第十二章 十一

 本当は、ずっと、こうして欲しかったのだ。

 囚われていた王女の元に救いの主が現れるように、動けないでいるミザントリを有無を言わせずに攫って、どんなに涙を流して後悔をしたとしても、自分は後悔なんてしないと言ってくれる、迎えが欲しかった。

 けれど、ミザントリはこの選択を何度も思い返して別の道を想像する。それはもう、絶対に揺るぎない未来だ。

(何を悩んでも仕方がなかった。結局、わたくしがどうしたいかなのだった……)


 城の、東の花だという白い花が珠のようになって咲くその庭に連れてこられて、ミザントリはしゃくり上げていた。自然の音以外のものは聞こえない。あやすように撫でているクロードがそこにいるということだけが感じられる。この人には何もない。ミザントリが得なければならない、権力も家も立場も与えることができない、神々の領域の存在だ。

「…………なさい、ごめ、なさい……」

 そんな人が、ミザントリを選ぶまでにどんな決意をしたのだろう。自分は、この人といつまでもいられるものではないのに。

「こんなはずじゃ……誰かを、困らせるつもりは……」

「困っていません」

 クロードが強く言った。

「謝らなければいけないのは私の方です。泣かせるつもりはありませんでした。でも……あなたが泣いているところを初めて見たせいで、どきどきしてます」

 ミザントリはひくっと涙を引っ込めた。泣いたせいで揺れていた頭の芯が、今度は熱でぐらぐらと揺れてきた。

「ずっ……ずるいです、そんな、クロード様は、いつもわたくしのことをからかって、そんなことばかり、言って……」

「からかったことなんて一度もありません。いつでも本気で、あなたの変わっていく様子を、見ています」

 この人はアンバーシュの乳兄弟なのだ、ということが急に感じられた。あの人も奇妙に譲らない強い言い方をすることがあったけれど、多分クロードと彼は影響し合っているのだ。クロードの方が穏やかで理性的に見えるけれど、いつでも本気だから、もしかしたら一番怖いのかもしれない。

「あなたが好きです――多分」

「多分……?」

「えっ、あのいやその! ……自分でも、この気持ちがよく分からないんです。あなたが誰かのものになったり、会えなくなったり……変化を見ることができないのが、とても嫌だと感じて、それで……」

 あんまりにも必死に言い訳する様子にミザントリは噴き出してしまった。

「そんなに汗をかいて弁解なさらないでください。そう言われる気持ちは分かります。わたくしも……あなたのことが好きなのです、多分」

 始まってもいなかった、始める気もなかった、恋。

 ただ、全員が同じ舞台に立った瞬間、ミザントリはようやく選択の権利を得た。誰かと比較し、自分の心と照らし合わせて、その相手が好きなのかどうか。そうして、ミザントリは他の男性を選ぶのなら彼がいいと、クロードの手を取った。

「私たちにとって、あなた方の輝きは、本当に一瞬のことです」

 はっとミザントリは顔を上げた。

「イチル姫は、それでいいのならそこずっといろと言いました。でも私は、それと知っていても、あなたが変わっていく様を見ていられたらと思っていました。もし、あなたさえよければ、ゆっくりと始めてみませんか」

「……老いていくわたくしは、あなたにひどい言葉をぶつけるかもしれません。会いたくないと、言うかもしれません」

 かつて、暁の宮にいた女性のように、破綻が訪れない可能性はなくならない。いつまでも自分が若くないことをミザントリは知っている。そして、クロードはそれを目の当たりにしたからここにいる。

「人は、誰でも死ぬものです。私も、永遠ではない」

 クロードは再び跪いた。

「でも、あなたを追っていきます。あなたを忘れることのないままで」

 具体的な約束は何もない。これから保証された未来もない。

 それでも、ここから始めるのだろう。種を育てるような、長い、待つ恋を。





 表に戻ったミザントリは、セイラに頼んでヘンディを呼び出してもらった。人目につくというのに、再び東翼の庭に出た彼は、ミザントリが口を開く前に言った。

「どうか、謝ったりしないでくださいね。僕は引き際を知っています。敗因は、あなたと過ごした時間の多さというわずかなものだったと思います。もし、僕がクロード様と同じだけの時間をあなたと過ごしていたら、きっとあなたは僕を選んでいました」

 そうだと思う。彼は素晴らしい男性だ。これからの未来を約束してくれる、誠実な人だった。

「結婚式の答礼は、お約束通りあなたに捧げます」

「いけません、ヘンディ様」

「いいえ、祝福させてください。難しい道を選んだ、僕の大事な友人のために」

 どうして彼を選べなかったのか、ミザントリは悔やみ、ただ頭を下げることしかできなかった。この人の幸せを祈るしかない。今は、それだけだ。

「姫殿下の部屋でお会いすることがあったら、今まで通りにしましょう。今まで通りと言っても、まだ知り合ってさほど経っていませんから、僕たちも、これから友人になっていきましょうね?」

 差し出された手を握った。

「はい」

 温かく、優しい手だった。






 別邸ではなく本邸の自室に、ミザントリはいる。夜半も過ぎて、夜更かしと言われるような時刻だけれど、いくつかの邸では夜会が行われて、ミザントリの醜聞や、いちるとアンバーシュの結婚式について話題が交わされている。いつかそこへ戻って、一人で立っている自分を想像した。人々の好奇心や悪意にさらされて、心を痛めている自分。

(でも、大丈夫だわ。思ったより、怖くない)

 役は外れてしまったけれど、これから別のものになる。初めて自分が探し出して得る、まだあるかも分からない舞台の、名もない演者。騒ぎを聞いて父はひどく渋い顔をしていたけれど、アンバーシュからの申し出がなければ勘当されていただろう。いちるに感謝しなくてはならない。でも、お礼など言うと不機嫌になることが分かっているから、ミザントリは今まで通り、影から彼女を守るのだ。

(不思議ね。こうやって、わたくしみたいなものにも静かに物語がやってくるのだわ)

 ふと、窓の外に涼しい風が吹いたのを感じた。月明かりで浮かび上がった影に、ミザントリは微笑む。そして、窓を開けて、その訪れを迎えるのだった。



     *



 寝返りを打った時、隣にいるいちるが目を開けているのに気付いた。暗闇の中ではほとんど何も見えないはずだが、いちるの異能の力は、その気になれば真昼で物を見るように目を働かすことができる。

「眠れませんか」

 目が覚めたところだったので寝起きの掠れた声になった。いちるは、力は使っていなかったらしい。ぱっとこちらを向き、深く息を吐いた。

「クロードの言葉を考えていた」

「将来のこと、ですか」

 いちるは答えなかった。

 約束もできないのに、何も出来はしないと、クロードは言った。それは、人と深く関わってしまう自分たちの共通の問題だ。いつかオルギュットもそうだと聞いた。

 自分たちは、寿命の違うものに未来を約束することができない。必ずなにがしかの終わりを迎える。アンバーシュが苦悩したのなら、それを近くで見ていたクロードが何も思わなかったはずがないのだ。彼にも、悪いことをしたと思う。臆病にさせた。

「それが不幸だと、決めてかかっていることが不思議だと、思う」

 かすかな呟きに、アンバーシュは顔を上げる。

「終わりは、必ずしも不幸か?」

「終わらない方が、美しいですよ」

 かもしれない、と言って、いちるは真っ直ぐに暗闇を見ている。

「だがそれは、生きていることとは遠い」

 この世に在るものから目を背けるわけにはいかない、と独り言のようにいちるは呟いている。彼女の意識はどこを漂っているのだろう。魂を浸食するほどの苦痛を刻まれた過去だろうか。それとも、彼女が見てきた月日に葬り去った権力者と踏みにじられた者たちか。

 いちるがふと、顔を向けた。

「お前は、どちらがいい?」

 ああ、不安なのだ、とアンバーシュは気付いた。選択を終えても、確かめずにはいられないのだ。手を離せば終わる。どちらかが諦めれば分かれてしまう関係に、いちるは、知らず、怯えている。

 誰にも知られないよう、震える娘を飼っているいちるが、背筋がぞくりとするほど愛おしいと思った。磨き抜かれる前のいちるを、アンバーシュはこの前の出来事で知っている。彼女はかつて、長い生に怯えて、誰かの訪れを待っていたただの女だった。

「あなたがくれるものがいい」

 けれどいちるは、そんなものに心動かされたりはせずに、言葉遊びをしただけかのようにふっと息を吐いて笑うと、毛布を引き寄せて背を向けた。どちらも少しだけ本気で、少しも気に留める必要もないやり取りをしたのだ。本気になればいちるもアンバーシュも使える手段をすべて用いてやり合う。だからこれは、遊びと本気の間の言葉だ。

 アンバーシュは身体を寄せていくと後ろから腕を回していちるを抱え込んだ。

 二人で、同じ闇を見つめていた。

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