第十一章 花食み、あるいは言問うた者

第十一章 一

 銀の帯が見える。

 その内側で明るい星が明滅している。

 暗闇に包まれた場所は息が出来ないほど冷たい。自身の体温が失われていく。

 歩みが止まる。

 この川をどこまで辿っていっても、終わりが見えないと知っている。底知れぬがゆえに覗き込むが、囚われたいとは思わない。

 それでも、その果ての望む場所がある。

 際まで行き、彼は手にしていた銀の枝をそっと浸した。手を離すと、流れに乗って、地下へ、深い異界へと下っていく。しるべとなる光が枝に結ばれ、手の中にあることを確認してから、彼は花枝が向かうところを思う。

 空高き、緑萌ゆる大地。忘れてしまったその楽園の名前。ようやく手にしたアガルタなる乙女たちの存在は、彼に優しい憎しみをもたらす。

(お前たちは愛されているのか。私たちは分たれてしまったのに、未だにその園で遊ぶのか。神でもなく人でないアガルタ。お前たちが私たちより愛されているわけがない。そうであるなら私はとうに罰されている。だから、三柱の愛はまだ私の元にある)

 対岸に、人の影がある。

 黒い髪、閉じられた瞳は何も映さないが、深い紅をしている。

 遠くて近しい片割れ。アマノミヤ。

 唇が動いて何かを言う。彼、アストラスには聞き取れないが、何を言ったのかは分かる。

 二人は、同じ言葉を吐き出す。


「わたしたちは、かえりたいだけなのだ」


 第三者たる闇もまた、同じ言の葉を紡ぐ――。



     *



 半月経っても、アンバーシュは戻らなかった。それで滞りなく政が回るヴェルタファレンは異常だとセイラは思う。そういう機構を作り上げたアンバーシュもまた。

 緊急の際に直通となるクロードもアンバーシュに遣われて国に帰還しない。結局、別の者に言付けるだけして、セイラは己で調査に乗り出すことにした。

 宮廷管理長官補佐エシ・ベリエダに頼んで、神々や魔眸の動向のこの一年の記録をすべて開示させたのだ。

 兄のごとく活字の虫となったセイラは、十日間も記録室から出て来れなかった。騎士団の仕事以外、寝食すらも読み物に当てて、何者がロッテンヒルに近付いたかを照らし合わせた。

(やっぱり、ある日を境に急に魔眸が動いている)

 活発になっているので森の奥に近付かないように、と近隣の村々で警告がされた記録がある。

 ヴィヴィアンの家の荒れ具合、魔女を訪れた人々に発見されないぎりぎりの日数、水の腐食。そういうものを挙げていくと、魔眸の頻出と一致する、と感覚が告げる。

「やってきたのは、神でなく魔眸……」

 ちょうどそこが記録室だったため、魔眸の性質についても調べておく。

 魔眸とは――。

 人の悪感情に取り憑き、悪事を唆す性質を持ったもの。現出し、獣と同じく人を襲って危害を加えるもの。人の悪事を更に悪化させるもの。つまり、悪と呼ばれるものの総称。意志があるのかは不明。

 よく見られるのは精神的な影響を及ぼすものだが、死者の姿を得た魔眸も確認されているらしい。セイラ自身は見たことがないが、子どもはよく言われるものだった。

 悪いことを考えれば、魔に取り込まれるよ。

 魔に取り込まれれば、死んだとしても、永遠に魔に使わされて苦しみ続けるよ。

 だから汚い言葉を使うなとか、生活態度を改めろという戒めに用いられる文句だ。

 セイラの脳裏にあの家がよぎる。

 暖かであるはずの小さな家。しかし、そこに至るまでの暗い道程。訪れる者はほとんどなく、過去の光が消え入りそうな淡さで光っている。

 アンバーシュは会ったと言った。もし胸に抱いていた光が急に輝きを帯びたとすれば、ヴィヴィアンの目に映った世界はどれほど暗いものだったろうか。

(一番いいのは)と最悪を想定しながら呟く。

(ヴィヴィアン様が、魔眸の誘いを撥ね除けて殺されたこと。あるいは、意志を奪われて道具にされていること)

 ――もしくは、彼女自身が魔眸の手を取った場合。

 扉が叩かれる。若手の宮廷管理官だった。ずり落ちそうな巨大な眼鏡を支えて、騎士団の方がいらしてますよと言う。なるべく他者の入室を許したくない記録室なので、外に出ると、部下が頷きを返した。少し出てくると告げて、廊下に出る。

「報告を」

「対象の出身を可能なかぎりということでしたので、王都の五十代を中心に聞き取り調査を行いました。不幸なことがあったということで、かなりの人間が暁の宮の先住の方の名前を覚えていました」

「詳細を記憶していたものは」

「おりました。『裏街』のガストールという老人だそうです」

 裏街と聞いて眉をひそめる。治安は悪くない王都だが、唯一の例外がそう呼ばれている。調停者の膝元なので、他国に比べて行儀はいい方だろう。セイラももうしばらく直接足を踏み入れていないが、子どもの頃はよく出入りしていた。

「『裏街』で聞き込みはしたんですわね」

 肯定が返る。少し厄介だ。街の情報は街の住民が持っている。裏街の長は、恐らくこちらの動きを察知しているだろう。情報の持ち主が裏街にいると知れ渡っているなら、ガストールは長の庇護下にあるのだ。

 部下に礼を言って、この件から引くように言う。

「後は引き受けます、なんて、本業を疎かにして言う台詞ではないかしら?」

「こうと決めたら団長は譲らないでしょう。知っていますよ」

 騎士団長の放蕩は、今に始まったことではないのだ。年上の副団長と別れ、衣装を変える。街に下りるのならば、相応の服装をせねばならないのだ。


 ちょっといい帽子を被って、いい服を着れば、鴨の出来上がり。裏街に足を踏み入れた途端、あちこちの暗がりから注目を受けたので、しばらくすれば長に話が行くだろう。でも今はとりあえず、ガストールなる老人に話を聞くべきだ。

 セイラの能力が遺憾なく発揮されるのは、その行動力の高さ所以だ。入念な準備も必要だが、セイラは速度を重視する。能力の高い者は、その場で臨機応変に切り抜けられるものだ。部下に任務を与えるときには必要最低限のものを持たせて送り込むことも少なくない。

 ガストール老の住居は、思ったよりも清潔にした総合住宅の一室だった。階段を上りながら、退路を確認する。密集し、整頓されていない裏街は、壁を伝えば窓からでも脱出できるのが利点で難点だ。老人ならばすぐに逃げられることはないと思うが、自身の退路は確保しておく。

 扉を叩き、呼びかける。わずかに扉が開き、覗いたのは、まだ年若い娘だった。歳は、いちるの見た目とほとんど変わらないだろう。金色の巻き毛に青い瞳をした、可愛らしい外見だ。

「ガストール氏はご在宅ですか」

 ちょんと帽子を摘んで微笑みかける。

「どちら様でしょう」

「お話を聞きたくて参りましたの。バークハードと申します」

 どこのバークハードだと思ったことだろう。貴族のバークハードなら、余計に何の用だと思うはずだ。だが、奥から声がかかり、客を招くように言ったらしい。扉が開けられ、可憐な少女が姿を現す。どうぞ、と不審そうな声で促された。

 室内は、彼女の手によってだろう、古い板間は綺麗に掃除され、花が生けられている。慎ましい暮らしが見て取れる。窓辺には老人が揺り椅子に座っていた。招かれざる客人に、ゆったりと皺を重ねた目元を和ませる。

「ごきげんよう。セイラ・バークハードと申します」

「あんたのことはよおく知っとるよ。ガキ大将」

 セイラは微笑んだ。

「婦人を敬称するには、いささか下々の言葉に過ぎますわね」

「裏街の小娘が王妃候補に挙がる時代さ。小汚いガキが騎士団長になったって驚きやしないよ」

「誰のことを話していらっしゃるの?」」

「さてな。何が本当で何が嘘だったのか。この裏街では、真実は嘘で、嘘は真実になる。あらゆるものが両面を持っている。情報を扱う者次第で表と裏は変わる。あんたは、それをよく知っとるだろう?」

「わたくしは、言葉を遊ぶのは、わたくしだけでいいと思っていますのよ」

 だん、と足を踏み鳴らす。

「ヴィヴィアン・フィッツという人物について知っていること、洗いざらい話していただきたいのですわ。お礼はいたします」

「気取ってるなあ、ガキ大将」

「……失礼。わたくしも遠回しな物言いをするから悪いのですわね。では、直接的にお尋ねします」

 こほん、と咳払いを一つ。微笑みは極上に。

「――じじい。残り少ないてめえの時間、更に少なくする暇なんてあんのか? さっさと知ってること白状しやがれ」

 後ろで派手な音がした。少ない皿を割ったのだろう。だが、片付けることを考える以前に、少女はセイラを呆然と見ているのが分かった。風で乱れた前髪をそっと撫で付けて、セイラは微笑む。そうして、手袋をはめた指を立てて、そっと唇に持っていった。少女は真っ赤になって、目を背けるように割れた皿を片付ける。

 老爺は楽しげに唇を歪めた。

 相手を欲していたのだと、その顔を見て気付く。

「わしが知っとるのは、自分は、雷霆王に王位を簒奪された本物の王家の末裔だって酔うと繰り返す父と健気な娘が、こんな場末で暮らしていたってこと。その娘が、身分も顔も隠した変な貴族と交渉したらしいってこと。それが、」

 男は、セイラの顔色が変じる様を、じっくりと眺めその名前を口にした。

「それが、ヴィヴィアンって名だったこと」

 凍り付くような沈黙があった。

 野太い笑い声が響く。ひび割れるような。


「――なあ、こういう世界にはどこにでも散らばっている、おとぎ話だろう?」

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