第二十章 二

 東の地、撫瑚の空に無数の光が集う。あるものは風をまとい、蛇のように波打つ雲を連れ、大鳥が、獣が、鱗を持つ生き物たちが同じ場所を巡っている。美しく凛と麗しい女神たちは、誰もが兜や甲冑を身にまとい、同じく戦装束で固めた男神たちに決して引けを取らぬ勇ましさだ。

 どこからか歌が聞こえる。光の雫が大地に降り、ゆっくりと鎖となって大地を囲み、やがて光の壁を出現させる。東の女神たちの編んだ結界は、撫瑚の国を覆い、そこに巣食うものを封じ込めた。

 中心である撫瑚の城では、城人たちが外に出て異様な空に青ざめ、これは何事かと問いかけ合っている。中には貴人に食ってかかるものもいて、徐々に混乱が広がっていく。彼らにとって、こうして神が現れるのは初めてではなかったが、今回は数が尋常ではなかった。そこかしこに松明をともしたように、おかしな雨雲めいた黒い雲の下に神がいる。それは、怒りを買ったと表現するのが妥当な状況だった。

 光点が近付く。

 それは、馬車を駆る金の髪の男神だった。手綱を引く彼の両隣には、武人たる東神、そして西の女神が付き添っている。

[――我が名はアンバーシュ。不当に攫われた我が妻イチルを返してもらうべく、ここに来た]

 複数の人間に支えられているのが撫瑚の城主、鉦貞。いちると初めて会ったとき、自ら出てくることもしなかった男だ。膝が笑うのか一人で立っていられず、神々が見下ろすのに目を背けることもできず震えている。

[ナデシコの国に巣食う魔の者たちよ。妻を返すならば話し合いに応じる。そうでないなら、殲滅も辞さない。そして、人々よ。魔に魅入られたのでないならば、即刻そこから離れよ。巻き込まれたくなくば]

 静寂が満ちた。

 誰かのわめき声が火蓋となった。次の瞬間、罪なき人々は一斉に走り出し、逃亡を始める。その混乱の中、アンバーシュは一人、泰然と立つ男を見つけた。

 地上にありながら、傲慢に笑い見下す男。

 その目は、禍々しい闇の色に輝く。

 視線を交わしたのは一瞬、直後には、二種の力がぶつかりあっていた。

 光と闇、相反する力が大音を鳴り響かせ、消える。それを合図として、地上に、中空に、城から伸びた無数の闇が形を産み落としていった。獣には獣、鳥には鳥を、そして人には人の形すら保てない兵士を。ごあああ、とうなり声を上げたそれに、カレンミーアが眉をひそめた。

「亡者どもにかりそめの形を与えて使役しているのか……醜悪な」

 阿多流が剣を掲げ、戦いの女神が叫ぶ。

「我らが守護地を守り、蔓延る魔を殲滅せよ!」

「行け、アンバーシュ!」

 呼びかけられた当人は、すでに戦いの中に身を投じていた。

 宗樹の放つ闇の蛇を撃ち落とし、口を開けるそれらに力を投げ込み、破裂させる。だが、わずかなかけらから再生するそれが素早く襲いかかり、じりじりとしか前に進めない。

 城の瓦屋根に弾けとんだ雷が当たり、地上には破片が降り注ぐ。だが、それすらも気に留められぬほど、城内は混乱し、続々と人が逃亡していくのだった。どこにいちるがいるのか分からない。

[イチル――]

 呼びかけてみるも、答えがない。この状況には覚えがあった。力の及ばないところに閉じ込められているのだ。その時、彼女は地下に、魔封じの石に固められた場所に囚われていた。そして今は、恐らく衰弱している。アマノミヤの神域から離れ、神気を呑んで呪いを中和する手段を失っているからだ。魔眸の闇の中では、呪いの進行は早いだろう。

[イチル!]

「他所見をするとは余裕だな、西神」

 雲のような黒いものに乗って、宗樹が空へ上ってくる。等しい高さになって、アンバーシュは初めてつくづくと男を見た。

 宗樹は黒一色だった。武人なのだろう短く刈った髪、厳めしい体つきと、血や犠牲に微笑みかける冷酷な瞳。こちらの衣装である袴姿に、太刀を履いている。柄に下がる紐だけが、血の色のような深紅でその存在を彩っていた。肩にかけた羽織が大きく羽ばたくと、その男は大きく見えた。羽織の内側には、底知れぬ黒が広がっている。

 アンバーシュは空色の戦装束に、金の帯を巻いている。そこに太刀はないが、常に雷の力が周囲を取り巻いて、近付こうとする魔眸どもを追い払っている。

[イチルを返せ]

「あれは最初から私たちのものだ。預ける必要があったからそうしたまでのこと。それを我が物と錯覚したお前が悪いのだ。あの女は柔かっただろう、西神? 肌は甘く、首筋は細く、胸に顔を埋めればほどよい温みがあっただろう」

 宗樹の顔の間近で闇が弾ける。

 鋭く放った雷の一矢は、アンバーシュの望むように男を貫くことはなかった。

 何も言わず睨んでいるのをいいことに闇の男は言う。

「唇を噛む歯は真珠のように白く、貝に似た爪は甘美な痛みをもたらしたはず」

 地表に現れる風はそこにあるものをなぎ倒す勢いだが、人に及ぶ前に女神たちの結界が防いでいる。人々は惑いながらも、もつれる足で城下へ、町から外へと逃れていく。

 あちこちで神々の光が魔を滅する。

 ぶつかりあう力が渦を生み、火花や臭気となって散る。

 神の大鳥、翼を持つ獣たち、空を駆ける生き物たちが闇を噛み砕き、打ち払う。力を集めた神々が、舞い飛ぶ影を一斉に消し去る。いつしか、黒かった空は赤錆色に変わっていた。

「何故ならそのように育てたからだ。見つけ出したばかりの頃、あれはただ心の擦り切れた隠者でしかなかった。あれはお前の心を捕らえただろう? 心の闇につけ込み、その痛みを引きずり出し、弱味につけ込むのがあれの能力だ。未来を読むのではない。より多くのものを知っているために、先のことが少し予測できるのだ」

 魔は確かに滅せられているはずなのに、際限なく現れ、牙を剥く。攻勢の神々は、次第に疲労の影を濃くまとい、当初の力を失いつつあった。

 闇が吠え、世界が振動する。

 哄笑を投げて、黒い雲を引く霧となって宗樹は逃げる。アンバーシュは馬車を駆った。戦い合う神の魔の間に割り込み、通りすがりに力を奪い、剣を折って、魔を操ることを楽しむ笑い声が黒色のものから響く。

 他者の叫びも嘆きも、男を楽しませるものでしかない。まるで座興だと小馬鹿にしている。そこにいるものが感情を持ち心を抱えていることも、自分が存在するということも、嘲笑うものであって、生に値しないのだ。

 アンバーシュは覚えている。いちるの魂のかけら、記憶の一部を取り込んだものが、何と叫んだか。

 ――痛い。止めて。お願い。助けて。

 彼女が彼女となった、それまでの出来事に、どれほどの苦痛が伴ったのか。傷つくことを厭わず、すぐに治ると顔を歪めて笑えるまで、彼女は叫んだのだ。痛い。止めて。お願い。

 その苦痛を、この男が与えた。笑い、踏みつけ、更に嘲った。

 怒りは鋭く。解き放たれ、天から闇を撃ち落とす。

 霧から転げ落ちた宗樹が姿を現す。顔に負った火傷を修復しながら歪めていたその目が、大きく見開かれる。

 アンバーシュの握りしめた拳に力が集う。青白く光る雷を握りつぶせば、眷属たる力は歓呼する。

 低く言った。


[そのまま死んでおけばよかったものを、魔に身を落として長らえ、俺の前に現れたことを後悔させてやる]


 触れたものを微塵とする雷の衝撃波に、脆弱なものは消滅し、多くのものがなぶられた。

 周囲を顧みず放ったものは、闇を消し去るはずだ。己の力の名残に髪を乱したアンバーシュは、微風の向こうに立っているものを見て目を見開いた。

「な……」

 塵芥に等しい黒い粒子が、みるみる男の姿を形作っていく。だが、それに留まらず地上にある城のように巨大化していく。欠けた身体を修復した宗樹が、静かな声で告げた。


「――三番目の大神が降臨する。我らの父であり母であるものが。それが生まれ来る地に、我らが集わぬはずがない」


 目前の敵を滅した神々が、あぜんと空を見上げる。

 空にあり、見上げられ、高みにあると言われた者たちが、今や見下ろされ、小さくか弱い存在となっていた。

「こんなものが出てくるとは……」

 阿多流が忌々しげに呟き、いつの間にか隣に来ていたカレンミーアも、苦々しく吐き捨てた。

「あたしたちは伝説でしか知らないけどね。三柱が去った原因、神々が殺した同胞、そして太古に神や神獣たちが争い、命を落とした戦いの……」


 三柱が生んだ最も強い神。アストラスとアマノミヤ。彼らに従う、守護者たるおのおのの神が次々と生まれたが、最後に孕んだその神があまりにも強大であったため、大地神は傷つき、眠ることとなった。

 三柱の喪失に嘆き悲しんだ神々は、この神を殺した。

 その死は同胞殺しと糾弾され、神々はそれぞれの主張のもとに戦った。多くの神が死に、神獣が死んだ。このために次世代の神に座と呼ばれる役割が継承され、古神と新しい神という層が生まれたのだ。

 アンバーシュもカレンミーアも、まだ若い神だ。しかしアマノミヤの次子である阿多流は、ゆえにそれがそのものなのかどうかを知っている。

 阿多流は言った。


「火の神、その影――」


 宗樹の背後で、巨大な黒翼が開く。

 男は悦ばしく囁いた。



「竜――と、呼ぶのだよ」

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