第十二章 九

[あんなことは、二度となさらないでください]

[余計だったとは言わせぬ。妾は目の前でせせこましく争われるのが嫌いじゃ]

 強い調子で言ったのに、いちるは傲然と顎を上げて返答した。アンバーシュは離れたところで苦笑しながらやり取りを聞いている。

[あなたもです、アンバーシュ。不必要にあの方を焚き付けないでください]

 クロードは主を批難したが、まったく堪えていない様子だった。自分は関係ないとばかりに、いちるの近くの椅子を引いて、彼女の側にあった酒杯を取り上げている。いちるは文句を言わない。慣れ切った空気が漂い、すでに夫婦の様子で、クロードの眉間の皺は深くなる。一体、何をどうすれば、突くだけで破裂していた関係がべたべたの甘味になるのだろう。

 外に声が漏れないために、念話を用いての会話になった。それをいいことに、昼間さんざんいちるに突かれた。

[何か言えだの、盗られるぞだの。何を盗られるというんです。ミザントリ様は誰のものでもありません]

[だが直に、ヘンディ・エッドカールの物になる]

 思わず睨んだ。獲物がかかった顔をして、いちるはこちらの表情の変化を見ているようだったので、目を逸らす。

[貴族の子女ならばよく知らない方と結婚もなさるでしょう。ミザントリ様は出来た方だったのに遅すぎたくらいです。おめでたいことです]

 彼女はよき妻となり、家を支えるだろう。やがてよき母親となって跡継ぎを育てる。娘であっても可愛らしいだろうし、息子であっても才気煥発な跡継ぎになる。恐らく自分は、その子が成長するのを今と同じ姿で見ることになる。見送ることに慣れすぎた二人は、すでにその感覚が鈍くなっているのだと思う。

[ミザントリが結婚したら、こちらに寄り付かなくなりそうで嫌なんでしょう?]

[夜には解放すればいい。そうすれば夫殿に文句は言われまい。言わせぬがな]

[そっ、そういう下品な言い方をしないでくださいっ! 姫はご自分が何を言っているか分かっていないでしょう!?]

 いちるの言葉は、アンバーシュへの攻撃をこちらに転じたものだ。とんだとばっちりだった。婉然と微笑むいちるに抗議すると、その首にアンバーシュが後ろから抱きついた。

[すみません、後からちゃあんと、俺が教えておきます]

[お退き!]

 瞬間、首から真っ赤になったいちるの怒声が響く。

[お前から教えられることなど、]

[何もないわけじゃありませんよねえ? 知らないこと、たくさんあったでしょ?]

 いちるが言葉をなくす。青くなったのではなく、先ほどまでの怒りが消えるほど真っ白に、燃え尽きるほど怒っているのだ。白い怒りの炎で身体を震わすいちると、にこやかに怒声を待っているアンバーシュは、以前と同じ光景だった。

 が、結んだ唇を震わせて顔を背けるいちるは初めて見る。

[とにかく……私はともかく、ミザントリ様を惑わすような真似はお止めください。振り回されるあの方がお可哀想です]

[何もしてやらぬ方が哀れではないか]

 睨み合いが、矛先を変えた。憤然と腕を組み、いちるは言う。だが、クロードも譲れない。

[私の立場の曖昧さを姫はご存じない。私は半神半獣で、決して人界に人と同じ権力を有することができないのです]

 それらの例外がアンバーシュとオルギュットだ。彼らは半分人であるという大義名分のもと、半分は神として王の冠を預かっている。私利私欲で動いた瞬間に、それらの権利を一瞬にして奪われる恐ろしい立場でもある。だからクロードは、いちるの存在を懸念していた。アンバーシュは、いちるに対して盲目になる瞬間がある。あれほど疑ってかかっていたくせに、今や溺れる寸前だ。

[仰りたいことは分かりますが、私はアンバーシュの補佐としての立場もありますし、アンバーシュという神の側に仕える者として越えてはいけない一線があります。約束もしてさしあげられないのに、することなど一つもありません。ミザントリ様はよい友人です]

[別に遊びを禁じたつもりはありませんが]

 アンバーシュ、と睨むと、彼は手を挙げた。

[茶化してません。それだけ彼女に対して真剣なのだなと見直しただけです]

 熱が上がったのは、己の意図しない何かが言い当てられたからだった。

 おや、といちるが呟いた。思いのほか上出来だと言わんばかりの声だ。発熱する頬を押さえてもとっくに見通している。背もたれに身体を預け、呆れたように言った。

[押せば動くと思ったのに。お前たちは頑固なこと]

[……動かないという選択をしたのです。そういう軽々しい気持ちで結ばれるわけではないと、姫、あなたもご存知のことと思います]

[動く気がないのなら止める。竦んでいるだけなら、もう一押し]

 姫、と情けない声を上げてしまった。これ以上引っ掻き回されてはたまったものではない。

[どうしてそんなに躍起になるのです。私もミザントリ様も、あなた方が望むように焦がれているわけではありませんよ!]

[妾には、どちらも怯えているように見える]

 いちるの目は静かにクロードを射竦めた。黒い瞳が優美に瞬くと、クロードの目は無意識に彼女が導く思考を辿らされる気がする。今は、考えてみろと立ち返らそうとする。

 適切な距離を取って歩いた。知人として、よき友人としての領分を侵さなかった。お互いに、手を伸ばせる距離に信頼を置いた。でも、きっと、それだけだ。相手が、傍らに永遠にいるわけではない。多分、どちらもそう思って、相手を解き放っている。

(そうか、彼女は……私を見送っていた少女のままなのだ……)

 姫君のような白い夜着を来て、月の光に照らされた瞳で見上げていた、あの少女が、今は憂いを秘めた大人びた表情で目を伏せるようになった。そう気付いた瞬間、胸に痺れのようなものを覚えた。つかの間、息が出来なくなる。

 もし、もし今のミザントリが、あの時と変わらず自分を見上げたらどう思うだろうかと考えてしまった。

 ――きっと手を伸ばす。

 その白い手が凍える前に。

[妾は強制しているのではない。急くなと制止しているだけのこと。周囲をおもねるのは仕方のないことだが、もう少し我侭に振る舞ったとしても、撥ね除けてやれるだけの力はアンバーシュにはある]

[俺ですか]

[妾がその権を得るのはもうしばらく先のことだ]

 だから、といちるは言う。一ヶ月前には想像もつかなかった優しさで、促す。

[クロード。今この時が失われてもいいのなら、そこにおいで]



     *



「お嬢様、そこでごろごろするならお部屋に行ってお休みになられてはいかがです? 夜更かしは美を損ないますよ! あたしくらいになればそんなの気にしない亭主がいるんですけどね。お嬢様、本当に眠れないんでしたら、アンザ特製の蜂蜜牛乳を召し上がったら、そりゃもうぐっすり眠れること間違いありませんよ!」

 別邸なのをいいことに、普段は客人も通す居間に、ミザントリは寝間着姿で長椅子に寝そべっている。足を上に載せて、そこで寝てもいいくらいの姿勢だった。行儀が悪い以前に、物を知らない子どものようで、アンザも口うるさくは言わない。うん、と気のない返事をして、枕を抱いて転がる。何故か知らないけれど気分が落ちている。隠れ家があって本当によかった。

 アンザが厨房へ消えると、部屋は静かになった。溜め息すら響く。

(鬱々とする必要は、ないのだけれど……)

 何もする気が起きない。眠りたくもないし、かといって動きたいわけでもない。気持ちや、誰かの訪れを待っているように、力なく横たわっている。物語ならばここに、迎えがやってくるのに。

 その役は自分のものではないと否定したくせにそんなことを考えている。

(わたくし、迎えにきてほしかったのかしら? 物語みたいに、素晴らしい恋と幸せの結末が待っていると約束してほしかったの?)

 セイラもアンバーシュも、見透かすようなことばかり言っていた。ただ、まずは受け流して後ほど噛み砕いて受け入れるミザントリは、まっすぐにその言葉を胸に響かせたわけではなかった。

 恋をしたがっている。物語のような恋を。

 選べるのに選べないでいる。現実を知っているから。

 でもどうすればいいのだろう。愚かなことはしたくない。誰かが不幸になる選択は避けたい。でも、この状況では、誰かが堪えなければならないのだと、思う。

「本当、みんな、好き勝手なことばかり言って……」

 疲れた笑いが漏れた。自分が率先して堪えたいわけではないけれど、一番楽なのは何もかも飲み込んで流れに身を任せることだと知っている。今の状況に何の不満もない。変えたいものもない。

 ただ少し、クロードとの仲が不安なだけ。

(結婚したら……)

 今まで通りにはいかないと思う。彼はミザントリを既婚者として距離を置くだろうし、ミザントリも積極的に関わらなくなるだろう。貞淑な妻として、誰にも疑われないように振る舞うからだ。素っ気ないほど分かりやすい未来だ。その後、生まれた子どもを見て可愛いと目を細める彼まで見える。

 それが、何故だか腹立たしかった。

 アンザの入れてくれた温かい蜂蜜牛乳を飲み、寝室へ行った。窓を開いて外に出ると、夏の虫が鳴く森が暗闇に沈んでいた。空は星と月で青かったけれど、今、目の前に広がる闇はどこまでも深い。しばらく涼しい風に吹かれていたが、部屋に戻って窓を閉め、帳を下ろした。

 寝台に横になって、枕元の蝋燭を吹き消す。目を閉じた。

 迎えは、来なかった。

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