第二十章 聖蹟 せいせき

第二十章 一

 アルカディア。












 オルギュットは思い返していた。

 アストラスが東島のアマノミヤの元へ参じるという知らせに、多くの神が招集されたその日のことだった。



「行かれるのですか」と何もかもを悟った顔で女は笑った。

 ああ、とオルギュットは頷く。その額の髪をかき上げ、頬を包み込み、口づけを落とす。ゆっくりと温もりを伝える行為に、レグランスは甘やかな微笑みを浮かべ、眦に涙を溜めた。

 これが最期だと、分かっていた。

「……私は、君に何をしてやれただろうか。どう報いてやればよかったのだろう」

「お側に置いてくださったことが、何よりの褒美でございます。人として以上の命をいただきました。あなた様のお側に、歴代のどの王妃よりも長くいたことが、私の誉れです」

 冷たく、影に浸った手がオルギュットの頬をなぞる。常に適切な距離を置いてきた彼女が、初めて、オルギュットのことを恋う者として触れたのだった。

「千年姫様をお助けいたします。アンバーシュ様と共に、あなた様に多くのことを教えてくださった方です。だから、私の恩人でもあるのです」

「君に消えて欲しくない」

 オルギュットの囁きに首を振る。

「遠からず、別れがきます。何もできずに朽ちるより、最後までお役に立ちたいのです」

 ああ、でも、と息をこぼして笑う。

「オルギュット様のそのようなお言葉を、もう少し聞きとうございました」

 オルギュットは微笑み、その唇に口付けた。乾いていて、冷たい死の味がした。

 去ってしまうのだ、という恐れは、以前ほど強くはない。憎悪も、和らいでいる。それは恐らく、多くのものが変化するこの時を、いちるが招いたからだろうと思われた。

 世界は変わろうとしている。

 ゆえに、自分はここに止まってはいられない。彼女を留めてはいられないのだ。

「出発までまだ時間がある。もう少し、君の側にいる」

 嬉しいです、とレグランスの目から涙がこぼれ落ちた。



 もし世界が改まるというのなら、もう一度彼女に会えるだろうか。循環の力を取り戻したその場所で、記憶の断片を持つこの魂に、巡り会うことは叶うのか。

(見つけるのだ。探し続けることで、私はまだ、生きていられる……)

 生き方が、見つかった。

 そうすると、失うこともまた、意味のあることに思えた。



       *



[魔眸は神の力である程度滅することができる。ただ、形を得ている者は強力だ。傷を付けても修復する。戦をするように、斬り合っていても意味がない。神剣を持っている者は直接戦い、力を放てる者は遠距離から、他の者は援護にまわそう]

[幸い、風の神を始めとして機動力は高い。女神たちには結界を頼み、魔の者どもを逃がさぬよう滅することはできよう]

 戦いを司る西神のカレンミーア、東神の阿多流が口にして確認し合っている。どちらも小気味良さそうに笑みを浮かべていた。それぞれの陣営に分かれて戦っていた相手だ。相手の有能さはよく理解しているのだろう。

 大神たちはアマノミヤの宮殿から出てこない。関知しないという姿勢で、アンバーシュのすることは止められずにいる。踊らされているのでは、と想像するところもないわけではなかったが、足を止めることはいちるの命数を縮めることになる。

「アンバーシュ。無駄に力を発するな」

[清めになって助かってはいるが]

 カレンミーアが眉をひそめ、阿多流が微笑する。無意識に力を集めているために、全身が雷の力を帯び、放出を繰り返しているのだ。周辺にはちりちりと細かな破裂音が響き、焦げた匂いが漂っている。

「単独で行くなと、止めたのは誰です?」

「無謀だと自覚しているから留まっているんだろうが。もう少し待て。手勢は多くはないんだ。アマノミヤの神々の援軍を貰ってはいるが、魔眸が相手では、こちらとて無傷では済むまい」

 アンバーシュは廊下に出た。

「準備をしています。なるべく、早く」

 馬車を引く愛馬、カスタとポルーの二駒は、神の力を持つ生き物だが、戦いの気配、魔眸の気を感じ取って高ぶっていたようだったので、様子を見に行くことにする。

 東の宮殿はおおよそが板張りの平屋だ。今は紗久良と阿多流の許可を得て、あちこちに神々が滞在している。欄干にぶら下がる蝙蝠は誰かの眷属だし、手すりに腰掛けて足をぶらぶらさせている少年神たちの姿もある。アンバーシュの雷が悪気なく乱雑に走り、叩かれたように感じられて、彼らは驚いたように振り向いたり、飛び立ったりした。

 静寂に満ちていた宮殿は、そのようにしてあちこちに異質な気配がある。東の姫神は姿を見せぬことを信条として花媛殿に籠ってしまったようだ。麗しい女神たちの姿がないことを惜しんで、諦め悪く溜まっている西の男神たちは、アンバーシュが通り過ぎるのに片手を上げた。彼らも力を貸してくれるようだ。

 宮殿の外、入り口となるところは、広い石舞台となっている。ここなら馬たちを呼べるだろう。

 夜明けが近い空と雲は淡く煙っているが、払拭されない闇に覆われている箇所がある。そちらが撫瑚の方角だ。

 足音がする。石舞台に、銀の髪の男神が現れたところだった。

「行くのか」

「先走るなと、カレンに釘を刺されました。もう少し待てだそうです」

 あなたは、と尋ねると、オルギュットは微笑んだ。

「私は待機だ。魔眸が動き出したからには、私の領域に影響が出ないとも限らない。世界が変わるならば、あの場所は不要になるかもしれないね。そうなれば私はお役御免だが、さて……」

 冷たい雲のたなびく方角に目をやって、オルギュットは言葉を切る。アンバーシュも同じようにして、待った。待つ時間をくれてやってもいいと思ったのだ。どうやら、兄もまた、己の時の針を動かし始めたようだったからだ。

 吹き付ける風は水を濃く含み、月と星の光を得て、凍えるくらいだった。冴え冴えとした光は暖かみを失って鋭く、高みから見下ろされているという気分はこのようなものなのかと思わせる。自分が卑小で、愚かで、取るに足らない生き物で、定められた環の中を知らずに巡らされているような気がする。そこでは、生きたいと叫ぶことも、愛することも、自分の意志とは関係なく決定づけられたもののようだ。

 腕の中にあったものは、多くのすれ違いや痛みを経て、大きく豊かに思いを育てたというのに。

 もし、と同じ方向を見つめながらオルギュットが言った。


「もし、己の思うものが形を変えてしまったなら……失われてしまったならば、お前はどうする?」


 そうなることを恐れて、自分たちは伴侶を選んだのではなかったか。

 オルギュットは繰り返し別の者を、アンバーシュは失うことのない存在を、それぞれに。見出されるものが永久であるように。

 いちるに出会って自分は何を得たのだろう。思い出されるのは幸福感や、すれ違いがもたらすくすぐったいような疼痛、ああしておけばよかったという後悔。それらすべてを抱えた、充足感。

「……失ったと、しても。彼女から貰ったものは、何もかもかけがえのないものです」

 無駄なものなどひとつもない。あらゆる記憶が心に溶けている。

「想いや、記憶と思い出、空気、品々。全部が、彼女がいたことを教えてくれる」

 いちるを傷付けた己の過ちも、魔眸となったヴィヴィアンを失った傷も、彼女と超えたものだ。心は満ちたし、傷つき欠けたものはお互いの両手で塞ごうとした。時というものはそうして流れるものなのだ。『今』を失ったとしても、いつか。

 いつか、新しい誰かが。そんなもの、まったく、想像できないけれど。

「イチル以外を選べるのか」

「痛みを感じることが自分の生で、それを慰められる愛を望むと、イチルが言ったんです……そんな風にして、欠けたものを満たしていくのが愛なのかもしれません。誰もが、同じところに留まってはいられない。もし何もかもがさだめられているのが我々の生ならば、その中で俺は、自分の傷を癒してくれる人を自分の力で選びたい」

 今この時、最も愛するものを失ったとしても。

「もし、形が変わっても。彼女だけじゃなく、俺や、世界の形が異なっても。『彼女』に会うことができたならその時は、そこから新しく始めたい。愛して、みたい……」


 言うそばから思う。

 そんな未来など望みたくもない。

 イチル。あなただけ。人でも神でもアガルタでもない、何者でもないあなただけが、俺の求める存在であったたったひとりだ。


「っ……」

 顔を覆ったアンバーシュにちらと視線を投げ、オルギュットは黙っていた。微笑みもせず、ゆっくりと目を閉じ、何かを拾い上げようとしている。

「神とは、失い続けるものかもしれない。そのことに、今ようやく諦めがいった。別の生き物を己の理に取り込むことはできない。それが、時と運命の神々が授けた法なのだろう。人も神も、変わるべき時に失うようにできている。どうやら私は、長らく同じところに留まり続けていたらしい……」

 世界は変わるだろう、とオルギュットは言った。彼の見つめる先から夜明けが来る。だが、太陽は次第に広がっていく黒い光に取り込まれ、くすぶり、変色した。濁った光が地上に指し、穢れが広がっていくのが分かる。

 世界は、変わるだろう。けれど、そこに犠牲は必要なのかを、誰に、問えばいいのだろう。



       *



 すべてを飲み込むのにどのくらいかかったのか。時間を始めとした感覚がうつろな身では把握できぬ。熱くもなく冷たくもない場所で横たわっていることだけを自覚しながら、いちるは指先一つ動かすのも億劫で、夢とうつつを行き来しながら考えている。

 生まれ損なった三番目の大神。魔眸に変じたその魂。

 それが、今、器を求めて己を捕らえたのだと聞かされて、思ったのだ。ああ、これこそが答えだったのだ。何故このようにつくられたのか。すべては、始まりの神々の遊戯にすぎぬ。あれほど足掻き、無様に這いつくばり、この世の春を謳歌するように誰かを愛したことも、何もかも、戯れだったのだ。

 胎が熱い。ずくりと脈打つ痛みは、繋がれた鎖と同じ。地と、いちると、闇を吸って成長する呪いが、我が空を覆っている。

 頬に触れるものを感じ、瞼がぴくりと動いた。眉を寄せていると、息らしきものがかかる。実際は生者ではないので、空気が動いたと感じられるのみだ。息で、気配で、体温のない手でいちるをかすめるようにすると、くつりと笑うのだった。

「受け入れるとは。お前らしくもない。叫び、足掻き、泣いてわめいていた女だとは思えんな」

 それは過去のこと。受け入れることのできない者が、そのように暴れ、もがくのだ。今の自分は受容している。何故か、これらの流れが正しいものだという認識がある。腹部に穿たれた呪いと魔の力ゆえなのかもしれず、もしかすれば我が身に宿るのを待っているという三番目の大神の力のせいかもしれない。どちらにしろ、いちるは認めていた。アガルタが生んだ、東神アマノミヤの子である自分は、このように宿命づけられていたに違いない。

 今頃、世界は暗く、沈んでいることだろう。時と運命の神々が与えたものが、いちるだけでなく大地を覆い始めている。

 世界は変わる。神が、理が、あるべくしてあるものが、形を変えていく。改悪か、それとも改善か、まだ分からないけれど。

 いちるは目を開かず、感覚も働かせなかった。この空間では何もかもが遮断され、目前にあるもの以外見えぬも同然なのだ。

(好き好んで己を縛めて悦に入っている者の顔も見たいと思わぬしな……)

「だんまりか。口を開くと泣いてしまいそうだからか? ふん、愚かな感傷だ。西の神とやらにほだされたか」

 宗樹というこの男は、代々武人を輩出する家系に、妾腹の一子として生まれた。本妻にいびられいじめられた幼少期、腹違いの姉や妹たちに嘲笑われた生活から、女を軽蔑し愚かと見るようになった。そうして、女相手は特に顕著だが、人を物扱いする傾向があり、当時の城主であった貞晴に対しても、殊勝に頭を垂れながらいちるの前では嘲りを吐いた。それを読心させて、笑うような男だった。

 だが、その勇ましさ、肝の太さが当時の情勢では重用されるに至り、城主の使い、実質的には暗部を担うこととなって、卜師と組むこととなってますます闇の部分にのめり込んでいった。

 そうして、死んだ。死んで、こうして戻ってきた。

「何年経っても変わらんな、お前は」

 顔を歪めた様子で吐き捨て、手のひらはいちるの頬から胸へと滑る。温度のない手で触れられると、這っているような感触だけが残り、気色が悪い。

「わたしが恐ろしいか?」

 身体の線をなぞり上げる手のひらは、生温い感情を伴っている。

「久しぶりに聞かせてくれ。苦痛と憎悪を吐いて世界を呪い、その声でわたしを慰めろ。さあ、どうやって痛みを味わわせようか。切って裂くよりも……心に傷を与えた方が楽しかろう」

 言を弄するその唇が近付いたときだった。動かずにいた身体、ここぞという一瞬のために残していた余力を右腕に集中させ、いちるは男の顔に爪を立てた。うっと短い悲鳴の後、宗樹は離れ、修復される頬を押さえて酷薄に笑った。反転し、這うようにして身体を起こしたいちるは言い放った。

「恐ろしくない。お前もまた、神々の駒にすぎぬ」

「試してみるか」

 首を押さえられ、両手で締め上げられる。息を求めて喘ぎ、意識が遠のきかけた一瞬に放り出された。軽く痛めつけられた身体は、なかなか動かすことができない。その上から宗樹が覆いかぶさり、耳をなぞるようにして囁きかける。

「違う男の重みはどうだ? これだけはわたしも卜師も教えなんだことだが、お前の性では嬉しかろう。美しく生まれつき、人を魅惑し、その生命をもてあそぶ宿命を授けられたお前なのだから」

「死に損ないが」

 吐き捨てた口を塞がれる。

 押し返すことは叶わない。払いのけることも。食いちぎるために噛み付いた。その痛みを受けて、愉快そうに魔は笑った。

 その時、ずん、と闇が揺れる。闇の御方よ、と呼び声があり、いずこからともなく老爺が現れた。ディセンダと名乗ったあの占い師だった。

「始まりました。地上の者が慌てふためいております。城主が、御方はどこだとわめいております」

「思ったよりも早かったな」と宗樹は身を起こした。

「さすがはあの貞晴の血筋だとは思わんか。鉦貞というあの城主、先祖よりもずっと狭量で小心者のおおうつけだ。おかげで操りやすくはあるがな」

 いちるから離れ、宗樹は闇に溶ける。ディセンダも後を追い、消える間際、いちるに歓びの笑みを向けていった。あれはずっと知っていたのだ。宗樹がいちるを手中に収める瞬間、魔の神が生まれ落ちるその時を。

 動作も億劫だったが、右手は口を拭っていた。強くこすり、その感触を忘れようとした。感情ゆえに生暖かく湿った口づけは、吐き気を催すほど不快で、苦しいものだった。決して涙は流さなかったが口惜しさが募る。弱っていても何故押し返すことができなかったのか。もっと力があるなら、相手を痛めつけられるほど拒絶できただろうに。

 感触が消えてくれない。気色悪い。

 唇を拭い、噛み、きつく目をとじ、別のものを思おうとする。

(アンバーシュ……)

 いちるの秘密は明かされただろうか。伊座矢はともかく、満津野姫が責められていなければいい。アマノミヤを始めとして、アガルタの秘密を抱えた神々は多くのものを蔑ろにしてきた。満津野姫はそれを恨んで当然であろうし、利用されて哀れでもある。そして、己の心情を貫きいちるを排除した伊座矢は、その最後まで責任を負うべきだ。

 ただ、アンバーシュだけは。彼だけは、得たものを不当に奪われている。

 鳴動する闇が、果たして救いの訪れか、終焉への行進かは分からない。それでも、暗闇に浸って思うのは。


(時止まる者に縛られてはならない。流れる時を愛でよ。いとおしみ、放て。お前はきっと、それらに喜びを与えることができる)


 その手が別のものに伸べられたとしても、決して恨むまい。神とはそうであってほしい。流れるものを乱すのではなく、翻弄されるものをすくいあげ、あるべくところに還すものであれ。


「わたしを、わすれろ……」


 それでも、アンバーシュは「絶対に忘れない」と言い張るだろうか。

 唇の端に刻まれた笑みは、痛みに飲み込まれ、いちるは身を小さくするようにして眠りについた。その優しい片鱗を追いかけていけば、夢の中でくらいは、寒さも息苦しさも和らぐかもしれない。

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