第十章 三

 宮殿は、地上のそれを丸ごと映してきたかのように酷似していた。ただ住まう者が限られているため、不必要なものを切り落とせばこの大きさになるのだろう。象牙色の柱、壁。大理石の床。南国の植物が鬱蒼としていたはずの中庭は、何も植わっていない。中央部分から音もなく何かが湧いて、白い霧を足下に満たしていく。

 ずっと、花の香りがしている。水気の多い大気に、百合のような香りの強い花の香。何かの術や、毒性のあるものであってはいけないと、少し息を殺しているのだが、甘い香りはこの地を満たしているものらしい。ふと壁に目をやり、違和感に足を止める。

 理由はすぐに分かった。壁の絵が違う。


 三つの人物が立っている。三という数字に当てはめられるものは一つしかない。太陽神、月神、そして大地神。三柱と呼ばれる創造主たち。

 その絵には彼らの周りに娘たちが群れている。花を捧げ、髪を編み、歌って踊る。描かれているのは髪の長い娘たちばかりなので、牧歌めいて感じる。


「忘我した記憶」

 オルギュットの顔を見る。

「この絵の題だ。私たちが忘れたものが描かれている。若神が増えた今では、覚えているのは古参の者ばかり」

「何を忘れたと?」

「始まりと終わり。私が知っていて、アンバーシュが知らぬことだ」

 歩き始めた男の袖を掴み、引き止める。

「それは、あなたが死者の国の番人であることに関わることか」

 ざわり、と男の背後の影が濃くなる。

 西の神々は特殊だ。数が多いせいもあるが、彼らは己の能力とは別に、雑多な役割を引き受けている場合が見受けられる。アンバーシュは雷霆王と名のつく通り、雷を操る能力の持ち主だが、役割である座はヴェルタファレン国主だ。ナゼロフォビナは交渉事の神だというが、守護すべき土地があるという。ビノンクシュトは水の女神でビナー大河の守護神。フロゥディジェンマは光狼の後継者。

 ゆえに、オルギュットも別の役割を持つのだろうと思っていた。銀と浄化に関わる者だとは分かっていたが、ここに来て理解した。

「この異界は死者の行き場。そしてあなたは、その管理者だ」

 男は紫眼を呼吸に合わせてゆっくりと細めていった。

「命の巡りを考えたことが?」

 不意の問いかけは謎に満ちていた。


 魂の巡り。生まれて死ぬ命。始まりの場所。死者は最後に時と運命の神々の元へ行くという。だが、死生の循環を司っていたはずの大地神が眠りについたため、魂は巡ることはない。


「輪廻が失われたと言われている」

「死した魂は消滅する。だが、俗世の記憶を帯びているため、そのまま送っては消滅した時に穢れをまき散らすことになる。私はそれを洗い落とす役割にいる。君の、死者の管理者というのは的を射ている。ここは死の門前の庭だ」

「生を司る神がいない」

 あなたが死の番人であるならば。

 いちるの呟きを拾って、オルギュットは麗しく微笑んだ。

「我々からは遠ざけられている」

 しかし声は表情に反して悲嘆にくれていた。

 神々とその座は、求められる数だけ存在する。ゆえに、死の番人たる神がいるのならば、生を司る神がいてしかるべきなのだ。

 だが、いない。遠ざけれていると、オルギュットは言う。そしてすべての誕生は、未だ失われずにいる。

 ――誰が、その役割を負っている?

「役目であるはずの大地神は眠り、次代も生まれない。ゆえに、魂は消滅する。それでも魂を帯びた命は生まれて消滅し、また生まれてくるだろう? その行程を例えるならば、花が咲き、枯れるが、種が残らない。いつまでも咲いた花だけが送られてくる。この、場所から」

 オルギュットは壁画を示した。

『忘我した記憶』。三柱の眠る土地。


「巡るはずの力は消滅する。だが、別のものを支える力が、新たに使われるために、少しずつ失われていく――世界の形を変えねば、いずれすべてが朽ちるだろう」


 男のまなざしは続いていちるに注がれていた。否応にも己がそれに関わるなにものなのかと気付かされ、いちるは囁くように問いかけた。

「死の果てが、わたくしとどんな関係があるというのか」

 恐れが貫いた。

 一度解を置いたはずの問いに、また別の答えが与えられようとしている。

 己の由縁。何者かという問い。何者でもなく、異形である自分。例え何者であろうと自分は雷霆王の妃なのだと刻んだはずなのに、目の前にこれ見よがしにぶら下げられれば目を見開き、縋ろうとする。醜悪な己に吐き気を覚えながらも、胸騒ぎが収まらない。

 神でなく、人でない。魔眸を持たず、けれどやはり人間でないのならば。

「君は死」

 オルギュットは言った。

「そして生。大神すら忘却した、原初の地への鍵――」

 息が途絶えた。

 短く吐き出したものは苦悶になる。



「か、……はっ……!」

 肺が潰れ、喉から血が溢れた。

 オルギュットの右手が胸に刺さっている。



 男は倒れ込むいちるの耳元を撫でるように囁いた。

「痛い思いをしたくなければ、じっとしていろと言ったね?」

 だから君が悪いのだ。麗しい微笑みで王はいちるを責める。口の端から零れた真紅が、顎を伝って胸元に落ち、金の飾り編みを染める。鮮やかな血。ではこれはやはり人の身体。

 だが、オルギュットの言の葉の意味が取れぬ。

「う……ぐ……」

 身体が修復を始めるが、オルギュットが手を入れたままの部分が、ぎちぎちと音を立てて激痛になる。筋繊維が男の手に絡み、戯れに引かれると絶叫しか出なかった。身体がびくびくと震え、足にはもう力が入らない。そうはしたくないのにオルギュットの胸の中に倒れ込んで、苦痛を耐えるためにしがみついていた。意識を失ってはならない、そう思うがために血の味がする唇を噛む。

「大丈夫だよ。悪いようにはしない。身を委ねて……」

 その顎を捉えたオルギュットが、唇ではなく、鉄の味がする汚れた箇所を舐め上げる。銀夜王と呼ばれる男が、己の血で穢れていく様を、いちるは嫌悪の目で見つめた。

 激痛がもたらされる。この男は拷問を心得ている。激痛を与え、わずかに和らいだところで再度、意識を手放したいと思える痛みを打ち込む。視界が暗くなり、闇に落ち込んでいくのが分かる。

 この持てるものは、死であり、生であるという。


(それは――『すべて』というものではないのか)


 伸ばした手は空を掻く。

[……ア…………]

 呼び声は、恐らく届かない。

 意識は、銀と夜と死者の番人の手の中に消えていく。



     *



 祭壇だけをしつらえている。ある程度の力を持つ者ならば、異界に住処を構えることができる。建物を造るには、相応の神の助力が必要だが、壇だけならば簡単に用意を整えられる。人の世界ではなく異界であるのだから、人がするような仰々しい清めは必要ないはずだったが、やはり道具があれば便利だと誰かが言っていたのを思い出す。

 翼を折り畳んで、意識を回転させる。鳥から人の姿を取ると、短く刈り込んだ髪とは対照的に、長い白裾が薄青の闇に染まる床に落ちた。西の大神アストラスの神域を守護する巨鳥の神ギタキロルシュは、そうして、先客の存在に驚いた。

「お前。エリアシクル」

 湧水の神馬もまた、青い髪を持つ青年の姿になっている。

 ずいぶん顔を見ていない昔馴染みに、ほっと肩の力を抜いたのもつかの間、何故ここにいるのかという答えを見つけて、ギタキロルシュは険しい顔を向けた。それを「そう恐い顔をするでない」とエリアシクルは楽しげに笑った。

「恨んでいるから、ここにいるのではない。お前たちと離反したのは、そのやりようが許せなかったからに過ぎぬ」

「恨んでいるんじゃないか」

 からからとエリアシクルは笑った。年若い男の姿だが、こうして笑うとやはり年寄りじみている。だがそれはギタキロルシュがいつも側で見ているアストラスが馬鹿馬鹿しいほどに子どもっぽいからかもしれない。

 ――そして彼はその欲望のまま世界を振り回すのだが。

「アストラスは、鍵を開けるか」

 水の底のような瞳で問いかけられる。

「西と東の戦いの発端はそれだった。遅すぎたくらいだろう」

 ギタキロルシュは答え、祭壇に近付く。地上のイバーマ国では、これと同じ祭壇が存在し、長く使用されてきた。オルギュットが止めさせた、血の生贄もこれで行われている。

 自分たちが今から行う儀式を否応にも思い知らされる。

 エリアシクルは深い底に沈むかのように、じっと床に視線をやっている。ふと、昔話をしようという気になった。思案に沈んだ挙げ句、成す術がなかったと己を責め、また大神の振る舞いを糾弾した後、厭世しマシェリ湖に引きこもった友。

「悔いているか。自分が、あの土地からアガルタを攫ったことを」

「因縁だと、思うておる」噛み締めるようにエリアシクルは答えた。


「この世のすべての者が見失った、かの楽園への道筋を思い出すべく、神々は手段を講じていた。我らに記憶されているのはかの地に銀の川が流れ、大地が輝き、乙女たちが憩っていたことのみ。ゆえに、その地へ唯一通じているのは、死と生を繋ぐ銀の川と言われていた」

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