第十二章 十

 何日も別邸にいることは出来ないので、朝食を摂った後はすぐに自宅へ戻った。アンザが台所を動かすのに合わせて起床するミザントリが王都に戻った頃、ほとんどの貴族がまだ眠りの中だった。自宅で人目を気にした派手な普段着に身を包み、楽器や歌の練習をして、軽くお茶をした後、城に向かう。いちるとの約束のためだ。

 馬車に揺られて郭門を上がっていく。正午も過ぎればすっかり城は動き出して、上の郭も賑やかだ。どれほど早いのか分からないが、ミザントリとヘンディの婚約が有り得るかもしれないという程度の噂は広まっているかもしれない。あの時人目がないように感じたとは言え、誰が見ているのか分からないのがこの場所だ。

 馬車を降りて東翼へ向かっていると「ミィ様!」と声がした。そんな愛玩動物を呼ぶような名称を用いる娘たちは限られている。いつも三人組で行動している娘たちだ。

「ごきげんよう、皆様」

「ミィ様、聞きましたわ。なんて素晴らしいんでしょう! ミィ様となら、きっとお似合いですわ」

「まあまあまず最初に言うことがあるでしょう?」

「おめでとうございます、ミィ様!」

 ミザントリは苦笑した。「いったい、何のお話ですか?」とやんわり否定を交えて尋ねる。娘たちは興奮した様子で喋り出した。

「もったいぶらないでくださいな!」

「そうですわ、こんなにおめでたいのに。ヘンディ・エッドカール様と結婚が決まったんでしょう?」

「気が早くていらっしゃるわ。まだお話したとも言えないのに」

 やっぱりそれか。噂に尾ひれがつくのはさだめとも言えるけれど、思い込みで吹聴されてはかなわない。「だって」と彼女たちは何が悪いのかという顔をした。

「ミザントリ様のおいとこ君、マシュート・ハブン子爵が、ミィ様とヘンディ様の結婚が決まったって仰っていましたもの!」

 殴られたような衝撃を受けた。

 口を開け、何か言おうとしたが、血の気が失せてくらくらした。立っているかどうかも分からなくなりつつあり、掠れた声で「マシュート?」と繰り返すことだけが出来た。対する彼女たちの答えの声が、ひどい耳鳴りとなって頭を打つ。

「ヘンディ様はいい男だと、それはもう褒めちぎっておられました」

「悔しいけれど譲ってやるんだ、いとこ同士の結婚はよくないと神殿が言うから、とか」

「本当は決闘するつもりだったけれど、ミィ様が泣いて止めたと……」

(な……――!?)

 今にも怒号が迸りそうだったが、血管が切れて倒れることも、憤怒の表情で彼女たちを蹴散らすこともしなかった。ただただにっこりと笑って「マシュートはどこに?」と尋ねた。声のかすかな震えに彼女たちは気付かない。

「わたくしたちがお見かけしたのは、東のお庭でした」

「どうもありがとう。もしかして、皆様以外の方々もこのでたらめをご存知なのかしら?」

「子爵様は、親しい方にはお話していた様子でしたわ」

 ここだけの話ですが、あるいは親しいあなただけにお話するのですが、と言い置きしてから言いふらしているのだ。あの馬鹿を叩きのめさなければならない日が来てしまったようだった。三人に丁寧に礼をして、その場所へ向かう。

 するすると滑るように歩くのが貴婦人の嗜みで、ミザントリはその名手だと自負している。誰かに行き会えば、名前を呼び合って礼をし合う。裾を摘んで膝をかがめて、にっこり微笑み合ってすれ違うのだ。立ち話をすることはなかったが、物見高い視線を感じていた。彼らにとって、噂の真偽はどうでもいい。その話題が大きくややこしくて、事件的なほど喜ばしいのだ。

 東翼の庭園をいくつか回ったが、マシュートは見つけられなかった。愚かな振る舞いで事件ばかり引き寄せるくせに、うまいところで逃げおおせてしまうのがあの幼馴染みだった。歯ぎしりする思いでいると「イレスティン侯爵令嬢」と呼び止められ、振り向いた瞬間、姿勢を正していた。会釈以上の礼をする。

「シストラ公爵夫人」

「ごきげんよう、ミザントリ嬢。血相を変えてどうしたのかと思いましたよ。あなたらしくありませんね」

 汗が吹き出そうだった。目が回る。脇目も振らず歩いてきた疲労が今になってのしかかってきていた。そんな時にこの人に目を付けられてしまったのは災難と言えた。よりによって、公爵夫人だ。

「まあ、ハブン子爵はいつも通りのようでしたけれど。わたくしは本人から聞かなければ信じないようにしているのだけど、ねえ、ミザントリ嬢。今、あなたがなんと言われているかご存知?」

 答えることができない。肯定も否定も、この人の満足いくものにはならないからだ。

「従弟が失礼を申し上げたようで、申し訳ありません」

「いつものことよ。わたくしくらいの者が注意せねば口も噤めない。お父様のご苦労が忍ばれるわ。エッドカール伯のヘンディ殿も、面倒な親戚が出来て大変ね」

 否定が挟めない。

 ミザントリとヘンディの結婚が、すでに決まったものとして流布している。自分では、とても拭うことができない。

 決めるべきなのかと、唾を飲み下した。いつまでも選ばなければならないもの、選んでいいか分からないものを前に立ち往生している場合ではないのだ、きっと。

「求婚は受けたの?」

 シストラ公爵夫人が、冷水のような声で審議を始める。

「断ったりはしないでしょう? あなたは賢い方だもの」

「わ、たくしは……」

 賢い女はさだめに逆らったりしない。望むことを諦め、役割を受け入れ、作られた流れに乗って、世間から逸脱したりはしない。

「今からです、シストラ公爵夫人」

 はっと息を呑んだ。張りつめていた空気が霧散し、別の緊張に変わる。赤毛の騎士、ヘンディ・エッドカールは、二人に向かって魅力的に微笑むと、ミザントリに向き直った。

 彼が跪いた時、ミザントリは頼み込む寸前だった。

 お願いだから、跪かないで。何も言わないで。これ以上わたくしの心を掻き乱さないで。

「ミザントリ・イレスティン嬢――」

 片膝をついて、立っているミザントリの手を両手に捧げ持ち、真っ直ぐに見上げて。

「僕と、結婚していただけますか」

 どこかで悲鳴じみた歓声が聞こえた。

(ああ、これで、断ることができなくなったわ……)

 ヘンディの行いは完璧だった。根も葉もない噂が立ったことを知って、彼はミザントリの立場を懸念したのだろう。彼もまた被害を受けたはずだ。求婚して断られたなどと見知らぬ人々に知られれば笑い者にされる。ただ、真実はそうではないので、彼は整合性をつけるためにやってきた。そうしたらミザントリが立場を知っているのかと公爵夫人から詰問されている。そこへヘンディが人々に見せつけるようにして求婚した。これで受けなければ、役と舞台が成り立たない。

 逃げられないことを知って、ミザントリは覚悟を決めることにした。どうなっても家が潰れるような悲惨な未来にはならない、はずだ。

「っ!?」


 右手を後ろから掴まれるまでは。


「ミザントリ様……」

 肩で息をして、自分の行動に戸惑った様子のクロードがいた。

 掴んでいるミザントリの手をどうしようか迷っている様子だった。舞台の上に予定されていなかった役者が飛び出してきたと、周囲はどよめいている。

(ど、どうしてこうなるの!?)

 求婚の現場に第三者が割り込むなんてとんでもないことだ。醜聞を疑われる。ヘンディも驚いた様子でクロードを見ているが、クロードの方は彼のことは見えていないようだった。ミザントリのことだけを見つめて、困惑した顔で苦しげにしている。どうにかしてほしいのはミザントリの方だ。次の行動が浮かばない。

「クロード国王補佐殿。わたくしは今、彼女に求婚しているところです。邪魔しないでいただけますか?」

「求婚……!?」

 お願いだから誰も何も言わないでこのままどこかへ消えて! と顔を覆いたかったミザントリだった。

「結婚を、決められたんですか?」

「今その返事をいただくところです」

 答えを求められていた。二人とも、望む言葉は正反対のもののようだ。伏せた顔を強ばらせて、震えているミザントリを見て何を考えたのか。

 クロードはそこに跪く。

「クロード様!?」

「――少しだけ私の話を聞いてください。ミザントリ様。幼い頃、あなたが抱いていたものを聞かされて、私の心は動きました。あなたの変化に気付いたからです。あどけない瞳で私を見ていたあなたが、ふとしたことで赤くなったり、声を慌てさせたり、憂いていたりする表情の変化に、いつの間にこんな女性になっていたのだろうと思って……」


 一体何を言い出すの。

 震えてしまった。何もかもが自分の周りから崩れてしまって、どこに立っているのか分からない。舞台はどうなったのだ。ミザントリの役は、何を果たさなければならないのだ?


「あなたの些細な変化を、ともすれば見逃してしまうような日々のあなたを、見ていたいと思うようになっていました。でも私は、人のように立場を得ることができない。何も約束することはできませんが」

 ミザントリの手をクロードは捧げ持った。

「あなたの変化を、近くで見ることが出来る人間になるために、必要ならば、さだめられた言葉を口にしましょう。ミザントリ様」

「――っ!!」


 事実上の、求婚だった。


 一歩退いていたクロードがやってきたことで、三人は同じ舞台に立っている。なんて茶番だろうと頭が揺れた。素晴らしく事件的な醜聞だ。これで一年は夜会の話題を賄える。ミザントリも関係ないところにいたのなら興味深く聞いていただろう。誰を、選ぶのか。

(クロード様は、いつからそんなことを考えていたの)

 それまで意識もしていなかったのに、ふとしたことで気に留めるようになっただなんて聞いていない。そんな重要な人物になっていたのなら教えてほしかった。こんな、とんでもないことを仕出かす前に。

 その時だった。めまぐるしい世界の中、静謐な思考が光のようにミザントリを貫いた。




 ――許す、許さないの境界は、相手をどう思っているかに尽きる。




 いちるの言ったことだった。

 彼女は、アンバーシュを愛し始めていた。もし、とミザントリは思った。求婚ではなく――そんな遠い将来を約束する言葉ではなく、いちるとアンバーシュのように、口づけをしようとした時に、わたくしはどちらを受け入れるだろう? どちらと、もっと触れ合いたい、知りたいと胸を焦がすことになるだろう……?

 ミザントリは手に力を込めた。抱かれた手を解き、絡める。



 クロードと触れる手に。


「…………っ」

 言うべき言葉が見つからずに、後悔を含んだ涙が急に浮かんできた。首を振り、けれどそこを動けずにいた。そんなミザントリは、立ち上がったクロードに攫われるようにして抱かれた。

 わあっ、と声が上がる。

 もう一つの姿になったクロードが、背にミザントリを乗せて飛び立ったからだ。

 呆気にとられて見守る人々の中、ミザントリは、こんなときでも祝福の微笑みを浮かべて見送るヘンディに、ただただごめんなさいを唱え続けた。

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