第二十章 三

 横たわっている世界が、震えている。

 怒りと憎しみ、歓喜と絶望。

 それらの感情は同じ色で塗られていた。闇に浸った歓喜は暗い。根本にあるのは悪しき思いだ。何者をも貶め、嘆き悲しむ声が聞きたい。苦しみ、魔を求める心が欲しい。魔眸と呼ばれるものたちが蠢く原理。

 冷たくもあり温くもある波にさらされながら、いちるは抵抗する意識すらも手放していた。ここには何もない。自分に打ちかかる堕落の囁きを聞きながら曖昧に漂っているだけで、じわじわと浸食されていくのが感じられる。

(………だめ……)

 抗っても意味はない。いちるは大神の供物になるために生まれ、長らえたのだ。だったら、その時を緩やかに待つ方が、苦しまずに済む。

(目を…………て……)

 積み重ねてきたもの、己の信じていたものが、何もかも無駄だと断じられたとき、人は支えを失う。拠り所をなくし、思いが消え、抜け殻と化す。こうして生きていたのだと、誇りとしていたものが無意味だと知らされた瞬間、己の価値を見出せなくなる。新しく始めるには、いちるはもう歳を取りすぎていたし、何より世界が終わるのだ。いちるの生きていた、生かそうとした撫瑚が。

(諦めてはだめです、目を開けて!)

 誰だ。終焉を待つ安らぎを乱すのは。

 ふと、視界に片隅にぼんやりと光が見える。光と思ったものは人の像だった。それを認識した途端、声が聞こえた。ふぎゃあ……、と、一度響いた獣めいた声は、それきり絶えた。

 赤ん坊の声だ。




「――御子は……三柱の元へ、お帰りに……」

 複数の声が、嗚咽を殺しきれず、わっと泣き始めた。寝台に横たわる女に悲しみが注ぐが、疲弊している彼女にはどの感覚も遠かった。出産の苦しみも、生まれた子の泣き声が聞こえた喜びも、その小さな命を失った悲しみも。

 付き添っていた女たちは、一人減り、二人減りして、彼女だけが残される。そうして、影のようにして側に立つ男を、彼女は見上げた。男は、白銀の光を零すような優しい微笑みを向けた。

「君が無事で何よりだ」

 銀夜王オルギュットは、そう言って女を慰めた。

 彼女の濃い色の肌に涙が滑り落ちる。眉だけをひそめ、頬を伝う涙は、静かで美しい。

 生まれてきた我が子を、きっとオルギュットは見たのだろう。そうして、彼は憐れんでいるのだ。

 女の涙に、彼は不審を抱いた。

「何故泣いているの」

「……あなたに差し上げられる唯一のものを、失いました。私は、あなたの望みを叶えてさしあげられなかった……」

「私は君に望んだことはないよ。夫婦という関係上、子が生まれるのは当然のことだが、君にも、今までの王妃にも、それを強いた覚えはない」

 女は首を振った。黒い髪が濡れた頬に張り付く。瞬きをした睫毛が銀に濡れた。

「子どもがいたなら、私がいなくなったとしても、その子があなたのお側にいたでしょう。あなたの血を持つ子は、きっと私よりも長く生き、あなたの心を慰めました」

 女はオルギュットを愛していた。だが、歴代の王妃たちとは異なり、愛を望むのではなく、愛を捧げたいという欲求を抱いていた。彼の長い生の中、つかの間の光点となってその後の彼の一部となること。ただそれだけを望んでいた。救い主であった男に出来ることはそれだけだと、女は固く信じていた。

「あなたを一人にしたくないのです」

 もし私に永遠に近い命があったのなら。微笑の裏に憐れみと侮蔑を浮かべている彼を、何のためらいもなく抱きしめられただろうに。子どもに託すなどと弱いことを考えることはなかっただろうに…………。




 そうして光景は見えなくなり、いちるは傍らに立つ何者かの気配を感じた。

(……レグランス・ティセル?)

「目をお開けください、千年姫様。諦めてはなりません。空では皆様が、魔の者たちの野望を打ち砕くべく戦っております。アンバーシュ様も、あなたを取り戻すためにおいでです」

 励まされ、促されたが、もう、意味がないのだ。

 己が意思も利用され、最後に命すらも奪われるのならば、何もかもが無意味だ。

「お願いです。アンバーシュ様だけではない、オルギュット様のお気持ちも、どうか無駄になさらないで」

(あの記憶を見せたのはお前か)

 オルギュットが見舞った、寝台に横になった女。あれは、髪の長さや姿は多少違えども、そこに立つレグランスだった。まだ、魔に身を染める前。歳若く、王妃の一人であった頃。

 そこで気付いた。宗樹に連れ去られ、囚われた自分の元に、遠く離れたイバーマにいるはずのレグランスがいるのならば。そして、いちるの推測通りに感じ取ったのは、レグランスの首元からあの銀の首飾りが失われていることだった。

[手放したのか。オルギュットに命じられて]

「いいえ。あなたを助けることは私の意志です。何故なら、アンバーシュ様は、オルギュット様が抱えているものと同じものをお持ちだからです」




 暗闇の中に、再び淡い光が現れ、その中に光景が浮かぶ。




「死の国の番人の御方、もしも私に報いてくださるのなら、どうぞ願いを叶えてください」

 寝台の横になっているのは同じ。しかしレグランスは、髪を長く垂らし、少女めいた雰囲気を拭って、悲しみよりも穏やかな喜びと安らぎに満たされている。これは、今に最も近い時間の彼女だ。

 満ち足りて凪いだ声が、助けて差し上げたいのでしょう、と囁いた。

「あなたは本当は優しい方。弟君は、昔のあなたにそっくりです。だからあなたは、ご自分と同じ道を歩ませたくないと思っていらっしゃる」

「イチルを貶めてもらいたくないだけだ」

 対するオルギュットは思いがけず童子のような口ぶりだった。不機嫌が透けて見える。

「同じことです。あなたは悔いておられる。形を歪めてまで誰かを側に置くことは、ご自身にも私のためにもならなかったと」

 アンバーシュの行く末。

 いちるは想像してみた。もし、オルギュットとレグランスと同じ関係になったのだとしたら。自分は恐らく、道具として使われることを厭わないだろう。そうして、アンバーシュは悔いるのだ。こんなことのために、生き長らえさせたわけではないと。

「道を指し示してさしあげてください。そうして、あなたの時間も動き出す。あなたは、アンバーシュ様から教わるものがあるはずです」

「君は予言者か」

 皮肉ったオルギュットは、寝台に膝をついた。しばし見つめ合った後、レグランスの胸に頭を置いた。魔に落ちゆく女は、門番たる銀の神の悲しみを細腕に抱く。

「どうしても逝ってしまうのか。私のしてきたことを無駄にするのか」

「無駄にはなりません。すべては積み重ねなのです。何もかもが失われるわけではありません」

「本当に、君は予言者のようだよ」

 女は、清らかに微笑んだ。

「死に近付く者は、生者よりも多くのことを知るのです」




「思い出してください。諦めることがあなたの生でしたか。時と運命を受け入れ、流れ行くものを見送るだけでしたか。それで、あなたは満足していらしたのか。あなたの望みは、いったい何だったのでしょう」

 もう時間がない。言ったレグランスの苦しい声が、急速に遠ざかっていく。

 同胞、そして異質である彼女を狙い、闇が集う。群がるものを追い払うことはしなかったが、レグランスは残りわずかな時間をいちるに呼びかけることに費やしている。ずっと側にいた男のために使えばよかろうものを、それはいちるを苛立たせ、もどかしいと思わせる。

[何故ここまでする。お前が望んでも、妾はもう……]

「死に近付く者は、他の者よりも多くのことを知るのです。千年姫様。すべては、三柱の創世を由縁としていたかもしれない。あなたは、大神の望みのために生かされていたかもしれない。けれど、あなたはそれを受け入れるだけでしたか?」

[レグランス……]

 呼び声は彼女を掠め、それだけで夜の国の女は嬉しそうに笑っていた。それこそが望みだと、満足そうに。

[わたしはもうお前に何もしてやれない! わたしは無力だ……わたしは、何の力もない。わたしは]

 汚れと澱みがあってこそ、この世。在るものから目を背けたくはありません。

 痛みを感ずることが妾の生であり、それを慰撫されることがわたしの望む愛だ。

 ――誰の言葉だったろう。意識の奥底で誰かが叫んでいる。本当は、傷を負うことを厭い、苦しみを避け、安穏を欲して救いを求めていた。伸ばした手を取られないと諦めていたあの女は。

 今のわたしと、同じ。

 自身への嫌悪と憎悪がぞっと逆立った瞬間、途端、身を挺して現れた女の、満ち足りた笑顔が、はっきりと見えた。

「もし、悲しんでくださるならば、あなたは、報いてくださればいい」

 何もかもを投げ打った女だ。

 自分は決してこうはなれない。アンバーシュだけだと決めたいちるには、男の、自分以外に抱えているものに向けて、己が身を捧げる強さはない。守りたいと望むもの一つを選ぶことで、この手は握りしめることしかできなかった。

「約束する! わたしに出来ることで、必ずこの恩に報いる!」

 柔らかな微笑みは、闇に呑まれていく。

 最後に一声、いちるを呼んで。

「さあ……目を開けてください!」



 宿った。力を失った身体、絶望に染められていた器に、撫瑚の妖女、千年姫、そしてヴェルタファレン王妃と呼ばれた、いちるの意識が。

 引きずられている我が身を正確に認める。あれほど満ちていた闇は薄れ、髪はぞろぞろと後ろに、衣装は汚れていた。何故なら腕を取られて、足を引きずる形でこの身を攫う者があるからだ。

「おのれ……おのれ、撫瑚は我が国ぞ。この国にあるもの、すべてが我がもの。だというのにあの男、やはり魔性であったか」

 おのれ、おのれと繰り返す、生臭い吐息。だが、生者の息吹だ。

 汚れた足に痣や傷が出来ている。どうやらしたたかにぶつけたらしい。だがおかげであの暗闇から逃れることができたようだった。

 息を吸い込むと、少し汚れているが神気が感じ取れ、無数の感覚がいちるに繋がる。どどん、と揺れる城の床。回廊の向こうはしかし、静かだ。喧噪が遠い。

 外が明滅している。

「この女がいれば、国を建て直すことも可能なはず……」

「思い上がるな、鉦貞」

 不意に声に男は悲鳴を上げた。投げ出されたいちるは、起き上がる力を発揮できず、這い上がるようにして半身を起こす。乱れた髪、青ざめた顔、汚れた晴れ着をまとういちるに、腰抜けの城主は文字通り足腰立たなくなった。

「初めて役に立ったな。妾を連れ出したこと、感謝しよう。だが、そこまでじゃ。命惜しくばこのまま去ね」

 しかし、威丈高に見下ろしていた妖女が這っていることに気付いたらしい鉦貞は、顔を歪めるといちるの肩を押さえつけた。がくりと折れた身体を、更に頭から押さえつけて、引きつった笑い声を立てる。

「立つ力もないくせに、その口ぶり。救いを請うたらどうだ。私は、お前を置いていくこともできるのだぞ!」

「ではそのようにするがいい。お前ごときに使われる妾ではない!」

 足下で、ごぷり、と奇妙な音がした。

 胃の腑が鳴るような空気と水のうごめき。地表が細かく震えている。まるでここが何者かの体内に変じた気がして、ぞっと背筋が総毛立った、その時だった。

 切り裂くような悲鳴が上がっては次々と途切れた、そう思った瞬間、いちるたちは、波となって押し寄せた黒い泥に飲み込まれていた。

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