第二十章 四

 火の神の出現に衝撃を受けたのはアンバーシュたちだけではなかった。かの神を知る古神たちは、呆然とし、あるいはくずおれ、呻き、嘆いた。

「魔に身を落とすほど、我らを恨んでいたか……」

 神の持つ荘厳な美しさを手放し、散っていったその身を影として寄り集めることを選んだその神は、すでに己の意識を手放し、生まれ損なった大神の無意識の手先となった。

 竜の吠声に躊躇い身を引く者が後を絶たない。

 だがその時、一筋の光が空を割る。

 白い光は紅色の尾を引いて、巨大な影へ向かっていく。

「エマ!」

 光明の神狼の娘たるフロゥディジェンマは、深紅の瞳を大きく見開き、影を射抜こうとするかのように竜へ向かう。少女の姿が反転し、獣形を取ると、流れる光は更に大きくなった。

 だが竜も動き出した。皮膜の翼で羽ばたく、その動きは思ってもみないほど素早い。例えば鷹が地上へ落ちる速度が、水平移動に発揮されるのだ。

 二つの輝きは縺れ合うようにしてめまぐるしく回転し、空を奔る。その波によって女神たちの結界が揺れ、容易くたわんで歪むのが光の明滅で分かる。

 少女神を追うべく手綱を振るったアンバーシュだったが、迫り来るものに気付いて右手を挙げていた。風と雷の盾が、闇の牙を防ぐ。

「お前の相手は私だろう、西神!」

 腕に巻き付いていた闇が、男の手の中で大刀に変化する。宗樹がそれを降ると、あちこちで闇の生き物たちが復活した。

 カレンミーアの眷属たちが、素早く剣を閃かせる。だが、その刃は素通りし、影は元の形を取り戻すだけだ。怯んだ剣士に魔眸は牙を剥いたが、素早く射手が矢を放ち、距離を取ることに成功する。そのようなことがあちこちで起き、とてもではないがフロゥディジェンマの援護どころではない。アンバーシュは強い雷撃を放ち、首を狙ったものを消し去った。霧や砂のようになって闇が散る。

「うっ」

 痛みを感じてよろめく。腕に張り付いたそれが服を焦がし皮膚を焼いたのだ。瘴気が発生し、頭が痺れたようにくらりとする。その隙に襲いかかってきたものがあったが、無意識に起こった力が弾き飛ばしている。

 だがそれは様子見にすぎなかった。宗樹は闇を身にまとい、泰然と笑っている。

 絡み付く闇を払いながら、アンバーシュは歯を噛み、敵を睨めつける。

(力を増している……!)

「ゆっくり嬲ってくれようぞ。あの女を愛しているとほざくのならば、同じ苦痛を与えてやらぬこともない。隣に並べてお前を串刺しにしたならば、あの女は涙を流して泣き叫んでくれるだろうか?」

 恍惚と宗樹は言う。

「さぞその苦痛は甘美であろう。あの女の悲鳴は愛らしいと思わぬか」

「……っ……は……!」

 間断なく襲いかかる魔の者たち。瘴気を吸い込み、力を失っていく身体。飛び散ったものは、神々だけでなく地上に降り注ぎ、木を枯らし、水を腐らせているようだった。

 土地の守護者たちの嘆く声が聞こえる。

 力を放つばかりで消耗が激しい。神気を取り込もうにも、あちこちで消費され、汚されている大気のせいで、思うように回復できない。それに、とアンバーシュは火傷を負った腕に視線を奔らせる。回復していない。激しい負傷は、すぐに治癒が働くはずなのに。

 それにこの肺を焼く瘴気。目眩がする。いちるを探すこともできない状況に、焦りばかりが増し、どんどん彼女から遠ざかっているような気がする。

 キッサニーナの言葉が頭の中を巡っている。


 産まれるはずだった。そうはならなかった。古い者が操作した。


 三番目の大神を呼ぶといういちる。もしそれが、大神よりも古い、創造の三柱神が意図したものならば、彼らの望みは、三者の大神を産み落とし、世界を最初に望んだ形にすることなのか。

 雲は分厚く、光が絶えて久しい。山並みが黒く塗りつぶされ、まるで漆黒の世界だ。

 もし世界をもう一度始めるのだとするならば、ここまで続いてきたものは何だったのだろう。

(だめだ、こんな……無力感を覚えるようなことを)

 鳴動した空は、狼の吠え声によるものだった。翼を開いた竜に光がまといつく。ぐうっと首をもたげた竜が刹那の沈黙の後に、紫の炎を吐いた。周囲を薙ぐようにして放たれた炎の息に、巻き込まれた者が落下していく。

 それは星が落ちるように、儚く、悲しい光景だった。

 地上の人々は、この光景を見て何を思っているのだろう。終末への絶望に膝を折り、泣いているのだろうか。無力であることを嘆くことしかできないのかもしれない。神々もまた、無力だ。同胞、かつ相反する存在である魔と戦い、傷つくこの争いに意味はあるのか。

 アンバーシュには意味がある。いちるを、取り戻すのだ。

[イチルを解放しろ]

「何故諦めない。すべてのものがこの時に繋がり、宿命づけられていたというのに」

[お前は虚しくはないか。自分の生も、魔に落ちたことも、自身で望んでいたようでそうでないと言われたならば]

 男の目がわずかに細められた。

[お前がイチルを欲したことすらも、お前の意思とは関係のないものだったなら]

「お前にもそう言えるのではないか。あの女は西神の力を得るためにお前に預けられたにすぎぬ」

 人も神も彼女に集められ、この時を迎え、運命を果たすために存在したのかもしれない。けれどそこにアンバーシュの思いはあり、いちるの思いも存在した。心が繋がったことは確かだ。

[そうかもしれない……だが、俺の思いは操作されたものであっても、彼女の思いは彼女自身のものだ]

 口にした言葉が、アンバーシュ自身の胸に光をともす。

 この瞬間を迎える必要があったのだとするならば、いちるは、誰かを愛する必要はないのだ。弄ばれ、利用され、ここに来るように仕向ければいい。三柱はそうすることも可能だったはず。

 それが起こらないのだとするならば、意志は、運命を選ぶことができる。


[俺は運命でイチルを愛したかもしれない。だが、イチルが俺を愛したのは、彼女自身の選択だ!]


 宗樹の顔がはっきりと歪んだ。

「世迷い言を……。驕るな、西神! あの女はお前の所有物ではない!」

 アンバーシュもまた顔を歪め、男を嘲笑った。

 この魔眸は染まりきっていない。男自身の意識が残っている。それはまだいちるを求め、アンバーシュを憎悪している。いちるが選んだのが、自分ではなくアンバーシュだったからだ。

 これは、嫉妬に駆られたただの男でしかない。アンバーシュは、初めて宗樹という男と対峙したように思った。

 力を集め、握りしめる。天に雷雲が生まれ、闇と混ざる。手の中で、黄金の輝きは大槍となった。アンバーシュは馬車を飛び降りると、眷属が形作る風の馬に乗って、槍を構えた。宗樹もまた、太刀の切っ先をゆっくりと定める。

[妻を返してもらいます]

「……出来るものならなぁっ!」






 速い。いつか逃したものとは比べ物にならないほど、速く、強い。怯みそうになる己を叱咤して、フロゥディジェンマは牙を剥く。牙は掠め、触れた身体がじゅっと音を立てて焦げた。ぎゃん、と鳴いてしまったのは反射だった。声を上げてしまったことを恥じながら、体勢を立て直す。

 なんて大きいんだろう。比べて、自分はどうしてちっぽけなのか。いつものように踏みつぶし、噛み砕くことができない。驕っていた自分が、ひどく醜いと思った。

(しゃんぐりら……!)

 城から引き離し、そこへ駆け込もうとしても、素早く回り込んだ竜がフロゥディジェンマを吹き飛ばす。体当たりされ、全身に火傷を負ってしまい、傷が修復するまで逃げ回るしかない。

[ドウシテ、邪魔スルノ!]

 獣の鳴声と、竜の吠声。ぶつかり合う、二つの力。闇そのものであり、魔を操る竜には、どうしても敵わないと分かってしまう。

 けれどそれでも。

「エマ! 深追いするなっ!」

 カレンミーアの怒鳴り声を振り払う。だって、諦めるわけにはいかない。いつかの時のように、そのいつかがいつか覚えていなくとも、もう、失いたくない。手を伸ばすことを諦めてはいけない。

 失わない。今度こそ。

[通シテ――!!]

 竜の目が笑ったように見えた。それらを見て取れたのは、フロゥディジェンマが神狼だったからだろう。次の瞬間、とっさに横に飛び退けたのも。自分が、口を開けた蛇と獣の混ざった異形に飲み込まれたことも。


 異形の口の中は、真の闇だった。


 誰かの呼び声が、遠ざかっていく。

 内は、まるで海だった。フロゥディジェンマは海が好きでない。あの場所は、広すぎて、深すぎて、果てが見えない。どこまで駆けても辿り着けないのは、以前に降りていったアガルタへの道のよう。ただその時は道筋がついていたけれど、海には何もない。何も見えない。深海は、光をも飲み込む神々の領域外なのだ。

 そこに似た場所に漂い、目を閉じる。暴れる気力は削がれていき、どこまでも深く、深く、落ちていく。獣にあるように胃袋でなく、異界へ、無限の中へと落下していく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る