を下段に構え、
「そうかも知れんな」
その言葉が終わらないうちに明斎が動いた。
「てめえはもう立っているのも
明斎は目を見開いて高笑いしながら地面を滑るように移動した。霊体であるから、肉体がある者より動きが速い。
「俺の憎しみ、恨み、怒り、悲しみ、全部その身に受けて死ね、雅!」
明斎の身体が妖気に包まれる。それが拡散して朝日が当たり始めている周囲を暗黒に閉ざしていく。
「く……」
明斎が接近するのに呼応するかのように雅を
「俺の勝ちだあ!」
明斎が雄叫びを上げた時、彼の遥か後方を飛翔している女神も咆哮し、禍津気を増大させた。
(やはりこいつが女神の穢れを生み出しているのか?)
雅は自分の身に代えても明斎を消し飛ばさなければならないと思った。しかし、傷口はそれを嘲笑うかのように深く強く彼を
「ぐうう……」
雅はとうとう右膝を着いてしまった。それを見た明斎が狂喜する。
「ざまあねえな、雅! 俺が手を下すまでもねえか」
明斎は動きを止めて雅を哀れむように見下ろした。
「く……」
雅は剣で身体を支え、立ち上がろうとした。
「まだやる気か、雅! ならば容赦はしねえぜ!」
明斎はまた動き出した。
「何、今の?」
藍は女神の前に回り込んだ時、一瞬だが明斎の憎悪に満ちた顔が女神の顔に重なるのを見た。
「明斎?」
藍はギュッと剣の
『あの者は気に致すな、藍。お前は女神にお帰り願う事だけを考えよ』
藍が雅の心配をしかけたのを見抜き、篁が釘を刺すように言った。
「はい……」
藍は明斎が雅と対峙しているのを感じていたが、それを振り払うように首を横に強く動かした。
『フォォォォ……』
女神は再び藍と篁を敵と看做したらしく、禍津気を強く吐き出しながら接近して来た。
雅は目が霞むほどの激痛に見舞われ、とても明斎の相手をできる状態ではなかった。
「最後に立っている者が勝者なんだよ、雅!」
明斎の両手がまさに雅に触れようとした寸前だった。
「何ィッ!?」
明斎は二人の間に突如現れた眩い光の玉に驚き、後退した。
「な、何だ……?」
その光の玉には雅も驚いていた。
『私の愛しい人を苦しめるのは絶対に許さない』
光の玉はやがて人の形となった。それは明斎が恋焦がれた小野椿であった。
「つ、つば、き?」
驚きのあまり、明斎は言葉を吐けない。
「椿……」
雅も椿の神々しい姿を見て唖然としていた。椿はチラッと雅を見て、
『貴方には不本意かも知れないけど、ここは私が』
と言ってから明斎を睨んだ。明斎は呆然としていたが、
「ようやく俺の前に来てくれたのか、椿? もうそんな男の事は忘れて、俺と共にこの世の破滅を観賞しようぜ」
明斎はそう言いながらも、どこかで椿を恐れている顔をしていた。彼は今まで只の一度も椿と
『貴方なんかに馴れ馴れしく名前で呼ばれるいわれはないわ』
椿はキッとして言い返した。明斎は椿のきつい一言にビクッとし、先ほどまでの勢いを喪失してしまった。
『貴方はもうすでにこの世の者ではないのよ。いえ、黄泉の国の者でもないわ。消えなさい、明斎!』
椿はそう叫ぶと、その身体から光の気を発し、明斎にぶつけた。
「ぐわああ!」
明斎の霊体はその衝撃で吹き飛ばされ、妖気を消失した。
『同じ小野一門にいて、同じように過ちを犯して命を落とした私の、せめてもの情けよ、明斎。自ら悔い改め、消えなさい。そうすれば、魂魄は消滅せずにすむわ』
椿は先ほどとは打って変わって優しい眼差しで明斎を見た。
「椿……」
明斎は妖気を消失したせいなのか、椿の慈愛に触れたせいなのか、険しい表情が和らいでいた。
『さあ、明斎』
椿が更に促すと、
「ありがとう、椿。すまなかった、雅」
明斎は頭を下げるとスーッと消えてしまった。
「残留思念だったのか、あれは……?」
苦しそうに雅が呟くと、椿は雅を見て、
『そうよ。明斎の感情だけがこの辺りに漂っていたの。それを導いたの』
雅は剣を杖代わりにして立ち上がると、
「何故俺を助けてくれた? 俺はお前を殺したも同然なんだぞ」
『まだそんな事を言うの、雅? それは違うと言ったでしょ?』
椿は微笑んで雅の右肩に手を添える。すると骨まで溶かしていた黄泉戸喫が嘘のように消えてしまった。続いて椿は雅の頬を愛おしそうに撫でる。今度は口の中まで溶かし始めていた黄泉戸喫が消滅した。雅の痛みはまるで幻だったかのように消えてなくなった。
『私は貴方を本当に愛していたの。だから、助けに来た。それに私の最後の罪滅ぼしなのよ』
椿は雅に顔を近づけて囁いた。雅は信じられないという顔で椿を見て、
「罪滅ぼし、だと?」
『ええ。私が死んでしまった事で、貴方はずっと苦しんでいた。だからそのお詫びの印』
椿はそう言うと、雅に口づけした。そして何故か涙を流し、
『でも遅かった。遅かったの』
「椿……」
雅は椿が何を言っているのかわかっていた。
「いや、遅くはなかった。間に合ったよ、椿。ありがとう」
今度は雅が椿に口づけした。実際には二人の唇が触れ合う事はないのだが、雅と椿はそれ以上に相手の気持ちを感じる事ができた。
『貴方に初めてお礼を言われた……』
椿が大粒の涙をポロポロと零した。
「ずっとお前の事が好きだった、椿。俺の方こそ遅かったな」
雅が言った。椿は涙を拭って、
『良かった。本当は嫌われていない事がわかって……』
二人は幼い頃に戻ったかのように微笑み合った。
一方、米子の鳥取分家の庭で小野一門の気を集めていた善斎と道斎は、円陣を形作った榊が気の力で大きく揺れ出したのを見た。
「頃合いのようだな」
善斎は道斎を見て言った。道斎は頷いて円陣を見ると、
「そのようですね」
二人は気を溜め込んだ円陣に近づいた。
「始めの女神は確実に黄泉比良坂に近づきつつある。何としても止めねばならん」
善斎は東の空を見つめて呟いた。
藍が勤務する杉野森学園の仮校舎も騒然としていた。生徒達は教室で携帯電話やスマートフォンに見入っており、教職員達もテレビの前に集まっている。
「理事長」
原田裕二事務長もいつもと違ってソワソワしながら理事長室を訪ねた。
「どうぞ」
中から安本浩一理事長の落ち着いた声が応じた。原田はドアをそっと開き、中に入る。安本も皆と同様にテレビを観ていた。
「小野先生が大変な事になっているようですね」
安本はソファに座ってテレビを観ていたが、原田が入って行くと振り向いた。原田は安本に近づきながら、
「はい。もう学園全体が大騒ぎですよ」
安本はテレビ画面に視線を戻して、
「小野先生の無事を祈りましょう」
と言った。
藍は迫り来る女神を見つめつつ、雅と椿が話をしているのを感じ取っており、そちらに意識が行ってしまうのを必死に堪えていた。
(今はそんな場合じゃないのに!)
自分が情けなくなる藍である。
『藍よ、今日の本の民の多くがお前を観ている。皆にお前の思いを伝えよ。さすれば、女神に纏わりつく禍津気を打ち祓う事ができよう』
篁が言った。藍は光と闇が混合した剣を正眼に構え、
「わかりました」
再び瞳を閉じ、今自分の戦いを観ている人達に対して呼びかけた。
『皆さん、今この国が滅ぼうとしています。この国を滅ぼそうとしているのは、皆さんがご覧になっている女神様ではありません。皆さんお一人お一人が持つ穢れです。その穢れを打ち祓い、女神様にお帰りくだるように祈ってください』
藍は全身全霊を以て日本中の人々に願った。
「藍」
剣志郎は誰よりも先に藍の祈りを聞いた。
「藍姉」
御幸にも聞こえた。
「藍ちゃん」
「藍さん」
裕貴にも遠野泉進にも、北畠大吾にも届いていた。
「小野藍、お前の願い、しかと受け取ったぞ」
「藍さん、頑張ってください」
岩手の辰野実人にも、辰野薫にも届いていた。
「藍先生」
「小野先生」
由加達にも藍の声は届いていた。
「小野先生」
もちろん、本多晴子にも。
理事長室の安本と原田だけでなく、杉野森学園にいる全員が藍の声を聞いた。
「小野先生?」
羽田空港にいたかつての同僚である武光麻弥にも藍の声は届いた。
いや、それだけではなかった。日本中の人々が藍の呼びかけを聞き、仕事をしている者は手を休め、車を運転している者は路肩に停めた。日本中が一つの祈りを発していたのだ。
「できる!」
藍は多くの人達の祈りを感じ、目を開いた。そして終わらせる事ができると確信し、覚悟もできた。
「女神様、今こそお帰りいただきます」
藍は女神に向かって飛翔した。それに篁が続く。
今こそ、姫巫女流古神道の歴史の終点がやって来ようとしていた。
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