第十章 四

 あまねく古神に記憶された一つの光景。楽園の記憶。美しく、汚れなき大地。空が輝き大地萌ゆる、始まりの場所。

 三柱に近しい神々は一つの目的を抱いていた。

 いつか、我らの故郷へ。生まれきたその楽園に帰りつき、父母たる三柱の元で憩おう。柱は我らを見捨てたもうたのではないはずだから。

 大神は命じた。その地へ続く鍵を手に入れよ。唯一の手がかりは、水が続いているということ。水の流れを辿り、異界に踏み分けていけば、必ず門か鍵が見つかるはず。


「我が行かずとも、ビノンクシュトか、その他の水の神が深く暗いその流れを下ったであろう。運が悪かったのだと、今では思っておる。本来ならば隠されているはずの乙女が、姿を現すことがなければ……」


 秘められた地の扉は、外から開くことはない。そも、辿り着けるかすら怪しい。その道を下るのは死に向かって走っていくようなもので、だから、乙女が姿を見せたのは彼女の不幸であっただろう。本来ならば、隠されるべき乙女は、自ら外界を覗き、誘拐者の手から逃れることはできなかった。

 神馬が秘された乙女を攫った動きは、すぐに東神に知れることになった。乙女を手に入れるべく、彼らもまた追尾の手を伸ばした。


 ギタキロルシュは、この時、エリアシクルがどう行動したかを知っていた。

 神々の力に揉まれ、溺れそうになった乙女を救うべく、自ら手を離したのだ。

 結果的に、乙女は東の手に渡り、エリアシクルは同胞から追及された。乙女を道具として扱おうとする西神を糾弾しながらも、彼は疲弊し、己の住処から出てこなくなった。

 やがて、乙女を取り戻すべく、戦いが始まった。東神は乙女を秘匿していたが、何の動きも見せなかった。しばらく経って、西神も気付いた。どうやらその乙女は、楽園への道筋を覚えていないらしい。何の情報も得られぬまま、東神は乙女を飼い殺しにしていった……。



「……今になってアンバーシュが手を伸べたのは幸いであったし、東神も手を離したのは幸運であった。だが、始まりがなければこうはならなかったのではないかと、考えている」

 そこでギタキロルシュは疑念の目を向けた。

「本当にあれはアガルタなのか。見たところ、人の形をした何者かにしか思えん」

 友は淡く微笑み、答えを口にする。

「――――……」

「……なんだと……?」

 もしそれが真実ならば、とギタキロルシュは怖気を震った。

「楽園への道筋は西神には閉ざされたということか」

「安心せい。東神も手に入れてはおらぬ。こちらに預けたのは様子見よ。西神を生贄に様子を見ておるのさ。今度のことは、東神も願ったりであろうよ」

 それを、エリアシクルは鼻で笑ったが、哀れだ、と急に声音を低めて呟いた。

「イチル。可哀想に」

 楽園に住む乙女の名は総じて、その土地と等しい名で呼ばれる。


 アガルタ。


 地上に連れ去られたたった一人の乙女が、この世界を狂わせていくのかもしれないと、神山の守護神は寒さを覚えるように思った。






 道を開けてやってきた銀の男を、古い神々は迎えた。腕に力をなくした娘を抱いたオルギュットの胸元は、激しく血で汚れている。エリアシクルが批難するように眉をひそめると、オルギュットは大仰に「御出でとは」と笑った。

「己の所行の終は気になると見える」

「口を慎むがいい、雛よ。本来ならばお前の腕にあるのは、触れること叶わぬ者ぞ」

「すでに汚れたアガルタの娘にどのような価値があるか、お聞かせ願えるのならば」

「オルギュット」と気色ばんでギタキロルシュは詰った。半神の中でも最も強力なこの者は、自分すら知らなかった東の娘の素性を知っているのだ。

 ――アガルタの娘はすでに汚れている。

 そして、その腕の中の娘は……――。

「貴方がたにはなくとも、私の中のイチルの価値は変わらないが」

 血の気を失って青ざめた女を抱いた腕を揺らして言う。

「それが何なのか分かっているのか」


「アガルタの地の者。黒髪黒瞳、ゆえにシャングリラの一族。この身体から魂を解き放つことによって、アガルタへの道筋を案内させる。何か補足が?」


 ギタキロルシュは口を噤んだ。

 アガルタに住む乙女たちもまた、東と西のように分かれているという。黒髪黒瞳と、東の人間と同じ容貌を有する娘をシャングリラと呼び表す。そう言ったのは大神だが、疑わしいものだった。何故なら、アガルタのシャングリラを見た者は限られており、誰ももう一方の実在を知らなかったからだ。

 オルギュットは祭壇にいちるを横たえる。意識の欠片もなく、重たげに身体を投げ出している。衣服は血の染みで黒い。そうして見れば、険しさはなく、だが輝きもない、無垢で透明なものがそこにあるように思える。そうしてオルギュットはいちるの顔を覗き込んで、ふと微笑んだ。

「ずいぶん、執心して見えるが?」

 贄にできるのかとエリアシクルが暗に問う。すでに衣装を汚しているが、それだけではなく、その血が失われるまで切り刻まなければならない。身体から解き放つというのは、そういうことだった。

 オルギュットは美しい微笑みを浮かべた。

「殺しはしない。父神とも折り合いを付けた」

 何百と年下の若造に向けて、二神は訝しく眉根を寄せた。確かに、アガルタへの道程と獲得の方法については、大神でない神々には未知数のことが山ほど存在する。大神が是と言えば、可能な方法があるのだろう。

 ギタキロルシュはオルギュットがいちるに向けて特別な情を抱いていることに気付いた。多分、弟への当てつけではない本物の。

 オルギュットは祭壇からそっと刃を取り出した。水晶と銀で出来た、間違いなく神具だ。それを、横たわる娘に当てる。

 あ、と小さな苦痛の声が聞こえた。声は、自制がないために響き渡った。耳を塞ぎたくなるほどの絶叫。意識がないことは幸いかと、ギタキロルシュは自分勝手に安堵していた。

(仕方がないのだ。我らは、かえりたいのだ……)

 その場所へ。戦いも血も死も存在しないそこへ、いつか。

 祭壇がいちるの身体を拘束し、抵抗を防いでいる。オルギュットは刃を滑らせて、何かを切り離そうとしていた。中身に触れる刃は激痛をもたらすのだろう。無力な悲鳴に、ギタキロルシュはついに唇を噛んだ。

 アガルタに、辿り着かねばならない。

 だが、この悲鳴の先にあるとはどうしても思えなかった。

 自分でそうなら、この娘と関わりのあったエリアシクルはどう思っているのだろう。エリアシクルは、決して凍ることはないはずの水が凍り付いたような光に乏しい目をして、儀式をじっと見据えている。何故動かない、とギタキロルシュは思った。かつてアガルタが傷つくならばと手を離したはずの彼が、この儀式に何故動かぬのか。


 動く必要がないからだ、と気付いたのは刹那の後だった。


 次の瞬間、凄まじい轟音が響いて異界が揺れた。空間を作り出していた壁が下方から消失していく。炎に舐められて。

 青白い空間は、砂糖菓子が溶けるように消えていき、オルギュットの守護地である死の国の門前の花畑が広がる。常ならば黒から白へと移り変わる花々で埋め尽くされているそこは、火に巻かれた炎獄と化していた。乾いた空にひびが入るようにして雷鳴が轟いている。遠くで、それが落ちた。

 途端、崩れ落ちるようにしてオルギュットが膝をついた。オルギュットの周りに、穢れを抱いたままの魂が飛び交い、浄化を欲して彼の周りに群れて飛ぶ。みるみる力を削がれていきながら、酷薄と自嘲にオルギュットは笑った。

「……愚かな弟だ。死の国の門前を汚すことを厭わず、妻を連れ戻そうというのか」

 次の地へ放たれない死者たちは行き場を失い、己の知っている唯一の道、地上へと戻ろうとするだろう。そうなれば地上は魔眸のみならず、霊魂が彷徨う危険なものとなる。もちろん、オルギュットにはそれを阻む役割がある。彼がこの地へ留め置かれたのは明白だった。

 エリアシクルはまるで意図したかのような計算高い微笑みを合わせた両手の中に収める。大神への嘲笑だった。

「万物を司るとは、笑わせる。アストラス。アマノミヤ。お前たちは、今でも楽園から遠ざけられているではないか」

 水の柱が一つ立ち上り、場所を知らせる。熱せられた大気に散ったそれは、雨雲となって空を覆い始める。エリアシクルはそうしてその場から姿を消した。

 馬車を駆って飛来したアンバーシュは、怒りをたぎらせて、兄であるオルギュットを目指してやってきた。ギタキロルシュはオルギュットと意味ある目を交わし合うと、己もまた飛び立った。

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