第十章 五

 もう一度殴ってやらなければ気が済まないと思っていた。

 なまじ強い神であるゆえに、古神も持て余していた。アンバーシュは、お前などは、まだまだ青い、足りぬと小突かれ回されたが、要領のいいオルギュットは最初から先達と対等で、かつ殴り飛ばせる者などそうはいなかった。

 雨が降り始める。蒸気が霧となって漂い、焦げ付いた空気が流れていく。

 だがアンバーシュは脇目も振らず膝をつく兄の側を通り抜けると、横たわっているいちるに手を伸ばす。苦悶の名残が見て取れたので、柔く頬を撫でてやると、少し和らいだように見えた。うぬぼれではないはずだ。

 ここに来るのに時間がかかったのは、足止めを受けていたからだ。地上では、オルギュットの補佐であるレグランスが防衛を敷いていた。ナゼロフォビナに任せてきて、ようやく着いたのだ。

 ヴェルタファレンから遠くイバーマまで、突如現れたエリアシクルの言葉は、聞く者をひどく動揺させた。

 東神との争いが単なる兄弟の争いや覇権争いでなかったということも衝撃的だったが、それらのことが同年代の者たちに秘され続けていたとは、古神たちへの疑念を植え付けるのに十分だった。同時に、エリアシクルやギタキロルシュがいちるに対しひどく穏やかに接していたことに納得もいった。


 三柱の眠る土地である辿り着けぬ楽園と、そこに住まう乙女たち。

 アガルタを巡る西と東の争い。

 いちるが楽園の娘に関わる者であること。

 アガルタ――その一族シャングリラ。


 いちるが連れ去ってきたアガルタであるのかという問いに、エリアシクルはこうであろうという答えを口にした――しかし、アンバーシュはそれを話すことはないだろうと思う。

 怖いだけかもしれない。帰りたい、と言われた時、手放さなければ嫌われると知っているから。それでも――由縁を求めて苦悩し、諦観を染み付かせていた彼女に、これ以上の憎しみを与えたくなかった。


「何故、アガルタのことは若神には知らされない?」

 いちるの青ざめた顔を撫でながら、荒れ狂う異界の大気による苦悶を隠そうとするオルギュットを見下ろす。

「奪われたくないからだろう」

 微笑みの裏側に、透けるような憐れみがある。

「大神は老いた。己が欲望を隠しきれずにいる。そして、次代は生まれつつある。いずれ代替わりが行われるよ。私は、私かお前のどちらかが次なる大神に選ばれると思っているが」

「まさか」

「そうでなければ古きアストラスがアガルタへ帰りたいなどとは言わぬだろう。変化を感じるからこそ動くのだよ、すべてはね」

 アンバーシュは考え、心に留めておきますと言った。今答えを出さずとも、さほど問題はないように思えた。継承が行われるのならば、この二人で言い合って済む問題ではない。他の神々を交えなければ。

 辺り一面に盛っていた炎が消えていく。ここに関わる者は人ならざる者ばかりなので、司であるオルギュットはともかく、アンバーシュに影響はないが、神の司る領域については大打撃だった。異界は密に繋がっている。今頃、この地の影響を受けて、他の神々も急いで収拾に当たっているだろう。異界の道を閉ざし、浄化をせねば、人という種の生活に関わる。

 だが、とにかく、ヴェルタファレンに戻りたかった。他を蔑ろにしても、例えそれが世界の理に関わろうが、自分にとって最も大事なのはここにいる妻だったから。

(でも多分、後ですごく怒る)

 想像しながらいちるを抱き上げたときだった。オルギュットが、目を細めていやらしく笑っているのが目に留まる。

「何か」

「それは、本当に君が欲した女なのかな」

 ――何を。

 全身が総毛立つ。まさか、この男は取り返しのつかないことをやったのか。肩を震わせ、目を光らせて笑い出す。愉悦の嘲笑。後先は逆だが、アンバーシュが彼の領域を侵した償いをさせようとしている。

「お前は私に感謝すべきだよ。大神は生死は問わぬと仰せだった。私が願いでなければ、イチルは死んでいた」

「オルギュット!」

「心配するな。死んではいない。恋しい女を殺すような真似を私がするものか。さあ、早く地上に出ねば、亡者どもが襲いかかってくるぞ」

 まだ、企みがある。だがオルギュットの言うことも最もだった。この場所は彼の気配が濃すぎる。また、アンバーシュが荒らしたために混乱している。この地をならして治めねば、地上へ影響が出るだろう。

「謝りません」とアンバーシュは言った。

「殴りもしません。後で、イチルに殴られてください」

「楽しみにしている。その時が来るなら」

 癇に障る物言いをして追い立てられた。炎に包まれる花園から遠ざかり、異界を抜ける。




 イバーマ王宮の上空に出たアンバーシュは、大気が澄んでいることを知って幾分気持ちを和らげた。死者の花園で、無関係のものを巻き込んだ自覚はあったのだ。これについて、アストラスはどのような処罰を下すだろう。それとも、面白いからと、いつものように見逃すのだろうか。

 腕の中でいちるが身じろぎする。濃い睫毛が、怯えるように震え、瞼が開く。

「……ん」

「……目が、覚めましたか。気分は? どこか痛みませんか」

 大きく瞬いたいちるは、ゆっくりと辺りを見回し、前にのめるようにして馬車の縁に飛びついた。大きくぐらついた車の中で、必死に彼女を支えながら、その動揺ぶりに目を見張る。

「イバーマ上空です。やっとオルギュットが解放してくれましたよ。ミザントリとクロードも逃げ切ったようです。ヴェルタファレンに戻りましょう。みんな、心配しています」

 いちるは目を激しく動かして、自分のいる場所がどこか知ろうとしていた。その必死さを訝しく思った。いちるは、激しく動揺することがあまりない。いくつかの例外は自分が仕掛けたものだったが、空の上からの景色など泰然と眺める性格のはずだったのに。

「イチル……?」

 呼びかけた腕の中で、彼女が飛び上がった。思わず手を離したのは、恐怖が見て取れたからだった。狭い車の中で、出来るだけアンバーシュから遠ざかろうとする。

「…………」

「え?」

 聞き取れぬ言葉。東の言葉だ。

「なぜ……ここは? わたしは、村に引きずっていかれたんじゃないのか?」

[イチル。どうしたんです]

 力を使って呼びかけたのは無意識だった。これならば通じると直感的に思ったのだ。突然鳴り響いた声にいちるは頭を押さえ、恐れの眼差しでアンバーシュを見つめ返した。

[落ち着いて。力を使って、呼びかけてください。頭の中で思ったことを、伝えようとしてみてください]

 言われた通り、振る舞っているらしい。手に取れるほど流れ込んでくる、怯え。普段は彼女自身が遮断しているもの。困惑。混乱。激しい動揺。そうして伝わったものは、アンバーシュを激震させた。


 ――お前は、だれ……?


 初めて見る者にする顔をして、娘は問いかけた。






[一部があれば必ず辿り着く]とオルギュットは囁きかけた。

 アガルタの娘の魂を解き放ち、道を案内させなければならない。だが、魂の一部を切り離しても、時間はかかるが同じことができるはずだと、アストラスは言ったという。そうして、オルギュットはいちるの魂に刃を当てたのだ。

 結晶化させた銀の枝が、いちるの魂の記憶だった。

 ギタキロルシュは空を駆ける。銀の枝花を抱いて。別れ際にオルギュットから手渡された、アガルタの娘の欠片。今より、アストラスの元へと。

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