第二十章 五

(ゴメン……ネ……しゃんぐりら……)

 助けられなかった。助けたかった。守ると言ったのに、自分は小さくて未熟な存在だった。成長できず、子どもの姿のままで、何も知らなかった。それを笑わず、側にいて、頭を撫でてくれたのが、アンバーシュといちるだったのに。

 いちる。初めて会ったとき、胸がざわついて仕方なかった。自分でも知らないところを暴かれた気がして、不愉快だった。けれど、声を聞いて、名前を聞いて、呼ばれたとき、すとんと胸に落ちたのだ。

 必ず会えると思っていた、あなた。

(会イタイヨ……。助ケタイノニ)

 力が欲しい。もっと強い力。アンバーシュの雷よりも強く。カレンミーアの剣よりも阿多流の太刀よりも。どんな男神、女神よりも、誰よりも強い存在になりたい。


「それは、あなたが魔を滅し、神々をもひれ伏せさせる存在になりたいということ?」


 耳の側で声が聞こえた。

 気付かなかった。誰かが立っている。けれど、その周りが揺らいで誰なのか分からない。

「大神を凌げば、彼女を取り戻すことができるかもしれないね。そしてあなたはきっと、彼女を守るということを名目に、多くの神を殺したり、人を罰したりする存在になる」

「ソンナノジャナイ」

 女らしき相手は首を傾げたようだった。

「だったら、何のために強くなりたいの?」

「――モウ、失イタクナイ」

 手を伸ばす。なんて小さな手。子どもの手だ。いつもこの手はいちるやアンバーシュに包まれて、どう頑張っても彼女たちを包むことはできなかった。本当なら、自分はもっと、年月にふさわしい姿をして、大事なものを守ることができるはずだったのに。

 だから。


「取リ戻スダケ。エマ、ノ、失ッタモノ。本来、アルベキダッタモノ」


 大きくなりたい。子どもでいたくない。

 取り戻したい。いちるを。自分自身を。


「エマノ座ハ、光明。光ノ女神。アルベキ姿デ、魔眸ト戦ウ。ソレガ、真実ノ形。ソウスレバ――絶対ニ、負ケナイ!」


 女は軽やかに笑った。そして、そのままの声で語った。


「――いつか、あなたは望んだ。手を離してしまったもの、助けられたなかったものを救うために、力を求め、女神の胎内に宿った。そうして生まれれば復讐を果たせるから。大神を、殺すことができるから」

 つかの間、女は苦笑した。

「でも、記憶を封じられ、力も封じられてしまった。三柱の思惑は、私の望みの邪魔をした。けれど……それでよかったのかもしれない」

 フロゥディジェンマは手を伸ばす。女もまた、手を伸べた。

 触れ合った瞬間、目の前を無数のものに覆われる。

 赤い、赤い花びら。

「『あなた』を取り戻しなさい。だからあなたも手を貸して。『私(あなた)』の大事なあの子を守るために――!」






 斬って捨てた闇が瘴気を発すると知って、珠洲流は己の水の力を発生させ、大気を浄化させていた。ひりつく肺や喉を癒すため、神気を含んだ蒸気を満たしているが、それも虚しく感じられるほど、魔眸の出現は際限がない。ともすれば、滅すれば滅するほど、敵は力を増していくように思える。

 珠洲流の頭上を、銀の光が舞う。

「エマ殿……!」

 竜が激しく首を振り、その勢いで火球を吐き出す。凄まじい風が起こりそれを押し返そうとする風神がいたが、炎は強く、地上に落ちて大地を燃やした。地上から立ち上ってくる煙が神々の視界を消し、荒れる雲と瘴気に混じって見えるものが不明瞭になる。その途端、カレンミーア女神の「深追いするなっ!」と警告の叫びが響いた。

 煙が晴れる。同時に、光が闇にごぷりと飲み込まれたのを見た。

「エマ――!」

 叫び声が余韻を引き、激しく勇猛に戦っていた光が消えると、空は一瞬、静寂に包まれた。

 目の当たりにしたものが信じられず、珠洲流は呆然とした。あの小さく、それゆえに眩かった少女神が消えたことが、信じられなかった。

 力のかたまりだったフロゥディジェンマ。花開く前の、瞬間を蓄えたままの少女。無垢で、真実を見つめる純粋さを持ったままの、女神。それが、恨みと憎しみを募らせた影に、こんなにも呆気なく消し去られてしまうものなのか。

 竜が咥内に火をたぎらせ、憎悪に瞳を燃やす。火の神の悲劇を、珠洲流は知らない。古い神と獣たちが多数消えたその戦いからは、多くのものと同様に隔てられていた。だが、自分は知るべきだったのだ。この燃える闇の炎に、なす術もないと感じる前に。


「見ろ、神々よ! これが、時と運命の意志だ!」


 宗樹の呼び声に応え、天守閣を止まり木とし、竜は翼を広げ、大きく吠えた。その足下で崩れたものが落下し、厳めしかった城を無惨に変えていく。豊かな枝振りの松は折れ、池は潰れ、人の気配のなくなっていくそこは、栄華の終焉の姿だった。

「何故大神は出てこない……!」

「あの方々はいつもそう。私たちの足掻く様を高いところからごらんになるだけ」

「……だが、何もしなかったのは我々とて、同じ」

 珠洲流の言葉に、近くにいた神々はこちらを見た。

 東神は、ずっと立ち向かうべきだった。珠洲流たちは、アンバーシュに手を貸すために集ったものの、その力の使い方、強大さ、己に何が出来るかを詳細に知らぬままだった。ゆえに、守護者を自認するならば、自己と向かい合わねばならなかったのだ。それはすなわち、己と、守護地、世界そのものを知ることだ。

 変えたい。自分たちを。神々を。世界の在り方を、ずっとよりよい形に。留まっているべきではない。西の神が東の娘と婚姻し、その娘は東神の血を引いて、楽園の女の血を引いていた。世界は変わっている。確実に。


「我々は……誤っていたのかもしれない。だが、その汚点を拭う機会が与えられないというのは――三柱よ、あんまりではないか……!」


 誰かを詰ったわけではなかった。届くはずはないと知っていたゆえに。

 しかし、鈴音のように響いたそれは、それまでの静寂とは打って変わって、清らかな凛然をもたらした。


 唸りとうねりでその場を支配していた闇の男は、雰囲気が変わりつつあることを敏感に察した。

「……なんだ、この空気は……」

 竜もまた沈黙していた。身じろぎするように足を挙げ、喉奥から低い声を発した。不愉快なものを感じ取っている。それが、急に大きく目を見開いた。

 顎が天を仰ぎ、身をよじらせる。蹴られた屋根瓦がばりばりと地上に落ちた。

 羽ばたこうとしてしくじり、落ちかけ、ふらついた飛行を始める。鈍重な動きに神々は道を譲り、構えた。苦悶しているように見える竜に、誰も何が起こったのか分からない。

 竜は、大きく雄叫びをあげた。

 その身体から、光が走る。

 内側から放たれた光は、二つ、三つ、四方八方にと伸び、火の神の影を焼いていく。

 しかし、竜の声は澄んで、まるで清められていくかのような心地よい響きを帯びていた。立ちこめていた瘴気を吹き払っていく風が、そこから生まれてくる。

 最後の声と共に、竜が消え、光が姿を現した。

 闇を砕き、その砕いたかけらをすべて受け止めていくのは、白くたおやかな腕。白い輝きの中から踏み出された足は、しなやかだ。裸足の足の爪の色づきが切り出したばかりの鉱石のように瑞々しい。一歩、二歩続けて、現れたその人は、己の背丈よりも長い銀の髪をし、その先は、瞳と同じ真紅に染まっている。

 眩さそのものの銀の衣をまとい、現れたのは、二十歳前後の美しい女だった。

 銀の睫毛を震わせた、ぽかん、とした無垢な表情は、どこか悲しげにも見える。足下に広がる、闇に包まれたその土地を憂いているようだ。ゆるりと視線を巡らせて感じる、空の色も風の匂いも、彼女が望んだものではないのだろう。しかし、それを否定するのではなく、受け止めようとする優しさ、悲哀があった。

 その慈愛の手は惜しみなく伸べられる。

 ひとつ、ふたつ。影は束縛から放たれ、消えていく。安らぎに包まれ、この後もそれを約束されて。

 初めて女神の名を呼んだのは、珠洲流だった。


「フロゥディジェンマ……」


 ぱっと、女神の真紅の瞳が向けられる。

 それは、薔薇の蕾のように十重二十重に綻んだ。

 と、息を呑む珠洲流の前で瞳が閉じる。悲鳴が上がった。フロゥディジェンマが逆さまに落下していくのだ。珠洲流は馬を駆り、先んじて駆けつけようとした神々を押しのけて、彼女を抱きとめた。

 重みがあるはずだったのに、衝撃は子どものものになっていた。あの女神はどこに行ったのか、そこにいるのは、いつもと変わらない少女神だった。

[エマ殿]

「珠洲流。その女神を連れて、ここを離れろ」

「兄上」

 阿多流は珠洲流を見、空を仰いだ。

「彼女は力を使いすぎた。ここにいれば狙われよう。我らの中で、最も強く、最も魔に対抗しうる神だ」

 そこで初めて、珠洲流は、フロゥディジェンマが、魔の火神を滅したことを理解した。

 ぐったりとしたフロゥディジェンマを抱き上げ、手綱を取った。他者に触れられれば敏感に反応するであろう女神が、何の反応もせずに抱かれたままでいる。あの美しい女神は本来の姿であり、その力を強く使ったために夢うつつでいるのだろう。

 途端、足下から這い上がってくるような感覚に珠洲流は背後を振り返った。

 撫瑚城が噴水と化した瞬間を見た。地表から吹き上がった闇の泥が、そこを中心に一気に吹き出たのだ。空に散り、地表を流れる汚泥。守護されていたはずの大地が、ゆっくりと黒い海に変わっていく。神域で紗久良たちが作る結界が、きりきりと軋む音が響き始めた。

「ウ……」

 フロゥディジェンマが苦しげに呻く。彼女を強く抱きしめた。

(ともかく、離れなければ。この光が汚されてしまう前に……)

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